後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

格差社会の諸問題を考える(1)日本で非正規雇用が増大する原因

2016年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、以下の2編の記事を書いて日本はますます格差社会になって行くと指摘しました。
「日本社会の格差が年々増加している」 2016年03月31日
「日本社会の格差が年々増加している❕ その原因」 2016年04月02日
この1番目の記事によって、日本の貧富の差が次第に拡大していくことを明確に示しました。
そして2番目の記事では、何故日本の人々の収入格差が年々増加しているか?その原因を考えてみました。
原因を簡単に言えば、バブル経済の崩壊で年功序列型の給与体が維持出来なくなり、能力主義の給与体制に変化したのが原因になっています。社員の個人収入に大きな差をつける一方で全体の人件費を縮小したのが原因なのです。
その上、収入格差が増加している原因が他にも二つあるのです。それは非正規社員の増加と高齢者の増加です。
そこで今日は日本での非正規雇用増加の問題に限定して考えてみたいと思います。
例えば2014年の日本における非正規雇用者の割合は37%にも増加しているのです。
この日本の非正規雇用増大の傾向は日本がアメリカ社会を追随しているからだと言われています。
更に下の参考資料に示したように、日本の政府は非正規雇用者を保護する明確な法律をいろいろ作り、結果的には非正規雇用の拡大の原因になっているのです。
現在、日本では正社員になると雇用が安定し、簡単には解雇出来ません。
しかしアメリカの正社員は会社の損益次第で簡単に解雇出来るのです。ですからこの点だけを見るとアメリカでは社員の全員が日本の非正規社員に相当することになります。アメリカには正規雇用と非正規雇用の区別はありません。
さて、日本の女性は相変わらず出産と育児が正社員を続ける障害になっているそうです。勿論、正社員には出産休暇があり、育児のためにもいろいろ配慮がされています。しかし仕事というものには連続性が重要であり、そしてチームでする仕事もあります。出産で中断すると働きにくなります。それでつい非正規雇用に変えてしまう場合もあります。
その上、女性の仕事にはパートタイムで出来るものも多いのが実情です。
従って女性の非正規雇用は2014年に50%を越えたのです。
一方、男性の非正規雇用率が増加している原因には2つのことが考えられます。
第一は会社に就職すると残業が多くて、長時間、会社に縛られ家族と一緒に食事をしたり、自分の趣味を楽しむ時間が無くなります。
この点、残業の全く無いアメリカの会社と日本の会社は非常に違うのです。
最近の若い日本人は会社に縛られないで自分らしい人生を大切に考える傾向が強いのです。
はじめから非正規社員になって自由に人生を楽しむ道を選びます。
もう一つの理由は転職の機会に非正規雇用になる場合が増えてきたのが原因になっています。
正社員になっても自分の才能が会社の要求に合致しないと非常に少ない給料で甘んじなければなりません。会社の利潤増加に貢献出来ない社員は給料が非常に低いのが能率主義による給与制度です。
そこで自分の才能に合致した会社を探して転職するのです。アメリカで転職が多いのはこの事情によるのです。
日本では転職をすると一般的に雇用条件が悪くなります。それならいっそ残業の無い非正規雇用に切り替えようとします。
その上、日本の会社は社員に忠誠心を要求するのです。それが若い人に心理的圧迫になります。
このような伝統的な会社文化があるため若い人々が非正規雇用の道を選ぶようです。
結果として非正規雇用の割合が年々増加しているのです。
そして日本の正規雇用と非正規雇用の収入差が大きいため、日本全体の収入格差が増大するのです。

さて私の記事の読者は高齢者が大部分です。昭和時代に会社で正社員として働いていた方が多いと思います。ですから将来も非正規社員の割合が増大する日本の状態に危惧を感じていると思います。私自身も時代の大きな変化に驚いている後期高齢者です。そこで高齢者からのコメントをお待しています。
今日の挿絵代わりの写真は先日、京王フロ-ラルガーデンで撮った花の写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






