後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

相模湖の風景を見ながら水力発電のロマンを想う

2015年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
相模湖は自宅から一番近い湖です。車で40分です。1962年に東京に住むようになってから家族連れで何十回も通っています。ダム湖ですが豊かな自然に囲まれているので天然の湖のようで楽しいのです。藤野から少し山に入った所に「山並み温泉」という温泉もあります。
湖畔は神奈川県立公園になっていて美しく整備されていまます。
昨日も午後から家内を伴って相模湖を眺めて過ごしました。昨日撮った写真をお送りいたします。

上の写真が舟遊びの施設がそろい公園になっている湖畔の部分です。白い建物は旅館やお土産店です。

上の写真は緑豊かな相模湖の風景を示しています。

上の写真は土産物店のある広場の堰堤から見た相模湖です。

上の写真は公園広場に展示してある相模湖発電所で昔使われてい発電所1号機タービンの展示です。出典は、http://yoshifusausui.blog.jp/archives/1019164162.htmlです。
相模湖の魅力は風景だけではありません。
この写真のような昔の水力発電所の施設が展示してあることも魅力です。
この展示は私に水力発電のロマンを感じさせるのです。全国に散在している水力発電所の美しい風景を想わせてくれるのです。
水力発電は清らかな山の水を永久に使い続けます。その水を山の上に運び上げるのは太陽なのです。海から水蒸気が上がり、雲になり、風によって山へ運ばれ、雨になって降るのです。その全てをつかさどるのが太陽なのです。
原子力発電のように有害な放射性廃棄物を出しません。人間の美しい智慧を感じさせます。
芸術家も同じように水力発電所にロマンを感じるらしく、その風景を描いています。

上の写真の絵は岡鹿之助の「雪の発電所」です。出典は:http://www.us-vocal-school.com/weblog/music_life/archives/images/2012/01/120108_snow.jpg です。
ところで水力発電所は全国の山々に2000ケ所近くあります。その一覧表や発電の方式は末尾の参考資料に掲載してありますので、ご興味のある方はご覧下さい。
そこで以下に美しい発電所の風景写真を幾つかお送りいたします。

上の写真は相模湖から近い山梨県の七ツ沢水力発電所です。同じ相模川水系の水力発電所です。ここは私のお気に入りの場所なので何度か訪れてこのような写真を撮っています。
写真は七つ沢水力発電所の水の導管が桜花の上に写っています。この圧力管の下に発電機が4基入った立派な建物があります。凄い水音がしていてさかんに電気を作っている様子が実感できます。

上の写真は美しい磐梯熱海の水路式水力発電所の丸守発電の写真です。
この写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/i_haruo/e/70b0386d0dabe9e4217685ec7a8660b7です。
熱海町(福島県郡山市)には水力発電所が3ヶ所あり、猪苗代湖の水を引いて来て、発電しています。磐梯熱海温泉街から見える丸守発電所は大正10年に建設され、当時は大峰発電所と呼ばれていました。ちなみに、猪苗代湖(福島県)に最も近い沼上発電所は、福島県内で2番目に作られた発電所です。発電機3台で合計出力5900kW、最大使用水量は毎秒8.18トン、有効落差は87.36m、です。

上の写真はイビデン東横山水力発電所です。
写真の出典は、http://www.ibiden.co.jp/company/facility/higashiyokoyama.html です。
最大出力、13600Kwです。

上の写真は山梨県企業局所有の柚ノ木水力発電所です。
写真の出典は、http://www.pref.yamanashi.jp/news/200607/images/img_1152002499763.JPG です。最大出力、17800Kw、有効落差:264.40mです。

上の写真は四国電力の伊尾木川水力発電所です。
写真の出典は、http://www.suiryoku.com/gallery/kouchi/iokigawa/iokigawa.htmlです。
最大出力:7700Kw、落差129.90m です。

