



ドイツのミュヘン市中の花園の写真をお楽しみ下さい。 写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10026211 です。
北欧で私が見た白木の脱衣所を兼ねた談笑室も重要ですが、その写真も見つかりません。仕方なくやっと見つけたフィンランドのサウナの写真をお送り致します。
写真は「フィンランドのサウナの写真」を検索して、インターネットの写真から選びました。
南アメリカ原産の花の写真です。
写真の出典は、https://dancingbrave1986.hatenablog.com/.../1505911161 です。
真っ赤な花はナスタチチウムです。南米のコロンビアやブラジル原産の花だそうです。
どういう訳かアメリやヨーロッパに古い時代そのままの風景が少し残っています。私も見ました。北米のアーミッシュの人々が住んでいる農村とドイツのローテンブルクという町です。まるで中世のような昔の風景です。
今日はアーミッシュ村とローテンブルクの私の訪問記をお送り致します。私にとっては 懐かしい思い出です。
アーミッシュ村を訪問したのは1988年から1990年まで私がオハイオ州立大学で働いている頃のことでした。
車を運転してアーミッシュの村に入って行きました。すると道端に、「黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が出て来たのです。看板は進むにしたがって増えてきます。
看板通り、黒塗りの箱形馬車が近付いて来る。慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違う。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返す。
麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げている。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いている。周りは一面の実り豊かな麦畑。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしている。車で2時間の所にアーミッシュの村があったのです。そんなアーミッシュの村の写真です。
1番目の写真は家族用の馬車です。アーミッシュに人々は絶対に自動車を使いません。
2番目の写真はアーミッシュに人々の乗り合い馬車です。
3番目の写真はアーミッシュに人々の農作業です。トラクターは絶対に使いません。
4番目の写真は家の中です。服は一着だけしか持っていないで壁に掛けています。
5番目の写真は昔の服装をした女が裸足で野球をしている場面です。でもその頃には野球が無かったはずです。
アーミッシュに車で訪問する前に訪問のマナーを大学の同僚が教えてくれました。「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行せよ。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパー店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること。御土産店では村への入場料のつもりで大目に買いなさい。
私は以上のルールを守ってアーミッシュ村に一泊しました。木造2階建ての民宿に泊ったのです。夜になると部屋にはロウソクしかないが、外の方が明るい。窓から見ると、満天の星空。星明りで外が明るい。「夕食ですよ」と呼びに来る。食堂には電気がついている。新鮮なホウレン草のサラダと鶏肉のソテーのみだが、自然栽培なので実に美味しい。もちろんビールや酒類は一切ない。布に包んだ温かい焼きたてのパンが籠に入って出てくる。そばに座ってくれている女主人にいろいろ聞いた。電気は来ている。冷蔵庫、洗濯機、井戸水汲み上げポンプ、食堂と調理場の電燈に限って電気を使っているそうである。アーミッシュの人の職業は農牧業しか許されていないので、民宿やスーパーマーケット、御土産店などの経営者は普通のアメリカ人である。
「ところで、あすアーミッシュの人々の生活を見たいし話も聞きたいので、誰か紹介してくれませんか」「泊り客はそういうことをよく頼みます。でも丁重にお断りしています。アーミッシュの信仰中心の日常生活を邪魔しない。それが人として正しい接し方と思いますよ。」
