後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「スーパーの『ヤオコー』に関係した三栖右嗣の油彩画」

2022年10月26日 | アート・文化

今朝の朝食中に妻が今日は隣町小平市のスーパー『ヤオコー』に車で連れて行ってくれと言います。近所のスーパーマーケットでも良いと思いましたが行くことにしました。三栖右嗣の油彩画を思い出したからです。

今日は三栖右嗣の油彩画をご紹介したいと思います。

さてヤオコーというスーパーマーケットは川越市の八百屋さんが作った店で、埼玉県と東京の西北部に数多くのスーパーを展開しています。
その創業者の女主人、川野トモさんが油絵が大好きで川越美術館を作ったのです。
この美術館は三栖右嗣(みす ゆうじ)記念館でもあります。
彼の絵画を蒐集し33点展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあります。

建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
ヤオコー川越美術館に展示してあるものを含めて三栖右嗣画伯の油彩画の写真をご紹介いたします。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。
  2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。  6番目の写真は「林檎のある風景」です。  7番目の写真は「カテドラルの或る街」です。
ヤオコー川越美術館は以前に訪問しました。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。 現代リアリズムの画家ともいわれ、人気作家でもあったのです。彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。温かみのある描写の作品です。質の高い充実した油彩画です。
ヤオコーというスーパーに買い物に行くたびに三栖右嗣さんの油彩画を思い出して楽しい気分になります。
そんなスーパーがあるのは幸運ですね。
川越の近辺にお住まいの方は是非この美術館を訪問なさって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。


「紅葉の絶景風景」

2022年10月25日 | 写真

紅葉の絶景風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.pixpot.net/view_spots/spot/2274/kurikomayama/ です。

  

1番目の写真は秋田県の小安峡です。  

2番目の写真は宮城県の栗駒山です。  

3番目の写真は宮城県の鳴子峡です。  

4番目の写真は宮城県の伊豆沼です。


「美しいダリアの花」

2022年10月25日 | 写真
ダリアは美しい花です。
ダリアは昔の私の家の庭に咲いていた懐かしい花です。神代植物公園にもいろいろなダリアが咲いているダリアの園があります。
今日はダリアの花の写真をお送りいたします。
写真の出典は、「美しい花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗なダリアの花の写真を選びました。

「昭和という時代に存在していた陸軍士官学校の教育内容」

2022年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

数年前のことです。陸軍士官学校の第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんと親しくなり、2人の人柄に感動しました。私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。好奇心の強い私は昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。
まず申し上げたいことは陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うことです。そして陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。
今日は陸軍士官学校について簡単にご紹介したいと思います。昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思います。
まず何故、陸軍士官学校に入学したかと田中和彦さんに聞きました。以下は田中和彦さんの答えです。
「私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続かず、官費の学校を選びました。どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。」
次に立石 恒さんに陸軍士官学校でどんな教育を受けたかと聞きました。答えです。
「とてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。戦術の他に物理や化学など普通の学課もあり或る程度の教養を得ました。課目に国際法、特に戦時国際法やハーグ条約などに関するものが無かったのが残念です。」

3番目に終戦時の心境を田中和彦さんに聞きました。その答えです。
「内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。」
そして終戦後は2人とも大学へ入学し、卒業後に民間会社へ就職します。
当時、軍の学校を出た者の入学者は入学者数の1割以内という制限がありました。
戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
2人とも海外勤務を経験します。田中さんはブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思ったそうですが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日だったそうです。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しましたとも言っていました。革命も経験したそうです。しかし郷に入っては郷に従えの教えどうり仕事をやりました。
最後に2,3付記しておきます。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の2人の方は非常に優秀な若者だったのです。
そして2人とも何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、民間会社に就職したのでず。そして人生観を変えたのです。
最近、私は「激動の昭和という時代」という連載記事を6編掲載しました。しかし激動の内容は人それぞれ皆違うのです。激動で個人の人生が翻弄されたのです。今日の記事はその具体的な二人の例です。
しみじみと昭和という時代を思い返すと本当にいろいろなことがありました。嗚呼、昭和時代は遠くなりました。

今日の挿し絵がわりの写真は湘南の風景写真です。以前に鎌倉に行った時に家内が撮った風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「全国的に希少なホテイアオイの群生地」

2022年10月24日 | 写真

全国的に希少なホテイアオイの群生地をご紹介したいと思います。

鹿児島県の正円池はホテイアオイの群生地として有名です。正円池は吹上温泉の北西約5kmの場所にあり、面積は9万8800平米です。6月を中心に池の表面一面に薄紫色のホテイアオイの花が覆います。
その写真をお送りいたします。
出典は、https://onsennews.com/news170516_hioki_shoen_ike/ です。


