後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑」

2022年10月27日 | 写真

尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑の写真です。

1番目の写真は天草市にある尼港事件の殉難者の慰霊碑です。

尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。
1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。
以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。
2番目の写真は尼港殉難者追悼碑(北海道小樽市手宮)です。北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。
3番目の写真は尼港殉難者記念碑(茨城県水戸市堀原)です。1922年3月建立。全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。
4番目の写真は尼港殉難碑(札幌護国神社)です。札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、1927年(昭和2年)、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移されたものです。

「ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件」

2022年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
朝から暗い話は書きたくありませんが、歴史的な事実として記録しておくべきと思います。それは尼港事件(ニコー事件)のことです。
ロシアでは1917年の革命以後、「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行いました。
しかし西欧諸国の共産化は失敗します。そこで工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにしていました。
その事実は戦前のわが国の新聞記事で具体的に確認できます。
そればかりではなく極東における「世界革命の推進」過程で、多くの日本人が犠牲となる凄惨な事件が少なからずあったのです。

これらは現在は忘れている歴史です。
神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』を用いて、共産軍がどのような工作活動をしていたかについて、当時の新聞記事を探していくと、たとえばこのような記事が見つかります。

「尼港邦人全滅 言語に絶する過激派の惨虐」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126695&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA )


1番目の写真は大正9年(1920)4月27日の報知新聞です。
「尼港」というのは黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にある都市のニコラエフスクのことです。

赤軍ロシア兵がロマノフ皇帝軍のロシア兵を2500名を逮捕し200名を処刑したと報じています。
尼港地図を示します。

2番目の写真は当時のアジアの地図です。ニコラエフスクは右上の端にあります。樺太の西です。

ニコラエフスクは以前は人口2000人程度の町であったようですが、1892年に函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が事業としての漁業に取り組み、ロシア側がそれを歓迎したことから多くの日本人が住むようになったのです。
その後日本人が漁業をすることは禁じられたものの海産物の交易で栄えるようになり、1896年に島田元太郎が設立した島田商会など、いくつかの日本企業がこの地に進出していました。

その後のロシア革命によってロシアが連合国から離脱します。
1918年にアメリカの呼びかけにより連合国は、赤軍と戦闘状態になったのです。これに応じて日本もシベリア出兵に参加します。

その後ソ連の革命軍が勢力を拡大して来たためにニコラエフスクの治安が悪化します。
その結果、市民および日本人居留民は日本軍の増援を請願したのです。1920年のことです。

尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真を示します。

3番目の写真は尼港事件を引き起こしたソ連の赤軍パルチザン幹部の集合写真です。

尼港事件とはニコラエフスクで起きた惨殺事件のことです。
大正9年(1920)当時、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊とその家族たちが在住していたのです。
それをロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザン軍が同市を包囲し、七百数十名いた日本人のほとんど全員が殺されたのです。

この痛ましい事件を当時は「尼港事件」と呼んでいました。
尼港帝国領事館焼跡を示します。

4番目の写真は尼港にあった日本帝国領事館の焼跡です。
報知新聞の記事には以下のように報じられています。

・・・当時同地に滞在しあり三月三十一日同地を出発して四月八日亜港に来れる米人マキエフの語る尼港の情況以下の如し。・・・

尼港砲撃
・・・初め赤衛軍が尼港市街の砲撃を開始せる時、日本守備隊長は哈府日本軍指揮官の命により中立を宣言せり。然るに赤衛軍は市街に侵入したる後旧露国軍人、官吏等二千五百名を捕縛しその二百名を惨殺する等横暴惨虐看るに忍びざるものありしかば日本守備隊長は抗議を申込たるに、赤衛軍は却て日本軍の武装解除を要求し来り日本守備隊長断然之を拒絶したる□遂に日本軍と赤衛軍との間に戦闘開始せらるるに至れり。

惨虐無道
戦闘は二昼夜に亘りて激烈に行われ、日本人の奮闘目覚しかりしも衆寡敵せず、遂に日本軍の不利に終り、日本領事館は焼かれ領事はその他の日本人と共に自ら火中に投じ、島田商会亦全焼して店員は悉く殺されたり。日本守備隊長は戦死せり。

過激派は露人たると日人たるとを問わず掠奪惨殺を行い、狂暴言語に絶し、罪なき婦女子を銃剣を以て蜂の巣の如く刺殺したるを目撃せり。

該米人の尼港を去るとき日本人百三十名許り過激派に拘禁せられありしが、日々待遇冷酷を極めつつあり。その惨虐なる行為は外部に対し極力秘匿しある為、真相分明せざるも恐らく今は一人も生残るものなかるべしと云えり。

尚現在赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり朝鮮人は掠奪したる軍服を着用しあり。・・・・・

この記事の最後で「過激派に拘禁」されていた邦人は正確には122名なのだが、わが国が送った救援隊が近づいている情報を知って、5月24日以降全員黒龍河畔に連れて行き、ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうです。

監獄の壁には日本人が鉛筆で書いた落書きがいくつか残されていて、「大正9年5月24日午後12時を忘るな」とあり、12時を指した時計の針が描かれていた。

虐殺された邦人の写真も何枚か残っています。
http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_si.php?photo=si07

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10150853&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA にも詳報があります。

ニコラエフスク(尼港)は惨憺たる修羅場と化していたのです。
黒煙市街に溢れる尼港を示します。


5番目の写真はニコライエフスクの焼け跡の惨状です。

Wikipediaによると、この尼港事件で殺されたのは日本人だけではなく、ニコラエフスクの総人口のおよそ半分に及ぶ6000名を超える市民が虐殺され、日本人犠牲者総数は判明しているだけで731名だと言われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

以上が1920年に起きたニコライエフスクの於けるロシア兵による日本人惨殺事件です。

実は、この事件のように多数の日本人が虐殺される事件は他にも多数あったのですが、残念なことに戦後になってこのような史実がマスコミなどで詳しく伝えられることは無かったのです。

戦前の日本人なら誰でも知っていたような重大事件が、なぜ戦後の日本人には伝えられないのかと誰でも不思議に思うところです。

今日は1920年に起きた尼港事件のことをご紹介させていただきました。

 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)