ふと気が付いたらもう十時を過ぎていた。ロウソクの炎の揺れる暗い部屋へ引き揚げ、星明りの窓の外をもう一度見てベッドへ潜り込む。アーミッシュの村は静けさに満ち、時がゆっくり流れている。
さて次にドイツのローテンブルクという町をご紹介したいと思います。私は1969年に3ケ月間住んでました。8月から10月までドイツ語の集中研修のためにローテンブルグのある古風な家に下宿したのです。朝食は自炊、昼食は語学学校で給付する食券で町のレストランで食べる。夕食は自費で昔風のレストランで地元のワインを飲みながらユッタリと時間を過ごす。いささか酔うので地元の常連客と仲良くなる。そんなローテンブルグの風景写真を示します。
6番目の写真はローテンブルグの市役所前の広場です。野菜の市があるのでよく野菜を買いました。懐かしい広場です。
7番目の写真は市役所前の広場の反対側の街の風景です。この辺にレストランがあったのでよく食事をしました。
8番目の写真は毎週日曜日に通っていたカトリックの教会です。
9番目の写真はローテンブルグの風景写真です。町を囲む城壁の上に登ってよく眺めたものです。
ローテンブルクの私の下宿の部屋には簡単なキッチンとシャワーが付いていました。しかし毎日シャワーでは味気ない。ゆったりお風呂につかりたい。レストランでの夕食のあと地元の人に聞くと銭湯があると教えてくれた。早速、次の日の夕方行ってみました。
入り口を入ると切符売り場のような窓がある。お金を払うと石鹸、小さなタオルとバスタオルを渡してくれて、「奥の廊下の左右、空いている部屋のお風呂へ入りなさい」と教えてくれる。廊下を歩いて行くと3畳間くらの小部屋が左右に10個くらいずつ並んでいる。空いている部屋に入り、鍵をかける。見ると猫足の格好をした古風な脚が4本ついた大きなバスタブが置いてある。蛇口から湯がほとばしる。ゆったり浸かり、温泉気分になった。それ以来、毎週2回くらいずつ銭湯の世話になる。
あとからよく聞くと、ドイツの田舎町には、旅をする人々のためのホテルがある。しかしシャワーが付いてないのが普通だったそうだ。そこでこの様な銭湯が必要になる。現在のホテルでも、城壁の内部では建物の改造が禁止されているので寝るだけの部屋が多いそうだ。このような安いホテルに泊まるのは若い人々が多く、そのような人が銭湯を使用するという。それ以来、ドイツの古い町に行ったときは何となく銭湯を探す癖がついてしまった。ホテルの洗面所の壁に大きな字で、「Fliessender Wasser」(泉の水が豊富に流れてるよ!ーというような意味)と書いてある。古い町では銭湯が必ずある。銭湯は長く浸かっていても誰にも邪魔されない。旅の疲れをとるのに具合が良い。
ドイツではバーデン・バーデンのように温泉もある。但し日本の温泉とは雰囲気が全然違う。水着を着て清潔な湯船に決まった時間だけ繰り返し浸かる「温泉療法の湯」が多い。こちらは落ち着かなくていけない。お勧め出来ない。話は飛ぶが、中国の東北地方の湯崗子という温泉に入ったが、その内容はローテンブルグの銭湯と同じ構造であった。ただし蛇口をひねると硫黄臭のある温泉の湯がほとばしった。これはどうもヨーロッパ人が持ち込んだ銭湯らしい。
今日はアーミッシュ村とローテンブルクの私の訪問記を書きました。私にとっては 懐かしい思い出です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
村木良彦君の終生の趣味はギリシャ悲劇でした。よくギリシャ悲劇の話をしていました。三大悲劇詩人がアテネにいたと聞いた記憶が残っています。そんな 訳で今日の挿絵代わりの写真はギリシャの風景写真です。写真は「ギリシャの風景写真」を検索して、インターネットの写真から選びました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=ERmz9AU0Zyc です。
なお関口教会からの10:00時からのミサの動画配信もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=2HilpMkcBHI
写真は関口教会からの10:00時からのミサの風家です。今日はこのミサに自宅であずかりました。司式はタルチシオ菊地功神父さまでした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
写真は「カラスウリの花の写真」を検索して、インターネットの写真からこれらの写真を選びました。
