風景写真家、山梨勝弘氏の紅葉の絶景写真です。
写真の出典は、https://discoverjapan-web.com/article/14098 です。
1番目の写真は乗鞍岳です。位ヶ原山荘から少し上へと登ると美しい眺望が眼前に広がります。2番目の写真は秩父多摩甲斐国立公園の西沢渓谷の竜神の滝です。
3番目の写真は秋田県湯沢市の皆瀬川渓谷です。写真は、小安峡に架かる河原湯橋上から下流方向を写したものです。4番目の写真は幻想的なドライブウェイの福島県の磐梯吾妻レークラインです。
風景写真家、山梨勝弘氏の紅葉の絶景写真です。
写真の出典は、https://discoverjapan-web.com/article/14098 です。
1番目の写真は乗鞍岳です。位ヶ原山荘から少し上へと登ると美しい眺望が眼前に広がります。2番目の写真は秩父多摩甲斐国立公園の西沢渓谷の竜神の滝です。
3番目の写真は秋田県湯沢市の皆瀬川渓谷です。写真は、小安峡に架かる河原湯橋上から下流方向を写したものです。4番目の写真は幻想的なドライブウェイの福島県の磐梯吾妻レークラインです。
世界で最も美しいと言われている花の一つと言われています。名前のBennettiはイギリスの植物学者がつけました。
写真の花はまだ咲き始めたばかりで、多くのツボミが垂れ下がり開花に備えてすくすくと膨らんできています。
https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/blog/2016/11/post-2860.html
甲斐駒岳の麓は北杜市の武川という山里です。雑木林を切り開いて畑作農家が点在しています。そんな山里の畑一画が花園になっているところがあります。そこにはて四季折々いろいろな花々が溢れるように咲いています。花園の持ち主の情熱に圧倒されます。見上げると甲斐駒岳の花崗岩で出来た白い峰が輝いています。
そんな風景に魅せられてよく行ったものです。東京から150Kmの遠方なのですがよく行ったものです。年老いて最近は行くこともありません。時々、思い出しては花園と甲斐駒岳の風景を楽しんでいます。懐かしいのです。その風景写真をお送り致します。
それにしても思い出ばかり書いていて済みません。時々、妻か言います。過去のことばかり書いていないで日本の将来の重要な問題を選んで書いたらと。そこでロシアのウクライナ攻撃の残忍さやアメリカと中国の対立などの問題を取り上げて記事を書いてきました。
ところで私の使っているぐブログでは毎日の読者数を報告してくれます。毎日平均でおよそ800人の方々が読んで下さっています。そしてより多くの読者は花の記事を見て下さいます。それとは反対に国際問題などや時事問題の記事は人気がありません。少数の方しか読んでくれません。そんな訳で今日も花々の写真をお送り致します。
それはそれと、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
今年の2月24日からロシアはウクライナへの軍事攻撃を続けています。ロシアのプーチン大統領はウクライナへのミサイル攻撃と戦闘機による爆撃を続行してウクライナの街を破壊しています。ひどい残虐行為です。
そのプーチン大統領はロシア正教の聖職者に会いウクライナ攻撃への支持を得ました。ロシア正教はウクライナ攻撃を善として支持しているのです。
1番目の写真はロシア正教会のキリル総主教がプーチン大統領に称賛の言葉を贈った時の写真です。
キリスト教の教祖のイエス様は、「隣人を愛しなさい」と言い此の世が平和を祈りながら十字架につけられて天に登ったのです。ロシア正教はキリスト教なのでしょうか?
