後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「中秋の名月の写真」

2024年09月21日 | 写真
2024年の中秋の名月は、9月17日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽歴 の8月15日の夜に見える月のことです。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。
写真はインターンットからお借りしました。

「紅葉は私の心を震わせる」

2024年09月21日 | 写真
毎年秋になり樹々が紅葉すると私の心が震えます。紅葉の風景に感動するのです。まだ近くの小金井公園の樹々は紅葉していません。しかし見事に紅葉した風景を思い出して感動するのです。それで思い出すのは昔、仙台に住んでいた頃に見た蔵王山の紅葉です。
今日は蔵王山の紅葉をご紹介いたします。
山形県の蔵王温泉から登った蔵王の中腹にドッコ沼という神秘的な沼があります。昔、沼の前の山小屋に何度も泊まり、その上の懺悔坂でスキーをしたのです。懺悔坂の頂上が地蔵岳です。
懺悔坂は急坂で狭い雪道です。その上雪が無くて氷になっているのです。スキーで滑り降りるのは恐怖の連続です。こういう時は人間は自然と悪行を懺悔しながら滑り下ります。
もう60年以上も前のことですが懺悔坂をスキーで下りた時の恐怖を忘れません。怖いから面白いのです。地蔵まで登っては何度も懺悔坂を滑り下りました。滑り下りたというよりスキーを横にして雪崩れ下りた箇所が 幾つかあったのです。
そんなことを懐かしくい思い出しながら蔵王のドッコ沼と地蔵岳の紅葉の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://forestpost-jp.com/2021/09/28/yamagatazaokoyo/ です。


「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」

2024年09月21日 | 写真
世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景の写真をお送り致します。
昔からカナダの紅葉風景は世界一美しいと聞いていました。しかし見に行けませんでいた。せめて写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。

「日本の美しい紅葉」

2024年09月21日 | 写真
世界中に紅葉が美しい所があります。しかし日本の紅葉は優しい風景です。カナダやヨーロッパの紅葉と色合いが微妙に違います。
ここでは日本の紅葉の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://allabout.co.jp/gm/gc/447887/ です。

1番目の写真は上高地の大正池です。

2番目の写真は旧白山スーパー林道の姥ヶ滝です。

3番目の写真は広島県庄原市の帝釈峡です。

4番目の写真は北海道えりも町の豊似湖です。

「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

2024年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
松江の宍道湖のウナギの蒲焼きも美味しいものです。
詳しくは、https://jimohack.shimane.jp/matsue/222/ をご覧ください。
松江のうなぎは「宍道湖七珍」の一つにもなっている郷土料理です。




「鮎料理で有名だった坂東梁の閉店」

2024年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
利根川の中流にある坂東梁から以前は毎年手紙が来ていました。今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと書いてあります。

1番目の写真は坂東梁です。関越道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。
2番目の写真は鮎を焼いている様子です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。鮎料理はこの塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。

3番目の写真は客席からの風景です。客席に座ると上の写真のように木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。

4番目の写真は鮎を捕る梁です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時間がありますので、上の写真のような簗に降りて行き、しばし水流を眺めます。

5番目の写真は家内が鮎を食べているところです。昔、幼少の頃、多摩川の天然鮎を沢山食べたことを思い出すそうです。このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう少なくなってしまったのです。夏の風物詩が一つなくなり、淋しくなりました。

鮎料理で有名だった坂東梁をご紹介致しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「霞ヶ浦に棲んでいる巨大なアメリカ鯰」

2024年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
加藤 英明 さんのブログから転載します。http://shizuokakameken.seesaa.net/article/486281948.html
霞ヶ浦で巨大なナマズ類が捕獲されています。
その正体は、アメリカ原産の外来種、アメリカナマズIctalurus punctatusです。最大130cmを超える大型の肉食魚です。
アメリカナマズは、1971年にカリフォルニアから持ち込まれ、その後、各地に放されて拡散しました。霞ヶ浦では、1981年頃に野外で捕獲されるようになり、その後増殖しました。
加藤 英明 さんとナマズの写真をお送り致します。

「ドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方」

2024年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べた。ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにする。ところが魚売り場を良く見ると平べったい鯉も売っている。うろこがほとんどないドイツの鯉である。溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げるて食べる。タラの切り身はムニエルやポアレ。ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになる。ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っている。

1番目の写真は香草とともに酢づけにしてガラス瓶に入れたニシンです。
ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにする。ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていた。購入し、苦労して三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけ、オーブンで焼き上げた。香ばしい匂いが家中に漂う。
大きな期待で食べたら不味い!ライン河のウナギは小骨が硬く、蛇を想像させるような野生の嫌な匂いがして食べられたものでない。用意した高級なモーゼルワインも台無し。土浦の天然仕立てウナギを食べるたびに、ラインウナギのまずさを思い出して苦笑を禁じえない。

