後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい私の横浜、大桟橋、中華街、山下公園、グランドホテル」

2021年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
異国文化の香り漂う魅力に惹かれて横浜へ私は何度も訪れました。
今日はこの懐かしい私の横浜の街をご紹介したいと思います。大桟橋、中華街、山下公園、グランドホテルなどです。
さて大型客船が接岸できる現在の大桟橋は2002年に設計図が出来その後完成します。設計者はイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性でした。2人の合作でした。
大桟橋の完成以前にも横浜港は外国航路の拠点でした。日本郵船や大阪商船などの表玄関だったのです。外国の海運会社も欧州航路とアメリカ航路の定期便を運航していたのです。日本郵船の氷川丸などが北米などへ出航していたのです。この氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め、現在は山下公園に係留され公開されています。
そして最近は豪華客船が流行になり接岸するようになったのです。今や大桟橋は横浜の観光名所として脚光を浴びています。

1番目の写真は大型客船が接岸している現在の大桟橋です。マリンタワーから私が撮った写真です。
この桟橋からは青い海が見え、その向こうに横浜の美しい街々が見渡せるのです。客船の岸壁という機能と市民の憩いの海上公園としての機能をあわせ持った楽しい場所です。私はこの海上公園が大好きで何度も散策に行きました。横浜の懐かしい場所です。
さて懐かしいと言えば中華街です。

2番目の写真は横浜の中華街です。北京料理、上海料理、四川料理、何でもあります。何度行っても感動します。
中華街に行った帰りは崎陽軒のシウマイをよく買いました。
3番目の写真は崎陽軒です。
崎陽軒のシウマイは昔懐かしい味です。真空パックをした崎陽軒のシウマイは全国で売っています。しかし真空パックをしていない作りたての素朴なシウマイは横浜でしか売っていません。
昔風の豚のひき肉と貝柱のシウマイが15個入って550円です。戦前の昔のままの包みなのです。
家内は戦前に食べた崎陽軒のシウマイが美味しかった感動を絶対に忘れないのです。ですから私は横浜に行くたびに必ず崎陽軒の昔風のシウマイをお土産として買います。食べ物の話はこれでお終いです。
横浜では毎回必ず山下公園に寄ります。昭和という時代を感じさせる山下公園です。

4番目の写真は山下公園に係留してある氷川丸です。
氷川丸は公開しています。入場料を払うと船内が見物出来ます。
チャップリンの泊まった一等船室も見られます。 圧巻は当時の巨大なエンジンルームです。船がお好きな方々にとっては桜木町の港に係留されている帆船日本丸と共に必見すべき船です。
そして山下公園の前には横浜ニューグランドホテルがあります。
5番目の写真は昭和の雰囲気ただよう横浜ニューグランドホテルです。2,3度泊まりました。
そしてこのホテルの支店は山中湖にも夏限定でありました。そちらにも泊まったこともありました。ヨーロッパ風のクラシックホテルでした。落ち着いた雰囲でサービスも優雅でした。懐かしいホテルです。

今日は懐かしい私の横浜をご紹介しました。大桟橋、中華街、山下公園、グランドホテルなどをご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「秋になると思い出す焚火のにおいと紅葉の風景」

2021年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の記憶力とは不思議なもので、幼少や少年の頃に覚えたことは一生忘れません。忘れていても必ず、フッと鮮明に思い出すのです。
その記憶も季節によって変わります。秋になると私は落葉焚きのにおいと紅葉の風景を思い出します。
昔は落葉焚きは禁止されていませんでした。秋になると落ち葉を掃き集め焚火をしたものです。そしてその煙のにおいが懐かしいです。

1番目の写真は以前に私の山林の中の小屋の庭でした落葉焚きです。

以前は焚火禁止がなかったので秋になると必ず落葉焚きをしました。毎年秋になると自宅の庭でもしました。
そしてサツマ芋を焚火の中に入れます。私は不器用なので焼き芋が上手に作れません。半生でガリガりだったり焼け過ぎて黒焦げになったりします。
それも懐かしく思い出します。
落ち葉焚きをしなくなって何年にもなります。
落ち葉焚きは秋の風物詩だったのです。消えてしまった風物詩です。

そしてもう一つの秋の思い出は紅葉を求めて遠くへ旅したことです。紅葉が美しくなる北海道や東北地方に何度も行きました。
ある時は関東と信州をつなぐ三国峠を超えて新潟県の苗場や秋山郷の紅葉をもとめて旅をしました。
苗場のゴラドンゴラという日本一長い5キロメートルもあるロープウエイに乗って撮った紅葉の写真をお送りします。