1988年から1990年まで私はオハイオ州立大学金属工学科の客員教授をしていました。
今日はその頃のことを書きたいと思います。読み易くするため個条書きにします。
(1)米国で尊敬されていた本田宗一郎さん
1988年、オハイオ州立大学で働いていたとき、本田宗一郎氏がオハイオ・ホンダ工場を視察に来ました。工場はフル操業しており地元経済は活況を呈していたのです。地方紙が一面トップで本田氏来訪を伝え、翌日の新聞には黒人の労働者と握手している写真が大きく出ます。広大な工場を視察し、多くの労働者と親しく会話し、握手をしたと報じていました。
アメリカの大企業の幹部は工場労働者とは握手をしません。食堂もトイレも社員と労働者は別です。ところがホンダ工場は一緒だったのです。本田さんは「自由と平等」をホンダ工場の中で徹底した英雄と讃えられました。
よく知られているように、本田さんは小さなオートバイ工場を出発点にして、世界中に乗用車製造工場を建設しました。この話はアメリカ人の好むアメリカン・ドリームの物語そのものです。飾らない開放的な人柄も手伝って、多くのアメリカ人に尊敬されていました。
(2)ホンダ工場のおかげで体験したいろいろ
オハイオに住んでいると、日本人という理由で親切にされました。ホンダ工場のおかげです。近所のガソリンスタンドで車を修理してもらったら、「日本人か?」と修理工が聞いたのです。「そうだ」、「ならホンダ工場の日本人に頼んで就職できるよう話をつないでくれない?」。
ホンダ工場とは付き合いがありません。1週間後にホンダの採用窓口の電話番号を調べてガソリンスタンドの修理工に教えたら、「有難う!忘れていなかったのが嬉しい」と感謝された。
客員教授をしてい学科の同僚教授へ呼び掛けてホンダ工場を見学に行きました。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、労働者は色々な人種が混じっているます。組み立てラインでキビキビと正確に部品を取り付けている。こんなに楽しそうに働くアメリカ人の集団を見たことがない。一緒に行ったアメリカ人教授も皆この集団に圧倒されていた。
1番目の写真は見学に行ったオハイオ・ホンダ工場です。
アメリカの頭痛の種はリンカーン大統領の昔から人種差別の問題です。ホンダ工場では黒人も白人もアジア人も同じ組み立てラインに平等に働いていました。ラインはいつも動いており、チームワークが絶対に必要です。声を掛け合って部品の取り付けが遅れたり不完全になったりしないようにします。
2番目の写真は黒人も白人もアジア人も協力して働いているオハイオ・ホンダ工場の従業員一同です。
「黒人と白人が一緒に楽しく食卓を囲む日が必ずやって来る!」・・・という公民権運動の黒人リーダー、キング牧師の言葉どうりのことがオハイオ・ホンダ工場で実行されていたのです。このホンダの組み立てラインをキング牧師に見てもらいたかったという感慨が湧いてきました。
(3)その後本田さんを訪問しました。
その同じ年の初冬、オハイオの恩師、セント・ピエール教授夫妻と東京駅八重洲口のホンダ会館へ本田さんを訪問しました。目的はオハイオ・ホンダ工場とオハイオ州立大学金属工学科大学との共同研究をお願いすることでした。
本田さんは機嫌がよかった。戦前に芸者さんと軽飛行機に乗った話、初めてオートバイを作ったころの話、マン島レースでの優勝の話などを楽しそうに語ってくれたのです。
民間企業から研究費を貰う交渉に抜群の能力を発揮するセント・ピエール教授が本田さんの話をウットリして聞いています。上気して顔が赤くなり、尊敬の眼差しで本田氏の顔を見上げているのです。帰途「終始黙っていましたね。研究費を貰う話はどうなったのですか?」と私が聞くと、「そんな話は出せなかった。お話を直接聞けたことが人生で二度とない貴重な体験だった」と言うのです。
オハイオ州立大学のアメリカンフットボール競技場に立つ巨大な電光掲示板はオハイオ・ホンダの寄付と聞いてました。
3番目の写真はオハイオ州立大学のアメリカンフットボール場です。ここに本田さんが巨大な電光掲示板を寄付してくれました。
4番目の写真はオハイオ州立大学のアメリカンフットボールの選手たちです。
5番目の写真はアメリカンフットボールの競技中の一場面です。私も見に行きました。
本田宗一郎さんは1906年(明治39年)に生まれ1991年(平成3年)に亡くなりました。享年84歳。
謹んでお冥福をお祈り申し上げます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)