後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「晩秋の午後のドライブ、車窓からの風景」

2022年11月09日 | 写真
家内が走る車から撮ったつまらない写真ですが、如何にも晩秋の感じが漂っています。深大寺へ行って来ました。
間もなく冬がやって来ます。皆様風邪なぞひかず、お元気にお過ごしください。

「鎌倉の円覚寺の紅葉風景」

2022年11月09日 | 写真
鎌倉にはお寺が沢山ありますが、私が一番好きなお寺は円覚寺です。
規模の大きいお寺ですが建物やその配置にお釈迦さまの優しさ、慈悲が感じられるのです。
建長寺の華美な建物のように押し付けがましさが無いのです。京都の高安寺の雰囲気に似ています。

今頃は紅葉が綺麗なことでしょう。何度も訪れた円覚寺を懐かしく思います。その紅葉の写真をお送りいたします。

写真は「円覚寺の紅葉風景の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「京都の紅葉風景」

2022年11月08日 | 写真
京都の紅葉風景です。
写真の出典は、https://photo53.com/ です。

1番目の写真は嵐山、保津峡の紅葉です。
渡月橋から少し上流へ行った所です。

2番目の写真は祇王寺です。
晩秋の嵯峨野の敷き紅葉の名所。苔庭に降り積もるカエデの葉が見事です。

3番目の写真は常寂光寺です。
山門から多宝塔までかなりの高低差があり、すべての場所に美しい紅葉の彩があります。

4番目の写真は勝持寺です。
カエデの数はとても多く、その発色も毎年素晴らしいです。 それほど混んでいないイメージがあります。

「活躍したアイヌ、知里幸恵、真志保、川村カネト、萱野茂、そして私のアイヌの友人の思い出」

2022年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は社会のいろいろな分野で活躍したアイヌの人々をご紹介したいと思います。そして私のアイヌ人の友人の思い出を書きます。なお付録として知里幸恵さんの「アイヌ神謡集」の一節をご紹介致します。
さてアイヌ民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人が4人いました。知里幸恵さん、弟の真志保さん、川村カネトさん、そして萱野茂さんです。

知里幸恵さんはアイヌの詩の「アイヌ神謡集」を伝え有名になりました。『アイヌ神謡集』は1920年、知里幸恵が17歳の時に金田一京助に勧められ、幼い頃から祖母モナシノウクや叔母の金成マツより聞き覚えてきた「カムイユカラ」をノートにアイヌ語で記したのが始まりです。
1921年金田一京助に送ると、柳田国男の郷土研究社から出版されたのです。末尾にこの「アイヌ神謡集」をご紹介してあります。

知里幸恵さんの弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道帝国大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。

萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。

この4人の中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。

彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。

さて話がそれましたが最後に私のアイヌの友人の思い出を書きたいと思います。
少年の頃、私にはアイヌ人の友人がいました。北海道に旅をするとこのアイヌの友人のことを思い出します。
終戦後に、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地に移住して来たのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。86歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。
私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言わないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。

戦後に日本共産党が困窮しているアイヌ村落の人々を助けるために東北地方への移住を斡旋したというのです。しかしそれは無責任な移住斡旋でした。移住後の就職も斡旋しないで、移住後の生活の世話もしませんでした。
消えてしまった私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。
これが私のアイヌの友人の思い出です。

今日は日本の社会で活躍したアイヌ、知里幸恵、真志保、川村カネト、萱野茂をご紹介しました。そして私のアイヌの友人の思い出を書きました。

ここでアイヌ民族の生活の様子を示す4枚の写真を追加しておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


===付録、「アイヌ神謡集」より==================
知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』

「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.