「カトリックの信仰に支えられた蟻の町のマリア、北原怜子」

2022年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なのでカトリックの信仰について書きます。私は中年になってから洗礼を受けました。現在、86歳になります。
私のカトリックの信仰を支えてくれるのは江戸初期の長崎の26聖人とその後の260年、信仰を守り続けた隠れキリシタンの人々です。
そして明治以降の色々な宗派のクリスチャンの純粋な信仰心に支えられています。
 
例えば内村鑑三さんの信仰は日本人として大きな支えになっています。
第二次大戦後に混血児2000人を育て上げたエリザベス・サンダースホームのカトリック信者澤田美喜さんにも信仰の力を現在でも頂いています。
そしてもう一人、「蟻の町のマリア」の信仰心に感動しています。28歳の若さで亡くなった北原玲子さんです。その信仰は現在も多くのカトリック信者の信仰心を支えています。
 
今日は「蟻の町のマリア」と呼ばれている北原玲子さんのことをご紹介したいと思います。
戦後の1950年頃、東京の隅田川の言問橋のたもとに、貧しい日雇労働者の集団居住地がありました。まじめな労働者だけでなく犯罪者も多く住んでいたので警察も手が出ない恐ろしい町でした。
そこで「蟻の会」を組織し指導していたのが仏教信者の松居桃楼さんでした。
法華経の観音菩薩様の助けで蟻の町の貧民を救いたいと思ったのです。
そしてポーランド出身のカトリックのゼノ神父様も松居さんへ協力していました。
 
ゼノ神父の勧めでカトリック信者であった北原玲子さんが蟻の町に住み着いて日雇い労働者や犯罪人を優しく世話したのです。
蟻の町のマリアと皆に慕われていました。北原玲子さんは蟻の町に住む人々全員の生年月日から本籍地の住所を全て暗記していたと言われています。
蟻の会を組織して、始めから世話をしていた佛教徒の松居桃楼さんも北原玲子さんを尊敬し、カトリックの洗礼を受けます。
 
ところが北原さんは1958年に結核で亡くなります。28歳の若さでした。
その後、松居さんは。「蟻の町のマリア」という本を書き、北原玲子さんの献身的な奉仕の記録を世に出しました。
そして映画にもなりました。この松居桃楼さんの本が映画になり全国の津々浦々で上映されたのです。
 
戦後の暗い日本へ明るい希望を与えたのです。「蟻の町のマリア」という本はベストセラーになり多くの人の胸を打ったのです。
蟻の町の近所にあるカトリック潮見教会は北原玲子さんを偲んで、「蟻の町潮見教会」という名称も使っています。
松居さんは1910年生まれで1994年に84歳で亡くなっています。北原玲子さんは1929年生まれで1958年に亡くなっています。
そしてポーランドから1930年に来日したゼノ神父も重要な役割りをしたのです。神父は1982年90歳で亡くなり東京のカトリック府中墓地に眠っておられます。
 
この様な人々のことを時々思い出して、私はカトリックの信仰を新たにしています。
1番目の写真は「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原玲子さんです。
2番目の写真はポーランド出身のゼノ神父様が蟻の町の子供達へお菓子を配っている光景です。
3番目の写真は蟻の町で活動中の北原玲子さんとゼノ神父様です。
4番目の写真は府中市のカトリック墓地にあるゼノ神父のお墓です。
5番目の写真は北原家の墓所です。
正面に3基の墓石が並んでいますが右端が「エリザベス マリア 北原怜子之墓」です。真ん中が洋型の「北原家之墓」です。右手前に墓誌があります。
 
それにしても終戦直後の日本は本当に貧しかったのです。食糧難と燃料難が重なり生活はひどいものでした。
そんな中での貧民の町、蟻の町は想像をこえた困窮だったのです。北原玲子さんはその中に飛び込んで人々を助けたのです。
 