それにしても日本は山紫水明にして美しい風景に恵まれています。雨も多く生活に困ることはありません。
その上、山々に多量の雨が降るのでこのように2000ケ所近くの水力発電所があるのです。
何故かしみじみとこの瑞穂の邦に生まれ育ったことに心が和みます。静かな幸福感につつまれます。相模湖畔に来て美しい風景を眺めているとこんな想いが湧いてくるのです。昨日も家内と散歩しながら水力発電のロマンを語りました。家内は礼儀正しくうなずいていますがロマンをかんじないようです。人それぞれです。
あなたがロマンを感じるのはどのような時でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
==========参考資料=================
(1)水力発電所の総数といろいろなランキング
エレクトリカル・ジャパンのHP(http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/type/4.html.ja)に1973カ所まで明記してあります。
しかしこの1973ケ所の発電所には昭和電工や揖斐川電工のような民間会社の所有する水力発電所は含まれていません。ですからそれらを含めると2000近くなると思えます。
戦前からカーバイト製造や溶融アルミ電解製錬や高温合成化学などの製造をしていた民間会社は自分で水力発電所を持っていたのです。現在でも多くの民間会社が水力発電所を所有していると思われますので1973カ所より数百ケ所多いと考えるのが適切と思います。
さてそれはそれとして、水力発電所には水路式発電所とダム発電があります。
発電所の最大出力のランキングは以下のようになります。
最大出力の左は完成当時のもので、右のは現在の最大出力です。右の数字の出典は、http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/type/4.html.jaです。
1位、田子倉           38万Kw   40万Kw
2位、奥只見           36万Kw   56万Kw
3位、佐久間           35万Kw   40万Kw
4位、黒4             33万Kw   33万Kw
5位、有峰第一(成願寺川)  26万Kw   26万Kw
上の5つはダム式です。
上の最大出力の40万Kwや50万Kwという値は普通一個の火力発電所の出力が120万Kwという値に比べるとかなり小さな値です。
水力発電が日本の全電力の10%以下しか発電していないのはこの小さな最大出力能力のせいなのです。
さて最大出力が大きい発電所でも水がすぐに枯渇するようなところは頼りになりません。
そこで各発電所の年間総発電量のランキングを見る必要があります。
1位、佐久間    年間発電量:143万MWh
2位、信濃川    年間発電量:119万MWh
3位、黒4      年間発電量:93万MWh
4位、新小千谷   年間発電量:85万MWh
5位、千手      年間発電量:72万MWh
・・・・・・
9位、奥只見     年間発電量:61万MWh
10位、田子倉    年間発電量:59万MKh
上のランキングを見るとJR東日本の所有する新小千谷発電所や千手発電所が良い発電効率を上げていることに驚きます。
ダム式水力発電所には上でご紹介した水力発電所の他に揚水式水力発電所が沢山あるのです。
電力の要らない夜間に火力発電が余るのでその電力でダムの下から上へ水を上げて置くのです。そして夏場の昼間の電力不足が起きそうな時にドッと上の水を流し、大電力を得るのです。
ダムの上流からの水の補給が無い場合には、夜間に使う電力より昼間の発電量が少なくなります。上流からの水の供給が無ければ揚水式水力発電所は正味の発電量がマイナスになります。ですから揚水式発電所は厳密な意味で発電所ではありません。
しかし巨大な蓄電池の役割をするので電力危機を救う重要な役目があるのです。その最大出力ランキングは以下のようになります。
1位、奥多々良木        193万Kw
2位、奥清津第二        160万Kw
3位、奥美濃           150万Kw
4位、新高瀬川          128万Kw
5位、大河内            120万Kw
以下省略、詳しくは、http://www.enecho.meti.go.jp/hydraulic/kid/learning/top.htmlにあります。
(2)相模湖ダムの目的
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E3%83%80%E3%83%A0
相模ダムは多目的ダムとしては沖浦ダム(青森県・浅瀬石川。1991年水没)や向道ダム(山口県・錦川)と並ぶ河川総合開発事業草創期に建設されたダムである。その目的としては直下流の津久井発電所地点において慣行水利権分の用水を供給する不特定利水、相模原台地一帯2,700haへのかんがい用水の供給、横浜市・相模原市・川崎市等神奈川県の大部分への上水道(日量894,000トン)・工業用水(日量186,000トン)の供給、神奈川県企業庁電気局管理の相模発電所(認可出力31,000kW)における水力発電で、補助多目的ダムである。ただし洪水調節機能は保持していない。
完成後渇水時の水量確保と発電能力増強を図るため1951年(昭和26年)よりダムを2.0mかさ上げを行う相模ダム再開発事業が行われ、1954年(昭和29年)に完成している。これ以降も相模川総合開発事業は継続され、1966年(昭和41年)には洪水調節機能も有する城山ダム(津久井湖)が完成し、治水と利水に更なる貢献をした。この他支流の道志川に建設された道志ダムや中津川に建設された宮ヶ瀬ダム(宮ヶ瀬湖・国土交通省関東地方整備局管理)との間で相模導水を行い、相互に貯水を融通することで効率的な水運用を行っている。
相模ダムは完成後60年以上経過した現在においても、横浜市・相模原市・川崎市や京浜工業地帯の水源として、神奈川県を見えない所で支えている。だが近年では堆砂の進行が懸念されており、湘南海岸の砂州後退の原因の一つであるとの指摘もある。このためダムを管理する神奈川県企業庁は相模ダムに堆砂した土砂を定期的に浚渫し、相模川下流の河川敷に堆砂を積み洪水時に自然に相模湾へ流下させる対策を現在行っている。
(3)日本の総発電量の発電方法により割合
http://sustainablejapan.jp/2015/02/24/electricity-proportion/13961
2012年時点で、割合が最も大きなものがLNGで42.5%、その他、石炭と石油を合わせた火力発電で、実に88.4%を占めています。火力発電の割合は2009年当時は61.7%でした。この急速な火力発電依存の背景には、ご存知の通り原子力発電所の稼働停止があります。