=====参考資料============
非正規雇用に関する主な法令等の一覧、
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/part_haken/seido/index.html
非正規雇用 に関連する主な法令、最近の改正内容、制度の検討状況(建議、報告書等)を紹介しています。
1、有期労働契約
2、労働契約法のあらまし
3、労働契約法の改正について~有期労働契約の新しいルール~(平成25年4月全面施行)
4、有期労働契約の更新基準の明示~労働基準法施行規則が改正されました~(平成25年4月施行)
5、パートタイム労働
パートタイム労働法のあらまし
労働政策審議会建議「今後のパートタイム労働対策について」(平成24年6月)
6、労働者派遣、その他 労働者派遣制度の概要
7、 派遣で働くときに知っておきたいこと(派遣労働者の皆さまへ)
8、労働者派遣を行う際のポイント(派遣会社の皆さまへ)
9、 派遣社員を受け入れるときのポイント(派遣先の皆さまへ)
10、労働者派遣法が改正されました(平成24年10月、27年10月施行)
11、「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」報告書(平成25年8月)
12、その他関連法令
雇用保険の適用拡大(平成22年4月施行 )
雇用保険の適用基準を緩和し、非正規雇用労働者に対する適用範囲の拡大を行いました。
厚生年金・健康保険の適用拡大(平成28年10月施行)
非正規雇用労働者のセーフティネットの強化のため、厚生年金・健康保険の適用拡大を行います。

日本に生まれた幸運に時々感謝する

2016年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム
感謝をすると心の財産が増えたような感じがします。特に自分が日本に生まれた幸運に感謝すると心が豊かになるのです。しかし何時も感謝して生活することは難しいものです。そこで時々思い出しては感謝しています。これが生活を楽しくする方法なのです。
今日は日曜日なので肩の凝らない気楽に読める記事をお送りいたします。
具体的に私が何故日本に生れたことに感謝しているか順々に書いてみます。
(1)何と言っても70年余も戦争が無くて平和な国なのです。こんな幸せなことはありません。感謝しています。
(2)四季の変化に従って花々が次々に咲くこの土地が好きです。美しい風景が彼方此方に沢山あります。春になると暖かい風が吹き、秋になれば涼しい風が吹きます。気候も温暖です。このような国に生きることが出来たのです。感謝しています。
(3)人々が穏やかで親切です。高齢になると電車やバスに乗ると気持ち良く席を譲ってくれます。道を聞くと途中まで連れて行ってくれます。スーパーでもレストランでも働いている人々が実に親切です。感謝しています。
(4)この国では何処に行ってもトイレが清潔で完璧に掃除してあります。昨年、五島列島という離れ島を旅しましたが誰もいない不便な集落に立派なトイレがあるのです。訪れる旅の人の為です。島の人々の心が豊かなのです。その光景を思い出して感謝しています。
(5)この国は穏やかな仏教国です。宗教を信じない人もお寺や仏像を大切にしています。京都や奈良や鎌倉には外国人に自慢したくなるような美しい寺院や神社があります。例えば私の好きなお寺は607年創建の法隆寺と752年創建の東大寺です。そして唐から波濤を越えてやって来た鑑真の建てた唐招提寺です。759年に創建されました。これらの寺には何度も行きました。荘重な本堂、五重の塔の美しさや廻廊や長く延びる土壁の光景が心に焼き付いています。
このような美しい寺院の沢山ある国に育ったことに感謝しています。
(6)この国の素晴らしさは自然や神社仏閣の美しさだけではありません。工業製品の高い信頼性には感動しています。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが故障しないで何年も使えるのです。それを苦心して作った技術者の良心を思うとこちらまで心豊かになります。
特に最近買ったニッサン・ノートという車には感動しています。走行性能の良さもさることながら、車の前後左右にカメラとソナーが多数ついていて360度周囲の映像がテレビ画面に出るのです。これには感心です。車の出し入れや車同士のすれ違いが実に安全になったのです。この様な工業製品を作り出す国に生きていることに感謝します。
このように書いているとすぐに10以上のことが書きだせます。
皆様はこの国のどのようなことに感謝していらっしゃいますか?
それを列挙していると何故か心が豊かになります。その状態を「心の財産が増えた」と考えるのです。
下に法隆寺の写真3枚と東大寺と唐招提寺の写真を順に示します。法隆寺の写真の出典は:http://kenbox.jp/photo/horyuji.htmです。
お寺の写真を出したのは私が好きな風景だからです。自分はカトリックの洗礼を受けて45年になりますが仏教も好きです。キリスト教と仏教の混淆的なものを大切にしています。今日は日曜日なのでカトリックのミサに行きます。ミサに出るのが楽しいのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