それはそれとし今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   後藤和弘
===ゼノ神父の生涯=================
ゼノ・ゼブロフスキー(1891年- 1982年)はポーランド出身のカトリックの修道士です。「蟻の街の神父」として知られ戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力をました。「ゼノ神父」と呼ばれれていましたが神父ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%BB... より抜粋しました。
1891年、ポーランドのスロバ村うまれる。第一次世界大戦のおりに軍隊に志願する。除隊後、職を転々としていたが、 1924年11月13日、聖スタニスラス・コストカ の祝日のミサでの説教に影響を受け、1925年5月10日にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会する。その時34歳。
1930年4月24日、マキシミリアノ・コルベ神父やヒラリウス修道士たちと共に来日。
来日後は長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れた。ゼノ修道士は全国各地に赴いた。1936年にポーランド管区本部の命令でコルベ神父が帰国した後も、日本で活動を続けていたが、1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下で被災する。
コルベ神父はアウシュービッツで友人の身代わりとして処刑された。
一方ゼノ修道士は戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京・浅草のバタヤ街(のちに「蟻の街」の名で著名になる)など全国各地で支援活動を行う。1950年1月10日の例では、払い下げを受けた鉄道員用上衣200着をもって上野駅を訪問、地下道に身を寄せる市民らに配布した。朝日新聞は、この支援活動の姿を「青い目の福の神」として報じている。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれた。
献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られた。またポーランドからは1976年にポーランド人民功労勲章(ポーランド語版)(現ポーランド共和国功労勲章)第4等が授与された。1981年2月に来日した教皇ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問。ポーランド出身の教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表した。1982年4月24日、東京で死去。お墓は府中市のカトリック墓地にある。

「イグナチオ教会の今日のミサの動画配信のご案内」

2022年10月23日 | 日記
今日のミサは 10:00 時から『年間第30主日ミサ 』です。


動画配信のご案内をお送り致します。

https://www.youtube.com/watch?v=7za0NWtfpco

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
シラ書(シラ 35:15b-17, 20-22a)
第2朗読
使徒パウロのテモテへの手紙(2テモテ 4:6-8, 16-:18)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 18:9-14)

なお関口教会からも動画配信があります。

写真は丸い外形のイグナチオ教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)


「今日の日記、嗚呼、時代は変わった!」

2022年10月22日 | 日記

今朝はブログに、「激動の昭和という時代(5)新幹線、東京オリンピック、高度成長」という記事を書いてから駅前のスーパーにお昼の弁当を買いにいきました。「これぞ天丼」という天丼と小さいパックの赤飯を買いました。午前中に「文学の会」に出ていた家内が帰ってきたので作っておいた治部煮とおでん、野菜と鶏肉のスープで昼食にしました。「これぞ天丼」と赤飯を正確に半分に分けて食べました。弁当を買いながら、嗚呼、時代は変わった!と驚いてました。私は昭和33年に大学を卒業しました。その頃はスーパーマーケットというものが日本に普及してませんでした。野菜は八百屋、肉類は肉屋、魚は魚屋、果物は果物屋、米は米屋という具合に店と店を巡り歩いて買い集めたのです。それが現在では一か所のスーパーで全て買えるのです。これこそ大きな時代の変化です。感無量です。数十種の弁当、レトルトパック、冷凍食品などなどもあります。それにしても時代の変化に驚いている今日この頃です。午後は家内と庭仕事をします。今日、スーパーマーケットで撮って来た写真をお送りいたします。


「激動の昭和という時代(5)新幹線、東京オリンピック、高度成長」

2022年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

1945年、昭和20年の敗戦により日本人は自信を失い暗い社会になりました。食糧難と相まって人心が荒れ犯罪が多い時代が続きました。
そんな暗い日本へ明るい希望を与えたのが古橋広之進が自由形400m、800m、1500mの泳ぎで世界新記録をうち立てたのでした。そしてプロ野球や大相撲も復活し次第に社会の雰囲気が明るくなったのです。その後、日本は新幹線の開通と東京オリンピック開催、そして経済の高度成長をとげ現在の豊さを手中におさめたのです。

今日は戦後の日本の発展を写真で示したいと思います。

(1)新幹線の開通と1964年の東京オリンピックの開催

東海道新幹線は1964年(昭和39年)10月1日に東京駅 - 新大阪駅間に開業しました。1番目の写真は開業当時のコダマ号です。
2番目の写真は現在の新幹線の車両です。

世界初の210 km/h運転を達成した新幹線の成功は欧米各国に大きな影響を及ぼしました。
鉄道先進国のフランスは1967年5月28日よりパリ - トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて200 km/hで運転します。

東京オリンピックは1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間、日本の東京都で開かれたオリンピック競技大会でした。3番目の写真はこのオリンピックの開会式で行進する日本選手団です。4番目の写真は「東洋の魔女」と言われた日紡貝塚チームの競技中の様子です。