 歴史の長い水力発電は一般水力と揚水発電を合わせて8.4%。揚水発電とは何かは後ほど説明します。一方、期待されている再生可能エネルギーは1.6%。こちらも2009年当時は1.1%でしたので、0.5%伸びましたが、それでも割合は非常に小さいと言わざるをえません。もちろん、政府の電力固定価格買取制度導入以降、学校や民間などで積極的な再生可能エネルギーの導入がありましたが、今回のデータは電力会社だけが対象となっていますので、その増加分は反映されていないことは注記しておきます。
 発電総量が2010年以降減少していることも、興味深いポイントです。東日本大震災から約4年経ち、市民の生活にはほぼ節電の印象はなくなりましたが、実際には電力会社の発電総量は当時には戻っていません。日本が発電量を減らしながら持ちこたえている背景には、企業による節電努力があると言えそうです。

日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?

2015年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。すると以下のような時代区分が出来ます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代 前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間(正確には13700年間)も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。
ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食べることの出来る植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。
日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い旧石器時代の生活の実態が少し分かりました。
以下にその概略を示します。
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見と言う理由を簡略に以下に書きます。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の岩宿遺跡の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。下の写真がその相模川です。

ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。
下の写真に2万年前の石器時代の住居跡を復元したものを示します。

上の写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

そして上の写真は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

上の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

上の写真は旧石器時代の男性が石器の穂先をつけた槍を構えている様子を示しています。

上の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

上の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。

上の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
こうしてこれらの写真を見るとこの地域の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。
このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方の庶民に限って考えれば、ほとんど変わらなかったというのが真実に近いと私は想像しています。一方、支配階級の生活は時代が進むと大きく変わっていったと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。
歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝え、それを学校で教えますが、一般の人々を想像すると興味がつきません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

はさみやま遺跡
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。

こんなものも趣味と言えるでしょうか?