=====参考資料==================
法隆寺:607年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
東大寺:752年創建
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
唐招提寺:759年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。

「今日は、山に咲く桜の写真を撮りに行きました」

2016年04月02日 | 写真
今日は小雨模様の暗い一日でした。こんな日は山に咲く桜の風情も良いと思い裏高尾の旧甲州街道を小仏峠への入り口まで行きました。
旧街道をゆっくり車で登りながら山に咲いている桜の花の写真を撮って来ました。山の雑木林に咲いている大部分の桜はソメイヨシノです。
それでも今日は一本だけ葉の出ている山桜を見つけました。電車の写っている写真は旧甲州街道沿いに走っているJR中央線の貨物列車です。
如何でしょうか。雨もよいの山に咲く桜には何とも言えない風情があるのではないでしょうか。









日本社会の格差が年々増加している❕ その原因

2016年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム
先日は、「日本社会の格差が年々増加している」という記事を掲載し、日本の貧富の差が次第に拡大していることを示しました。今日の記事はその続編です。何故日本の人々の収入格差が年々増加しているか?その原因を考えてみたいと思います。
日本の貧困率は先進国の中ではアメリカについで2位です。日本より貧困率の低い国はオーストラリア、イギリス、カナダ、ドイツ、フランスなどなどです。
そして収入の格差を示すジニ係数を見ても日本はアメリカ、イタリア、イギリスなどについで10位です。格差の少ない国はフランス、ドイツ、スイス、オーストラリアなどがあります。
統計の取り方には多少の疑問がありますが、大筋では間違っていないと思います。
この統計結果は国際的に信用されているOECDによって2005年2月に発表されました、
それ以来、この統計結果は世界中で引用され、経済に関心のある人々の常識になっています。
さて、それでは何故、日本の収入格差は年々、大きくなってきたのでしょう?
この原因の一番大きなものは1990年頃のバブル経済の崩壊以後、会社の給与体系が年功序列体制から業績結果や能力差によるアメリカ型の給与体制に変わって来たためです。
バブル経済の崩壊で大会社は年功序列型の給与体制を維持出来なくなったのです。会社の利潤の増加に大きな功績のあった役員や社員の給与を大幅に昇給し、貢献しなかた者の給与は減少させる、いわゆる能率給の体制を次第に作っていったのです。
この結果、会社全体の人件費を下げても、社員の競争心のおかげで利潤の増加が期待出来るのです。
これこそアメリカ流の給与に対する原理的な考え方なのです。
バブル経済の崩壊で起きたもう一つの大変化は親会社と子会社の関係が崩壊し、親会社から見放された子会社が経営難になり社員の給与を下げざるを得なかったのです。当然、大会社と中小企業の間の給与の差が拡大します。
簡単に言えば、少数の社員の給与が大きく増額される反面、大多数の社員の給与は大幅に下がったのです。ですから貧富の差が拡大するのは当然です。
貧富の差が拡大しましたが日本のGDPは減少しません。それは多分、少数の優秀な社員の貢献だったのでしょう。このアメリカ型給与体系は日本のいろいろな分野に「成功報酬的な考え方」として深い影響を与えているのです。
さて近年、相変わらず収入格差が増加しているのは、上に書いた業績結果や能力差による給与体系への変化に加えて、非正規社員の増加と高齢者の増加が原因として重複的に加わって来たためと考えられます。
それでは非正規社員の増加を示す図を見てみましょう。図面の出典は、総務省統計局HP;http://www.stat.go.jp/info/today/097.htm です。