海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,

「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。

この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.以下省略します。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。

「北海道の息を飲むような紅葉風景の美しさ」

2022年11月07日 | 写真
日本のあちこちの紅葉風景を調べてみると北海道の紅葉風景が一番素晴らしいと思います。
その写真をお送りいたします。写真の出典は、https://hokkaido-labo.com/area/all/hokkaido-autumn-leaves です。
1番目の写真は阿寒湖の紅葉です。
2番目の写真は層雲峡の紅葉です。
3番目の写真は札幌から車で1時間の夕張の滝の上公園「千鳥ヶ滝」の紅葉です。
4番目の写真は美瑛の拓真館の白樺並木の紅葉です。
 

「蝦夷に咲く花々の写真」

2022年11月07日 | 写真
写真は順に、
エゾノリュウキンカ(蝦夷立金花)、蝦夷トリカブト、エゾカンゾウ(蝦夷萱草)、蝦夷スカシユリです。
写真は「蝦夷に咲く花々の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

関口教会の今日の『年間第32主日ミサ 』の風景」

2022年11月06日 | インポート
今日はインターネットでイグナチオ教会のミサにあずかりました。


しかし関口教会のほうの今日の『年間第32主日ミサ 』の風景写真をお送りいたします。こちらの方が良く見えます。

詳細は、
https://www.youtube.com/watch?v=Fp0txVY3Oa8 に出ています。


「ゴッホのキリスト教と孤独と油彩画」

2022年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 

今日は 日曜日なので宗教のことを考えてみたいと思います。宗教は人それぞれです。宗教の影響も人によって違いす。

今日はその一例としてフィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)へ与えた影響を考えてみたいと思います。

さて始めにゴッホ(1853年-1890年)の絵を描かれた年代順にお送りします。

1番目の絵画は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。初期の作品で、キリスト教信者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。牧師になろうとし挫折した頃の絵です。しかしこの画風は続きませんでした。

2番目の絵画は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。南フランスに移っての作品です、

3番目の絵画は同じく1888年の「夜のカフェテラス」です。

4番目の絵画も1888年の「黄色い家」です。

5番目の絵画は1888年の「アルルの跳ね橋」です。

6番目の絵画は1890年の「カラスのいる麦畑」です。

7番目の絵画は1890年の7月の鳥が低空を飛んでいる「麦畑」です。

それにしてもゴッホは孤独な男でした。結婚もせず37歳で死んだのです。
生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。
今日示した7枚の絵画のうち6枚は死の直前の1988年から1990年に描かれました。現在世界中で称賛されているゴッホの絵画は全て死の前の2年間に描かれたのです。

それではこの孤独な男は何を考えて生きていたのでしょう?
その精神の遍歴の様子は、http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gogh/Gogh.htm にあります。抜粋をお送りいたします。

(1)牧師になろうとしたが挫折
ゴッホはオランダのプロテスタントの牧師の息子として1853年に生まれた。ゴッホ自身もキリスト教への信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりも無い数多くの課目も勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの福音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする。しかしあまりにも行き過ぎた熱意のため解任されてしまう。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい。そんなゴッホは、人間関係がうまく行く筈が無い。ここで牧師になることを断念した。

(2)ハーグに出て画家を目指し社会主義へ
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。

(3)印象派への転身と傑作の絵画を描く
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られ評価され始めた時期であった。享年37歳。
パリの北にあるオーベールにフィンセント・ファン・ゴッホの墓と弟テオの墓が並んでいる。

ゴッホの精神の遍歴を想うと粛然とします。キリスト教はゴッホに対して無力でした。少しも彼の苦悩を救いませんでした。
しかし晩年に描かれた数々の絵画は人類の輝かしい遺産になりました。ゴッホの精神の遍歴を一切知らなくてもその深い美的感動が人々をとらえるのです。不思議です。絵画の偉大な力です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「イグナチオ教会の今日の『年間第32主日ミサ 』の動画配信」

2022年11月06日 | 日記

今日のミサは 10:00 時から『年間第32主日ミサ 、死者の日ミサ』です。

動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

なお関口教会からも動画配信があります。

写真は丸い外形のイグナチオ教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)


「東京の浜離宮の紅葉の写真」

2022年11月05日 | 写真

東京の浜離宮の紅葉の写真をお送りいたします。

東京も11月になるあちこちの公園の樹々が紅葉しはじめます。
そこで浜離宮の紅葉の写真をお送りいたします
紅葉の美しい11月中旬に是非お出掛け下さい。
風景写真はインターネットで「浜離宮庭園の紅葉写真」を検索して、お借りしました。