2015年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生まれですので、戦前の国民学校、戦後の小学校、そして進駐軍の命令で出来た新制中学、新制高校で教育を受けました。そして大学に入りアメリカ人の宣教師から英会話を習い始めました。
そうしたら「あなたの趣味は何ですか?」と何度も聞かれます。趣味はありませんと答えると悲しそうな顔をするのです。そして趣味は人生を豊かにするので是非良い趣味を持ちなさいと言います。
そして昔の市販の履歴書の用紙には学歴、職歴などの欄の下に「趣味」という欄がありました。学校の先生はそこには無難な「読書」とか「映画鑑賞」とか書けば良のですと教えてくれました。
そこで英会話の時、そのように答えることにしました。
ところがアメリカ人の先生は、それは誰でもするから趣味ではありません。読書ならどのようなら分野の読書か、映画鑑賞ならどこの国のどのよううな種類の映画かとかもっと自分独自のものが無ければ趣味とはいえませんと言うのです。これには困ってしまいました。
無趣味、無芸で人生を過ごし、50歳前後に中古のヨットを入手し、25年間楽しみました。自分独自の楽しみ方をしました。これでアメリカ人の英会話の先生から貰った宿題を完成したような気分になりました。
それから、1974年から山林の中に小さな小屋を作りそこに通うことを楽しんでいます。小屋に行けば周囲の山々をただ眺め、木々を眺めウロウロするだけです。
アメリカ人の宣教師はこれを趣味と言うでしょうか?
こんなものも趣味と言えるでしょうか?
それはともかく昨日もそんなことをして楽しんで来ました。
他人が何と言ってもこれは40年以上続いた私の唯一の趣味です。
それでは撮って来た写真でご説明いたします。

上の写真は山梨県の西端に聳える甲斐駒岳です。小屋はこの山麓の林の中にあります。小屋まで入ってしまうと森のかげになりよく見えなくなります。そこで小屋に上がる道の入り口でしばらく甲斐駒岳を眺めています。昔は頂上まで登ったものですが登山は趣味でないので2度登っただけです。

上の写真は昨日の八ヶ岳です。雲がかかっていますが、それも風情があって良いものです。八ヶ岳は西岳に一度だけ登っただけです。写真の左下に写っている野菜は見事なネギです。写真を撮っているとネギの良い香りがしました。

上の写真は小屋の窓から見上げた冬木立です。青空に伸びる枝のシルエットが何かを語りかけているようで眺めていても飽きません。

上の写真は小屋の近所に独りで住んでいる友人を訪問した時の写真です。荒地に小さな車と家内の後ろ姿が頼りなげに写っています。この風景を何度も見ては人間の無力さ小ささを感じます。あんなに高速道路を力強く走っていたこの車は荒地に来ると無力になってしまうのです。その上、周囲の木々に比べるとあまりにも小さいのです。そして小さな家内の後ろ姿を見てなんとなく感謝の気持ちが湧いてきます。山に来ると家内に感謝する気持ちが出るのです。不思議です。

上の写真は小屋に上がる悪路の入り口にある水田とその向こうの雑木林の風景です。
春になると田植えが済み、雑木林が新緑に輝きます。とても気に入っている風景なので、ここを通るたびに車の外に出て深呼吸をしながら写真を撮ります。
この風景は40年間変りません。ただ雑木林の木々の高さが2倍くらい大きくなっただけです。
水田の風景は40年間、寸分変わりません。ただ田植えと刈り取りは大きな機械で一挙にするようになりましたが。
以上が私の趣味です。こんなものでも趣味と言えるでしょうか?
皆様はどのような趣味をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

古刹、平林寺の紅葉を何も考えないで楽しむ

2015年12月02日 | 写真
埼玉県新座市には平林寺があり、その広大な境内は紅葉の名所です。
一昨日、家内と紅葉を見に行きました。何も考えずにただただ体を紅葉に浸すように楽しんで来ました。
写真をお送りしますので、お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。