2番目の写真はゴラドンゴラです。谷川と紅葉が美しく写っています。

3番目の写真はゴラドンゴラ から撮った山の紅葉です。
全山が黄、橙、茶色に彩られ、起伏のあるゴンドラからの俯瞰は今まで見たことも無いすばらしさでした。
この苗場からさらに足を伸ばして新潟県と長野県の県境まで行くと秘境の秋山郷があります。紅葉が美しい所です。

4番目の写真は秋山郷の滝と周囲の紅葉です。

5番目の写真は紅葉した秋山郷の山です。
秋山郷はあまりにも山深い秘境なのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。そして隔絶したの独特な風習を書いています。
「北越雪譜」の中にある秋山郷の冬季の部分は凄惨です。食糧難で家族が一人、二人と息を引き取ってゆく極限状態を描いています。
その文章の行間には静かな祈りが満ちています。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
ついでに少し付け足しておくと、秋山郷は現在、13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。
それにしても紅葉の美しい所でした。

今日は秋になると思い出す焚火のにおいと紅葉の風景について書きました。
思い出す紅葉の風景はたくさんありますが、今日は新潟県の苗場と秘境、秋山郷の紅葉をご紹介しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
====追記=============
「北越雪譜」の「秋山紀行」の概要をお送りいたします。

鈴木牧之は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商でした。
「北越雪譜」には魚沼郡塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。

そして「秋山紀行」には山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。


そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。・・・こんな内容です。悲しい内容の紀行文です。


「武蔵野をそのまま保存している平林寺の魅力」

2021年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム
埼玉県にある平林寺には東京ドーム9個ぶんの広大な境内があります。そこには武蔵野の雑木林がそのまま保存してあります。昭和天皇がその武蔵野の様子をわざわざ見に行ったことで一層有名になりました。
そこで私も昨日独り車で平林寺の境内の武蔵野の写真を撮って来ました。写真をご覧下さい。
1番目の写真は平林寺の境内の武蔵野の雑木林です。総門の右100mくらいの所に墓参のための駐車場入り口があり、そこから撮った写真です。

2番目の写真も平林寺の境内の武蔵野の雑木林です。いろいろな種類の樹々が混じった自然林の様子をご覧下さい。
写真のように平林寺の本堂は外からは見えません。このお寺は以前に何度も来たので昨日は中へ入りませんでした。
そこでhttp://www.heirinji.or.jp/about/ からお借りした中の写真を示します。

3番目の写真は山門です。築350年の風格を湛える平林寺のシンボルです。江戸時代前期、平林寺が岩槻から移転された際に現在の地に移築されました。埼玉県指定有形文化財(建造物)です。
4番目の写真は本堂です。本尊の釈迦如来坐像と達磨大師坐像等が祀られています。現本堂は、江戸末期の火災で焼失した旧堂に近い形で明治期に再建されたものです。

5番目の写真は野火止塚(のびとめづか)です。野火止塚は昔武蔵野に散在していた塚で何のために使われたか不明な不思議な塚です。一説によると野火を見はり、その類焼を防ぐための塚だったと言われています。
この写真の塚は昔から境内にあったものです。平林寺の境内には昔のままの武蔵野が残っているのです。

さて平林寺は永和元年(1375)、今からおよそ650年ほど前の南北朝時代、武蔵国埼玉郡、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。( http://www.heirinji.or.jp/about/ )
徳川家康の関東入部の時に家臣として三河国から共に上京した大河内秀綱は平林寺の大檀那となって山門や仏殿等の伽藍の再建を行いました。
秀綱の孫で、松平家の養子となった松平伊豆守信綱も徳川家に仕え、第3代将軍家光、第4代将軍家綱のもとで幕府老中を務めます。
岩槻にあった平林寺は、寛文3年(1663)信綱の遺命によって野火止(のびとめ)に移転されます。この地には、信綱が開削した玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺にも平林寺堀が引かれます。
水の利を得た地域一帯は、新田開発が進むと共に江戸近郊の農業生産地として発展したのです。現在はそのあたり一帯は新座市になって、その市役所は平林寺の真向かいにあります。

平林寺の雑木林はもう少しすると紅葉し感動的な散策路になります。
有料駐車場は入口の総門の左50mの場所にあります。墓参用の駐車場とは別です。平林寺への入場料は入り口の総門で払います。
電車ではJR武蔵野線 の新座駅から徒歩10分くらいで行けます。

平林寺には自然の武蔵野や野火止塚が保存してあり大変魅力的な散策が楽しめます。秋の晴天の日に是非お出掛け下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「高齢になってもインターネットで皆様と交流出来る幸せ」