それではロシア正教を簡単にご紹介したいと思います。
正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則です。ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会などがあります。これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく同じ信仰なのです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A )
2010年現在のロシア正教会は約9000万人の信徒数を擁する世界最大の独立正教会組織です。その規模は信徒数で第二位の独立正教会組織であるルーマニア正教会(約1900万人)を大きく引き離しているます。管轄地域はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとしたソ連邦に構成していた諸国や海外のロシア正教会系の教区に及んでいます。
2番目の写真はノヴォデヴィチ女子修道院の全景です。ソビエト連邦の崩壊後に修道生活が本格的に復興されたのです。2004年に世界遺産にななりました。
さて正教会をはじめとして宗教に大弾圧を加えたソヴィエト政権が崩壊した後、ロシア正教会はロシア人の精神的なよりどころとして教勢を再び伸ばしたのです。
ここでロシア正教会とカトリックの違いを簡単に記します。
カトリックと正教の儀式には多くの違いがあります。最も明白なのは十字の切り方です。カトリックでは左肩から右肩に、正教会ではその逆に切るのです。洗礼、クリスマス、復活祭(イースター)の祝い方もかなり違います。またカトリックと正教は、それぞれ異なる暦です。
正教徒も、カトリック教徒と同じく、洗礼者ヨハネ、聖ニコラオス(ニコライ)を崇拝ます。しかしロシア正教会には独自の聖人がいるのです。最も崇拝されているのはラドネジの聖セルギイや「聖なる愚者」の聖ワシリイなどです。
さて一方、ウクライナ正教会のことです。ウクライナ正教会は2018年に統合、独立しました。ウクライナ正教会・キエフ総主教庁、ウクライナ独立正教会が統合し発足した教会組織です。
3番目の写真はキエフのウクライナ正教の聖ソフィア教会です。
ちなみに在米国ウクライナ正教会は、アメリカ合衆国でウクライナからの移民が作った正教会で、本部をニュージャージー州のサウス・バウンド・ブルック(South Bound Brook)の聖アンデレ記念教会(St. Andrew Memorial Church)に置いています。全米に教区が二つあり、全部で85か所の集会所があります。在米国ウクライナ正教会は1915年に設立されたが、現在はコンスタンディヌーポリ総主教庁の下に組織されています。
結論です。2003年時点でウクライナの宗教は、東方正教会(ロシア正教)72%、東方典礼カトリック教会(ロシア正教の礼式でカトリックを受容)14.1%、プロテスタント2.4%、カトリック1.7%、イスラム教0.6%、ユダヤ教0.2%、その他9%となっています。
それにしても宗教は無力なものです。今回のロシアとウクライナとの間お凄惨な戦争を止めることが出来ないのです。人間の欲望を抑えることが出来ないのです。それにも関わらずロシアとウクライナの人々の心のよりどころのロシア正教ウクライナ正教を簡単にご紹介いたしました。
===参考資料===========================
「日本を愛したニコライ神父様を日本人は忘れない」
幕末にロシア正教を日本へ持ち込んで来たニコライ・カサートキンの一生を簡略にご紹介をしたいと思います。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。
着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。ニコライ神父は書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。
その中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。
その葬儀の折には駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。
東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
ニコライの日本への篤い想いを考えながら「イエスの体」のパン片を貰い、神父様の持った十字架へ軽く接吻しました。
ニコライの写真と彼の建てたニコライ堂の写真を掲載いたします。ニコライ堂の写真は数年前に自分が撮ったものです。ニコライ堂は日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。
このニコライ堂は一般開放しています。見学は自由です。
日曜日の9時からの歌ミサの礼拝式にも出席してみて下さい。信者でなくても歓迎してくれます。
一度ご覧になることをお薦めいたします
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料;ニコライの経歴=======
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。
日本へやって来たニコライは、スモレンスク県ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として1836年に生まれました。母は五歳のときに死亡します。
ニコライはベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学しました。
在学中に、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられるようになったのです。
そしてニコライは、函館の在日本ロシア領事館附属礼拝堂が司祭を募集しているのを知りました。すかさず志願して採用されたのです。
神学大学在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなっていたのです。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖されたのです。
そして翌年の1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任しました。
日本では、新島襄らから日本語を教ったそうです。かたわら精力的に正教の布教に努めます。
函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を得ました。その人は後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨です。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行います。
1869年、1879年に二度帰国しましたが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂の正教会本会で没します。
1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると腐らない遺体が現れたそうです。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖します。日本教会が独立して日本正教会となったのはこのときです。ニコライの遺体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっているそうです
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行されました、(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)。
注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)されます。
4番目の写真は聖ニコライ・カサートキンです。
5番目の写真は東京、御茶ノ水にあるニコライ堂です。
6番目の写真はニコライ堂の内部です。私が撮った写真です。
イグナチオ教会の今日の『年間第29主日ミサ 』の風景です。
今日の司式はレンゾ・ル・ルカ神父さまでした。
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
出エジプト記(出エジプト 17:8-13)
第2朗読
使徒パウロのテモテへの手紙(2テモテ 3:14-4:2)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 18:1-8)
イグナチオ教会の今日の『年間第29主日ミサ 』の動画配信のご案内です。
巨木の写真を撮りに行ってきました。
中国の曾遊の地、瀋陽にある故宮の写真をお送りいたします。懐かしいです。写真の出典は、https://jp.trip.com/toplist/topexperience/shenyang-100000003746 です。