東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれました。競技や施設を見る旅行が増え、カラー放送のテレビ受像機購入が飛躍的に増加しました。
このため日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらしたのです。
特に開催地の東京では競技施設だけでなく東京モノレール羽田空港線や首都高速道路やホテルなど様々なインフラストラクチャーの整備が行なわました。

(2)戦後史に輝く沢田美喜の混血児の救済事業

2018年の3月に私は大磯駅前にある沢田 美喜記念館を訪れました。そこは樹木の生い茂る山で、同じ敷地に孤児院エリザベス・サンダース・ホームがありました。そして現在、聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。ステパノとは戦死した三男の晃の洗礼名です。
沢田 美喜はこの大磯駅前にエリザベス・サンダースホームを創設しました。それは終戦直後の1948年のことでした。
そして進駐軍兵士との混血孤児を育て上げたのです。その数は2000人近くと言われています。


5番目の写真は以前家内が撮ったもので、沢田 美喜記念館とエリザベス・サンダース・ホームの入り口です。この右の奥には聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。


6番目の写真は沢田美喜を紹介した新聞などの展示です。なお彼女は隠れキリシタンの遺物の収集家としても有名で展示には隠れキリシタンの遺物も沢山あります。
沢田美喜は1901年に三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として現在の東京都文京区に生まれました。1922年にクリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してカトリックの洗礼を受けました。1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し、孤児院の卒園生を数多く移住させました。そして1980年にスペインのマヨルカ島にて心臓発作のため急死しました。享年78歳でした。

(3)東京オリンピック後の経済の高度成長

東京オリンピックは日本の経済の高度成長の基礎を作りました。それでは日本のGDPと各国のGDPの成長を比較してみましょう。図面は「主要国のGDPをグラフ化してみる(最新)」から転載いたしました。(http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html )


7番目の写真の図面は2019年時点の上位10か国の名目GDPの推移です。(IMF予想含む、兆米ドル)
名目GDPの上での最大の国家はアメリカ合衆国、次いで中国が示しています。
この2国だけで世界全体のおおよそ4割。次いで日本、ドイツ、インド、フランスが続きます。


8番目の写真の図面は国民一人あたり名目GDP(主要国、含むIMF予想、万米ドル)です。
アメリカ、日本、ドイツのグループが非常に大きいのに比べて中国、インド、インドネシアのグループが小さいのが分かります。
中国は共産党独裁、インドは階級制度が強い社会でインドネシアはイスラム教の国です。
ここで明確なことは自由な民主主義の社会体制の国々の国民一人あたり名目GDPが非常に大きいことです。

日本人はB29の焼夷弾空襲による灰燼の中から立ち上がり、新幹線開通と東京オリンピック開催を経て経済の高度成長を達成したのです。

昭和時代は1926年に始まり1989年、昭和64年に終わりました。始めの20年間は満州事変、日中戦争、ノモハン事件、太平洋戦争と続く戦争の時代でした。そして1945年の敗戦です。敗戦後は新幹線開通を経て1989年、昭和64年までに経済の高度成長を達成したのです。

昭和という時代は日本民族の歴史において最も大きな激動の時代の一つでした。関ヶ原合戦で江戸幕府が出来上がった歴史や明治維新の歴史に並ぶ激動の時代でした。

それはそれと、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の平凡な日記」

2022年10月21日 | 日記

午前中はブログへ記事を書きました。家内が栗ご飯を炊くと言って栗の皮をむいています。手伝ったら剥くのが非常に難しい。茶色い厚い皮を剥いた後、渋皮を剥くその下に黄色い実が沢山ついてしまいます。早々に私は止めました。

午後から病院に行って診断書を貰いました。それを市役所の自立支援課に届けました。

私は脊髄小脳変性症なので「要支援、1」の認定を貰っています。その認定の更新のために診断書が必要なのです。

市役所の帰り魚屋に寄り生ホッケ一匹を買って来ました。
以上、今日の平凡な日記です。

写真は駅前のビルから北方向を見た小金井市の風景です。


「今日は駅前のデパートへ靴を買いに行きました」

2022年10月20日 | 日記

今日は朝から爽快な青空です。歓喜の秋の日です。
秋空が抜けるように晴れ上がっております。

午後から家内と一緒に駅前のデパートへ私の靴を買いに行きました。

靴を買った後で地下の食料品売り場でオデンの詰め合わせなどを買いました。鍋物の季節になりました。

帰路も蒼天が高く広がり、行き交う人々の顔も晴ばれとしておりました。

撮って来た写真をお送りいたします。