2021年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でもそうでしょうが老化すると体力が無くなります。すると体力がないと出来ない趣味は続けられなくなります。
その上、知的な能力も次第に衰え、難しい本を読み続ける根気も無くなりがちです。この状態を「あの人は枯れてきて立派だ」と褒める人もいます。
本人は達観の境地だ、いや諦観の境地だと言いながら、心静かに日々の流れに身を任せます。
しかし若い人から見れば趣味の数も減り、あまり読書もしない老境は悲しいものと映るようです。若い頃、私も老境は悲しい時期に違いないと考えていました。
体力が無くなったので25年続けて来たヨットの趣味を75歳ですっぱり止めました。近くの高尾山や旧甲州街道の小仏峠に何度も登る趣味も80歳で止めました。
40年以上続けた山林の中の小屋へ行く趣味も昨年止めました。
難しい本を読み続ける趣味も消えて久しいものです。
止めてしまった幾つもの趣味には未練はありません。楽しい思い出が沢山残りました。
馬齢を重ね、85歳になって気がついてみると私の趣味はたった一つだけになってしまったのです。
それはインターネットで皆様と交流する趣味です。私はブログに毎日記事を掲載しています。美しい 自然の風景写真を撮りに行って毎日掲載してます。
ブログに掲載した記事と写真をSNSの趣味人俱楽部とFace Bookにも掲載しています。そうすると世界中に住んでいる日本人からコメントが来ます。日本語が読める外国人からもコメントが来ます。
これが私のインターネットで皆様と交流する趣味です。
私の拙い記事や写真をご覧になっている方々へ深い感謝をしています。言葉では表せない深い感謝と喜びです。
見て下さる方々が楽しくなるようなものを掲載しようと思っています。
そこで昨日は車を駆って神奈川県の宮ケ瀬湖の写真を独りで撮りに行きました。この湖は丹沢山系の麓にあります。風景は穏やかです。心が和むような風景です。写真を示します。


この2枚の写真は同じような写真ですが勘弁して下さい。しかし初めの写真は宮ケ瀬湖の全体で2番目の写真は宮ケ瀬湖の山際の風景です。
宮ケ瀬湖の風景はのんびりしています。見てると癒されます。
この写真をご覧になって行きたくなる方もいるかも知れません。そこで宮ケ瀬湖についてもう少しの情報をお送りいたします。
宮ケ瀬湖は神奈川県の相模湖の南の丹沢山系の東山麓にあるダム湖です。湖の周辺は巨大な公園として美しく整備され、遊覧船やカヌー教室もあります。
詳しくは、ホームページ:http://www.miyagase.or.jp  をご覧下さい。
車で行く場合は、中央道の相模湖ICを出ます。そこから国道20号、国道412号線で「三ヶ木」交差点で右折して行きます。新宿から2時間弱で行けます。
ホームページに地図があります。
都内から2時間で行ける風景の良い自然がいっぱいの公園です。散歩したり馬車やカヌーに乗って遊べます。湖畔にはレストランや土産物店もあります。

秋晴れの良い日に是非お出掛けくださ。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「紅葉が美しい里の秋の風景写真をお送り致します」

2021年10月10日 | 写真
写真は「里の秋の風景写真」を検索して出て来た多数の写真から選びました。
写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=26120030361 です。

こんな童謡も思い出して懐かしい気分です。

「里の秋」    斎藤信夫作詞・海沼実作曲

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事でと
今夜も 母さんと 祈ります

(第二次世界大戦で南の島へ出征した父を案じている歌詞です。)





「美しい秋空の写真をお送りいたします」

2021年10月10日 | 写真
秋は空気が 澄み渡って青空が高く、高くなります。

ススキが風にゆれコスモスが野原に咲いています。
夕暮れの赤い空に街のシュルエットが浮かびます。

秋の空を見ているとしみじみ自分の来し方を想います。

美し秋空の写真をお送りいたします。
秋空の写真を検索してネット上の写真をお借りしました。



「カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真です」

2021年10月10日 | 写真
今日は年間第28の主日です。

カトリック小金井教会のミサに行きました。
今日のミサの風景写真をお送り致します。


今週も皆様が健康で平和であるようにとお祈りいたしまた。




「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」

2021年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通してイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真はチェコのヴィート教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「北海道の屈斜路湖の鮮烈な紅葉の写真」

2021年10月09日 | 写真
北海道の屈斜路湖の鮮烈な紅葉の写真です。
屈斜路湖は何度行った懐かしい湖です。でも紅葉の時期ではありませんでした。こうして紅葉の写真を見て美しさに感動しています。