もう少し詳しく見ると、正社員の比率が大きい製造業は生産拠点の海外移転などで雇用が減り、パートの多い小売やサービス業で働く人の割合が高まっているのです。
なかでもパートやアルバイトとして働く人が多い女性は、2012年に非正規の比率が57.5%と、半数を大きく上回っているのです。
さらに 正社員だった人が転職の時に非正規になる流れも強まっています。
ある調査では過去5年の間に転職した人を見ると、転職前に正社員だった人のうち40.3%が非正規になったという話もあります。詳しくは、「非正規社員の増大の傾向」:http://www.garbagenews.net/archives/2039205.html をご覧ください。
ついでに学歴による正規雇用率の違いの図面を示しておきます。
出典は、http://www.garbagenews.net/archives/1954673.html です。

この図面を見ると世間一般のイメージ通り、高学歴ほど正規雇用率は高いのです。男性では大学・大学院卒で9割に近づいているのが明快に分かります。
さて最後に日本社会の高齢者増加による収入格差の拡大です。しかしそれは高齢者の受け取る国民年金や厚生年金が現役の正社員の給料より格段に少ないことがら簡単に理解出来ます。特に説明の必要が無いと思います。

さて上に書いた格差拡大の原因は日本がアメリカ型の資本主義を見習い、それを導入している限り無くならない原因です。ですから日本の個人の収入の格差は今後も次第に増加する筈です。
この結果は日本の社会は大きく変える筈です。その利害得失や功罪については機会をあらためて描いてみたいと思います。
今日の挿絵代わりの写真は春らしく萌え出る多摩川の岸辺と三鷹市の花と緑の広場で撮った写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








「今日は石神井公園の桜の写真をお楽しみ下さい」

2016年04月01日 | 写真
今日は少し寒い曇り日でした。午後から車で40分ほどの石神井公園に行きました。池にさしかかっている桜が水面に映えていて良い風情をかもし出しています。若緑の柳も櫻花を引き立てています。池の周りをゆっくり散歩しました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









春爛漫、楽しいハウステンボス、よもやま話

2016年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム
春爛漫です。こんな季節になると3度も訪れた長崎のハウステンボスというテーマパークの楽しかったことを思い出します。
そこで今日は撮って来た写真をご紹介したり、ハウステンボスについてのよもやま話をしたいとおもいます。
ここでは、オランダの街を、建物ごとそのまま引っ越して来たような不思議な空間が広がっているのです。
他のヨーロッパの街には見られない風車小屋とチューリップ畑とそれを取り巻く運河の風景が広大な敷地に広がっているのです。
ここの魅力は運河のある風景です。
ただ散歩しているだけで静かなヨーロッパの文化の香りがしてきます。時間がゆっくり流れるのです。それでは私共の撮った写真に従ってご案内致しましょう。

ハウステンボスを散歩していると、何処からも風車小屋はチューリップ畑の向こうに見えるのです。

このテーマパークの一番印象深いところは運河を遊覧船で巡ることです。この遊覧船が重厚で如何にもヨーロッパ文化を背負ったような内装なのです。ふんだんにマホガニー材を使って落ち着いた内装なのです。その上、余裕のある大きなジーゼルエンジンがついているので、航行中も静かな低音のエンジン音が聞こえるのです。そのエンジン音がなんとも言えず心地良いのです。