2番目の写真は燻製にしたウナギです。

3番目の写真は皿にもった燻製にしたウナギです。

4番目の写真はドイツ鯉です。
鯉は切身にして粉をまぶしてフライパンでバターで焼いて食べます。
ドイツの魚文化で特筆すべきマテイエステー・ヘリングという一品がある。生のニシンを琵琶湖のフナずしのように発酵させたものである。マテイエステー・ヘリングという。イカの塩辛とくさやの干物をミキサーにかけたような味である。はじめは臭くて食べられない。しかし、たいていのレストランのメニューにあり、腐ったような感じのグチャグチャに身が崩れた一匹が大きな皿に出てくる。結構高価である。はじめは辟易(へきえき)したが、二、三回食べて病みつきになってしまった。
しかし、マテエステー・ヘリングにも上出来や失敗作もある。上出来なものは臭いが高貴な味がする。出来損ないは腐ったような味がするだけである。日本では一度も見たことがない。どこの国にも、どこの地方にも独特な魚の食文化があり、われわれの人生を味わい深いものにしている。これもクオリティー・オブ・ライフを決定する重要な文化である。
私は1969年にドイツにう行くまで、長い間、ヨーロッパ人は魚を食べないと思い込んでいた。しかし彼等に混じって生活をすると実に良く魚を食べることに吃驚した。特に最近は日本の寿司の普及で生の魚を食べるのも普通になったと言う。
人類の経済活動が国際的に広がって、いわゆるグローバル化して来た。経済活動がグローバル化したのと並行して食文化もグローバル化したのだ。各国の魚の食べ方も例外ではない。

今日はドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国のコスモスの花の写真をお送り致します」

2024年09月19日 | 写真
首都、ソウルから近い九里漢江市民公園のコスモスの花の写真をお送り致します。出典は、「満開のコスモス畑で韓国の秋を感じる/九里漢江市民公園」One more Korea (onemore-korea.site) です。
続いてソウルの傍の漢江沿いにある九里漢江公園のコスモス畑の写真です。https://ameblo.jp/kayon235960/entry-12325804764.html

「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

2024年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

後期高齢者になると人生のあれこれを思い出して楽しんでいます。この頃は私の人生で出来た不思議な人間の絆を思い出し考えています。そして忘れ得ぬ人々の顔や姿を懐かしく思い浮かべています。
今日はそんな不思議な人間の絆と忘れ得ぬ人々のことを書いてみようと思います。人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。これらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。

(1)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆
ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深い印象があるのはHootaさんという方です。彼はブログやメールを通してヨットの帆走技術や修理方法を私にいろいろ教えてくれていました。その縁で、2009年の春に千葉県に係留してある彼の艇を訪問し、一晩ビールを一緒に飲んだのです。それから数週間して駿河湾で素晴らしい帆走に招待してくれた方です。Hootaさんは、北欧風の長さ43フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していました。千葉県の保田港を母港にしていました。Hootaさんとの絆は私の心の貴重な財産になりました。

(2)結婚という不可思議な人間の絆
人間の絆は運命のようなものです。その絆で一番不可思議なものは結婚によって出来る男女の絆です。大した必然性も無く偶然会った男女が何故か愛し合うようになり結婚します。それには確固とした理由が無い場合もあります。そして子供や孫も出来ます。人間の親子は人にもよりますが大体20年間くらいしか一緒に暮らしていません。それなのに夫婦は40年、50年それ以上一緒に暮らします。育ちも趣味もまったく違う夫と妻が何事も無いように一緒に暮らしているのです。結婚するまでは全く赤の他人だったのです。ですから私は結婚ほど不可思議な人間の絆は無いと考えています。結婚して一緒に暮らし始めてから好きになって愛し合う夫婦もいます。結婚が愛し合う原因になっているのです。このように書くと未婚の若者が、それは嘘だ、愛し合ったから結婚するのだと反対します。そのような理解があっても良いのです。しかし40年、50年と一緒に暮らしてみると結婚が愛し合う原因になっているように思えるのです。子供や孫が出来るとそれがまた夫婦愛を一層強めてくれます。私も幸運にも良い伴侶を得て結婚という不可思議な人間の絆に毎日感謝しています。実に不思議な絆です。

(3)親子関係の絆の強さと不思議さ
親子関係ほど強い絆は無いと思います。親子関係を父と息子の関係と母と息子の関係だけに限定して描くと明快に整理出来そうです。一般に父と息子の関係は悪い場合があります。しかしその問題も孫が出来てから次第に解消してきます。母と息子の関係を見ると始めから完璧に仲が良いのです。この世で母子の関係ほど強い絆は無いと思います。外出すると幼児を連れた若い母親によく会います。幼児が可愛いので笑顔で見とれていると母親が挨拶をします。「どうです。素晴らしい子でしょう!」という自慢が笑顔に見え隠れします。女性にとって一番幸せな時期なのです。親子関係の絆はこれ以上書く必要がありません。

(4)あるモンゴル人と日本人の絆
数年前に旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は亡くなったあるモンゴル人と日本人の絆を書いたものです。モンゴル人のソヨルジャブさんの追悼文をまとめて本にしたものです。日本人によって書かれた追悼文です。この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。その絆には国境も思想も宗教も一切介在しない純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。当然日本人も彼を慕い愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。ソヨルジャブさんは満州国の国立ハルピン学院を卒業し、満州国のモンゴル地区の官吏になりました。敗戦後は日本へ協力したとして収容所に入れられ34年間も過酷な運命に甘んじたのです。日本人と付き合ったために悲惨な収容所生活を送ったのです。しかし彼の日本人へ対する信頼と尊敬は微動だにしなかったのです。ソヨルジャブさんの一生は阿部重夫さんによっても書かれています。(http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html)