1番目の写真は屈斜路湖からせり出した和琴半島は紅葉です。

2番目の写真は和琴半島の紅葉の拡大写真です。

3番目の写真は屈斜路湖の砂湯付近の直線道路です。
写真の出典は、https://teshikaga-times.com/autumn/teshikaga_autumn-leaves です。


「共産党独裁国家、中国の人々の生活の実態」

2021年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、「中國の驚異的経済急成長に巻き込まれる日本」という記事を掲載しました。そして中国の経済成長の様子を図面を用いて分かりやすく説明しました。
しかし中国は共産党独裁国家です。この理由で日本人の多くは中国では人々が抑圧されて息苦しい生活を送っていると思っています。これはとんでもない誤解です。彼等は日本と全く同じような自由な生活をしているのです。但し共産党批判だけはご法度です。
今日は共産党独裁のもとで人々はどんな生活をしているかをご説明いたします。
独裁国家の中国は、我々日本にとって恐ろしい国のような感じがします。
中国の共産政権内の権力闘争や中国海軍の増強と尖閣諸島の領海侵犯などのニュースを見ると非常に殺伐とした社会のように思えます。
しかし中国国内に住んで、日本の工場で働いている人の話を聞くと、中国の社会は日本と同じように自由な生活をしているそうです。
まず中国の風景写真をご覧下さい。
1番目の写真は繫栄している北京の風景写真です。
2番目の写真は上海の路地裏です。人々は自由に生きています。
3番目の写真は道教寺院です。多くの人が参拝に来ています。
4番目の写真は北京のお寺の灌仏会です。釈迦の誕生を祝う行事です。灌仏会は日本のお寺でも行います。
5番目の写真はキリスト教の教会です。中國には2305万人のキリスト教信徒がいます。その他、1800万人のイスラム教徒もいます。

さて最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化しています。
その理由は中国共産党が「共産党へ楯突かない限り」、宗教の自由を大幅に認めているからです。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。
そこで中国独特の道教をもう少し詳しく見てみましょう。
道教寺院は日本の神社のように大小さまざま何処にでもあります。
道教には理路整然とした明快な教義も理屈もありません。賽銭を上げて拝めば、家内安全、無病息災、商売繁盛、になるのです。入試も合格しますし、結婚も出来ます。よろずの願い事をかなえてくれるのです。
祀られている神様は関羽のような英雄であったり、地方の偉人であったり、千差万別です。立派な人が死ぬと、人々が守り神として祀るのです。
この様な信仰は日本の神道と非常に似ています。
日本人の多くは仏教と神道の両方を信じています。
同じ様に中国人は仏教徒もキリスト教徒も無宗教の人々も道教寺院にお賽銭を上げて家族の幸福を祈るのです。
道教の寺院(宮観)は漢民族が住んで居る場所なら世界中にあります。
道教寺院は漢民族の守り神なのです。民族の宗教なのです。

日本の新聞にこのような穏やかな中国人の暮らしぶりの写真は出ません。中国の人々の生活の実態を報道しないのです。
中国人は静かに家族の平安を祈っているのです。われわれと変わらないのです。新聞の報道は何故か片寄っています。

どんな民族でもお互いに仲良くなるためには、それぞれの平凡な毎日の風景を見れば良いのです。私はいつもそのように信じて来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料:「中国の宗教事情」===========
 まだまだ動いている、中国の宗教の現状(2011-07-06) 

 中国には、宗教人口の正確な統計が取られていないが、「百度百科(2011.7現在)」に、おおよその数字が記されていた。

それによると、
 仏教は、現在1.3万カ所の寺院があり、僧侶は約20万人、そのうちチベット語族の「ラマ教」の僧は約12万人、活仏は1700数人、寺院は3000余寺。「小乗仏教系」の僧侶は1万人、寺院は1600寺である。

 「道教」は、道教の宮観(寺院)が1500カ所、道師は2.5万数人である。

「イスラム教」はウイグル族など10の少数民族が信仰している。これらの少数民族の総人口は約1800万人、モスクは3万カ所あって、イマム(僧侶)は4万人。

「ローマン・カトリック教」は、信者の数は約400万人で、神父、教職人員は約4000人、教会堂、会所は4600か所。

「プロテスタント」は約1000万人いて、牧師が1.8万人。教会堂が1.2万か所、簡易集会所は2.5万か所となっている。

 1966年~1976年の“文化大革命”で、宗教を含む各方面に壊滅的な破壊をもたらした。現在は、中華人民共和国憲法第36条で、宗教の信仰の自由が定められている。

・キリスト教徒の7割が女性
 2009年に中国社会科学院世界宗教研究所が、31省でキリスト教信者の調査をまとめた「中国宗教報告」(2010)によると、中国のキリスト教徒は2305万人で、およそ全国の人口の1. 8%を占めるという。