この平林寺の紅葉情報は、http://kouyou.yahoo.co.jp/detail/ac0311si34668/に出ています。
12月になっても、まだまだ楽しめます。場所は新座市の市役所の斜め向かいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料=====
古刹、平林寺の岩槻での創建から新座の野火止への移転と現在に至るまでの経緯:http://www.heirinji.or.jp/about.html
関東にその名を知られる平林寺は、武蔵野の一角、野火止台地に約13万坪の境内地を有する禅寺です。正式には金鳳山平林禅寺(きんぽうざん へいりんぜんじ)といい、臨済宗妙心寺派の禅刹であり、開発されていく武蔵野にあって往昔のたたずまいを残しています。
創建から野火止移転まで。
南北朝時代の永和元年(1375)、武蔵国騎西郡渋江郷金重村(さいたま市岩槻区)に、大田備中守の帰依によって建立。開山は、当時鎌倉建長寺の住持だった石室善玖禅師。岩槻城主の大田備中守春桂蘊沢居士の帰依によります。
天正18年(1590)5月、豊臣秀吉の岩槻城攻めの際、兵火によって伽藍の大半を焼失。
天正19年(1591)、江戸入りした徳川家康は、鷹狩りで岩槻を訪れた際、焼け残った塔頭の聯芳軒に休息し、軒主乾叟から名僧石室禅師開山による平林寺の由緒を知り、伽藍再建のため朱印状を与えて、騎西郡内50石の土地を寄付。
天正20年(1592)には、家康の手習い同輩であった駿河国臨済寺の鉄山宗鈍禅師を迎えて中興開山としました。
続く雪堂禅師の代に山門・仏殿・衆寮等の伽藍を修造して旧観に復しましたが、これには中興された平林寺の檀那である大河内氏の外護に拠るところが大きかったと言われています。
元和4年(1618)、大檀那である大河内秀綱が死去。平林寺が葬送の地となり、それ以大河内氏の霊廟となりました。秀綱の孫にあたる信綱が大河内家から長沢松平家へ養子に入り、のち別家して大河内松平家を興したことにより、平林寺は大河内松平家の祖廟となりました。
野火止移転、その後。
幕府の老中で川越藩主となった松平信綱は、江戸と川越の中間にある野火止の原野に平林寺を移し、先祖供養の地にしようとしました。しかし当時の住持幽巌禅師は「池ができて澄んだ水があってこそ、月は来るものだ」と語り、「水の無い所に人が住めるであろうか、かような所に仏様は移転を喜ぶであろうか」と諭したと伝えられています。
承応4年(1655)、信綱は玉川上水完成の功績により、同上水からの分水が許され野火止用水を開削。近隣の村々を潤すことができたとともに、それにより幽巌禅師の憂いは払拭され、平林寺の野火止移建が実現することとなりましたが、寛文2年(1662)、信綱は志半ばにして世を去りました。開削から350年以上を経た今でも、信綱が作った野火止用水を境内で見ることができます。
父信綱から平林寺移建を託された子の輝綱は、喪の明けるのを待って移転を幕府に出願。幕府は当時、寺の新規建立を規制していましたが、遺言を遵守しようとする輝綱の切なる願いを聞き入れました。
寛文3年(1663)、輝綱は岩槻平林寺の伽藍及び墓石に至るまで野火止に移し、これに伴い、幕府は同5年7月に、岩槻の寺領に替えて新座郡西堀村と西屋敷の分、合わせて50石を野火止平林寺の寺領として安堵しました。
元禄7年(1694)正月、黙雲禅師の代に輝綱の子で川越藩主松平信輝は、下総国古河に転封となったため、平林寺は一時、のちに川越城主となる柳沢吉保の支配地となりました。
宝永元年(1704)12月、柳沢氏は甲府に転封となり、川越には秋元喬知が入府。しかし野火止領五カ村は川越領とはならず、上野国高崎藩主松平輝貞に与えられました。信綱の孫であり、輝綱の六男である輝貞は、将軍綱吉から「武蔵国新座郡の内祖先の廟所これ有り、願いに付いて永く下し置く」と文言を副えた知行宛行状を与えられました。
こうして、再び平林寺は大河内松平氏の支配するところとなり、明治の世を迎え、現在に至っています。
そして、今。
昭和62年(1987)10月、当時開山石室善玖禅師の600年遠諱が、23世糸原圓應老師により滞りなく行われ、また敬山禅師の願望により進められていた寺史編纂も完了。御遠諱の記念として『平林寺史』が春秋社より刊行されました。近年、武蔵野といえば平林寺とまで言われるほど、その名は知られ、親しまれています。武蔵野の面影を残す広大な境内林とともに、創建以来、実に約640年の永きにわたり、禅の法橙を伝えているまさに「関東の名刹」です。