この写真は運河を航行する遊覧船の上から見たオランダの建物群です。

船が静かにゆっくり運河を巡ると違った街の風景が見えます。

そして風車小屋も見えます。
私の趣味はヨットだったのでつい船や水のある風景に魅かれるのかも知れません。

上は1600年にオランダから来航したデ リーフデ号を復元した船です。

上はあまりにも美しかったチューリップだったので撮った写真です。

上はこの美しいチューリップ畑の向こうに見える風車小屋の風景です。

上はオランダの王の森の中の宮殿です。ちなみにハウステンボスとは「森の中の宮殿」という意味です。

上は中心にある高いドムトールン塔からの俯瞰写真です。ハウステンボスの四分の一以下しか写っていません。
この広大な場所を散歩したので疲れました。そこでアムステルダム広場に片隅の椅子に座りました。
広場ではイタリアの歌手が唄い、サキソフォンでアメリカの流行歌を吹いています。
その前のテーブルで、私はイギリスのチップス・アンド・フィッシュでアサヒの生ビールをゆっくり飲みながら家内と他愛もない話をしました。ゆっくり時間が流れます。
そしてある変化に気がついたのです。以前来たときは多くのヨーロッパ人が従業員として働いていたのです。
そしてオランダ料理やオランダから直輸入のハイネケン・ビールが飲めたのです。
ところが今回ハウステンボス内のレストランに入るとイタリアンに変わってしまっています。以前のホテルヨーロッパは従業員もオランダ人らしいヨーロッパ人で、そのサービスも優雅でした。その雰囲気も無くなっているのです。
土産物からもオランダのものが無くなっています。世界中からの土産物が多くなったのです。そして佐世保バーガーという巨大なハンバーガーを盛んに宣伝しています。
経営方針が変わったようです。そこで帰宅後、ハウステンボスの経営の歴史を調べてみました。
神近義邦さんという方が1979年にハウステンボスを創業したそうです。
彼は1979年にヨーロッパ出張に行き、そこで偶然見たオランダの風景に何故か感動して、その風景をテーマにした「オランダ村」を1983年にオープンしたのです。テーマはオランダの風景のみだったのです。建物や運河の風景は広い意味での文化です。
神近 義邦(かみちか よしくに)さんは 1942年8月21日生まれです。
出身地は現在の長崎県西海市西彼町です。長崎県立西彼農業高等学校定時制を卒業後、1962年に西彼町役場へ就職し、農業指導を担当して実績を上げた方です。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職しました。
1979年のヨーロッパ出張時にオランダ村の原型となる計画を発想したそうです。その後、自らの観光果樹園を基礎として1980年に開園した長崎バイオパークからほど近い国道202号線沿いの生簀料理店を全面改装する形で、長崎オランダ村を1983年7月22日にオープンさせました。
長崎オランダ村は順調に観光客を集め発展してました。
一方、長崎県は折しも総工費約150億円をかけ造成したものの分譲が進んでいなかった針尾工業団地を神近さんに利用してくださいと頼んだのです。それが現在の広大なハウステンボスになったのです。
ハウステンボスは1992年にオープンしました。初年度から佐世保市内はもちろん九州でも最大級の集客実績を上げたが、建設時のこだわりも一因となった莫大な初期投資(約2,200億円、当初予想の約2倍にまでなった)が負債となってのしかかって来たのです。
また、将来的には人口3万人が定住する都市をつくるという構想で作られた別荘もなかなか買い手がつかず苦しい経営が続いたのです。
そしてバブル崩壊から続いた景気後退が集客減少を招き、ハウステンボスの経営は次第に悪化したのです。
2000年6月、神近さんは興銀に債権放棄を要請、それと引き換えにハウステンボス社長を辞任し、経営から身を引いたのです。その後ハウステンボスは興銀主導での再建を模索し、2003年2月に会社更生法の適用を申請しました。(以上の経緯の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BF%91%E7%BE%A9%E9%82%A6です。)
その後、澤田秀雄氏が経営を引き受けてから一気に黒字になり現在に至っているのがハウステンボスの歴史なのです。彼は18年間赤字だったハウステンボスを奇跡的に1年で黒字にした人として有名になりました。
以上のような歴史を見るとハウステンボスに何故オランダ独自の文化が感じられなくなったか、その理由が分かります。
「楽しければ何でも良い!」という経営思想でオランダにこだわるのを止め、ディズニーランドのように楽しいいショウやイベントを増やしたのです。その勢いで若者を集客し、経営も安泰なようです。
ハウステンボスにもそんな歴史があったのです。

オランダは、江戸時代の鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国です。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれ、後の開国・明治維新に向けての下地を準備、形成することになったのです。
そんな文化交流に関する展示館があっても良いのではないでしょうか。そんなことを感じて帰ってきました。3年前の春爛漫の日も思い出です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)