(これは”百度百科”のカトリックとプロテスタントの合計数の1400万人よりも905万人上回るので、数字が著しく更新されたことになる)

 キリスト教徒のうち、洗礼を受けた者は1556 万人で67.5%占めた。中国の女性のキリスト教徒は男性より多く、その割合は7人対 3人といわれる。

・1993年以降に入信した者が73.4%
 中国のキリスト教徒の文化水準は、半数以上が小学校および以下にあった。入信の理由として、7割近くが「自分や家族の病気など」をあげ、「家がキリスト教徒であったため」というケースは15%であった。

ただしここ数年来、キリスト教徒の数が大部分の地区で上昇しており、1993年以降に入信した者が73.4%に達しているという。資料 金沢編「中国宗教報告」社会科学文献出版社(2010.8)



「大好きなナナカマドの紅葉」

2021年10月08日 | 写真
いろいろな樹々が紅葉しますが、私はナナカマドの紅葉の色合いま大好きです。同じ赤でも夢を感じさせる色合いです。ロマンチックな色です。
穂高に上る途中の涸沢のナナカマドの紅葉の写真をお送りいたします。
出典は、http://takawai.blog.fc2.com/blog-entry-1036.html です。


「ドイツ中世の町、ローテンブルグの紅葉とドイツの文化」

2021年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
南ドイツのローテンブルグはドイツの中世のまま16世紀の町並が現在でも残っています。
この小さな中世の町に1969年の夏から3ケ月住みこんでドイツ語を習いました。秋と冬にかけてでしたので特に紅葉の風景が印象深かったのです。
毎日のように街の内外を散策し、夜になるとワインを飲む酒場に入り地酒のワインを飲む生活をしました。酔って、迷路のような路地裏を歩いていると自分が中世の人間になってこの町に暮らしているような気分になります。
その上、中世のままの建物群と道路がそのまま保存してあるので当時の人々の暮らしぶりがおのずと分かったのです。そんなローテンブルグの紅葉の写真を示します。
紅葉の写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/11236381 です。


ローテンブルグで考えたドイツ人の性格や文化についてもう少し書きたいと思います。
南ドイツの中世の町の多くは堅固な城壁に囲まれています。城壁の中には商人だけでなく農民も住んでいます。朝になると城門が開き、農民は周囲の畑に出て農作業をします。夕方になると城壁の内側に帰って来ます。城門が固く締められ夜になるのです。ですから昔のドイツ人は排他的になり、よそ者を警戒します。その伝統は現在でも特に南ドイツでは続いています。
中世のドイツでの町では中心に必ず広場があり市役所があります。市役所には市長を兼ねた領主がいて町を統治しています。広場には毎朝、野菜や食料品を売る市場になります。
この世を統治するのが領主で、その一方、人々の宗教の面倒をみる教会が必ずあります。プロテスタントのエバンジュレッシュ教会とカトリック教会が必ずあるのがドイツの町の特徴です。
この中世の町に住みこんでみるとドイツ人の性格や文化文化がしみじみと深くわかるのです。
ワイン酒場でドイツ人は暗い表情で黙ってワインを飲んでいます。独りで飲んでいます。そしてよそ者の私を疑わしそうにチラチラ見ます。南のドイツ人は一般に社交的でないのです。陰気な人もいます。
暗い雰囲気のワイン酒場で一か所だけ騒がしいテーブルがあります。酒場の奥にある大きなテーブルです。常連の中年の男達が大声で議論しています。議論していますが絶対に笑いません。南ドイツではどんな酒場に入っても奥に常連の男達が議論しているテーブルがあったのです。
私はドイツに住む前にアメリカにも住んだ経験があります。比較するとアメリカ人とドイツ人は対照的です。アメリカ人は陽気で社交的です。ドイツ人は暗く非社交的です。
ドイツ文化は良く言えば暗く重厚な文化です。ベートーヴェンの交響曲のように重厚なのです。ゲーテのように深い思索が根底にあります。
南ドイツの小さな中世の町に3ケ月住みこんだ後で大きな都会のシュトッツガルト市にも1年余住みましたが上に書いたドイツ文化の特徴は同じでした。
こんなドイツと日本は三国同盟を結び第二次世界大戦を戦ったのです。不思議です。ヒットラーは南ドイツの出身です。日本のことをよく理解してなかったと私は思います。

今日はドイツ中世の町、ローテンブルグの紅葉の写真を示し、ドイツの文化の特徴を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)