(5)インターネットで出来た人間の絆
彼は「ひかるのさん」と言います。インターネットを通して知り合いました。彼はしみじみとした人生を静かに歩み、そして孤独のなかに50歳代で旅立って行きました。瀬戸内海のある島の出身だったようですが、故郷にはなにか深い事情があり生涯一度も帰りませんした。インド、タイ、ブータンなどの南アジアに25年も住みながら、各地の伝統的な染色布や柄織りの布の美しい写真を自分のブログに紹介していました。「インド ブータン アジアの布 染織美術館」というブログで、URLは、http://asiancloth.blog69.fc2.com/ です。このブログは今でも生きています。このブログを発見し、その内容に感動したのは2008年8月のことでした。染織の写真が美しいだけではありません。「ひかるの」さんが種々の民族を尊敬し何かを学ぼうとしているのです。読んでいて心豊かにさせるのです。こうして彼とはネットの上で知り合い、その後何度かお会いしました。物静かな人柄でした。その「ひかるの」さんが肺ガンで亡くなる直前にもお見舞いに行きました。亡くなってもう10年以上になります。忘れ得ぬ人でした。彼は独身でしたが息子が一人いました。バンコックでストリートチルドレンだった少年を引き取り、育て上げたのです。大人になってバンコックで働いています。息子は病身の「ひかるの」さんの最後の世話をあれこれしてくれました。このタイの息子は「ひかるの」さんにとっては唯一人の家族です。しかし最後はその息子とも別れ、東京へ帰って来ました。そして肺ガンで2010年の5月に亡くなったのです。正確な享年は分かりませんがまだ50歳代のように見えました。しみじみとした人生を送り、静かにこの世から退席して行ったのです。「ひかるの」さんのブログ、http://asiancloth.blog69.fc2.com/  から彼の撮った写真を5枚を転載します。

1番目の写真はバンコックにある精霊の樹木です。ヒンズー教の影響を受けた庶民の信仰です。近代的なバンコックにもこんな信仰もあるのです。日本でもよく見られる樹木信仰の風景です。

2番目と3番目の写真はこれはブータンの衣装のキラです。野蚕の絹を手織りにし、草木染にした布です。見ていると暖かい気持ちになるから不思議です。


4番目と5番目の写真もひかるのさんが撮った写真です。この2枚は肺ガンがちょっと良い時に病院を抜け出して近所の公園を散歩した時の風景です。

今日は不思議な人間の絆と忘れ得ぬ5人の人々のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「満州の建国と滅亡後の苦難」

2024年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族は江戸幕府末期からいくつもの外国との戦争をくりかえしました。開国を決めて 以降の明治政府も「富国強兵」を国是とし、1945年の敗戦までの77年間は戦争の 連続で、まさに戦争の時代でした。
その詳細な一覧は、「日本の戦争歴史年表」、http://www.yuseiunionkyusyu.jp/sennsounorekisinennhyou2.pdf に示してあります。この資料を見ると特に昭和時代の満州の建国と滅亡は1945年の日本の敗戦に直接つながる原因になっています。

昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。
しかしこの満州国の建国は日本を破滅に導いたのです。
それでは「満州の建国と滅亡後の苦難」の経緯を箇条書きにして分かり易くします。

(1)満州事変とは?
満州事変は、https://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 に詳細な説明があります。分かりやすく抜粋を示します。
満州事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 「柳条湖事件」に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領した軍事行動でした。1933年5月31日の塘沽協定成立で終わりました。日本と中華民国との間の戦争でした。中国側の呼称は九一八事変です。 関東軍は約5か月で満州全土を占領したのです。

1番目の写真は柳条湖事件直後の柳条湖の爆破現場です。

(2)張作霖爆殺事件と張学良の反日行動
関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。
事件により父親を殺された張学良だが、日本を表立って批判することは無かった。張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蒋介石の南京国民政府への合流を決行し、満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。

(3)柳条湖事件の詳細
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。 これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。
事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルピン出兵の意向を示した。

(4)清朝皇帝だった溥儀の擁立
関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した。事変勃発から4日目のことである。
昭和6年9月22日、当時馮玉祥と孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難していた清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。
23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップが石原中佐を訪れ、蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した。
特務機関長の土肥原賢二大佐は、溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、昭和6年11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

(5)満州国の建国
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。

2番目の写真は錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍です。
3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。

3番目の写真は天津時代の溥儀と婉容です。

3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。1932年3月4日、熱河省都承徳を占領し、4月に長城線を確保し、万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった。
同年3月12日、犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

4番目の写真は満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀です。

(6)国際連盟脱退との関係
中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、1932年3月、リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表した。
熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。
しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。

(7)満州国の滅亡と溥儀の逮捕(https://ja.wikipedia.org/wiki/満州国 )
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。
8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。
溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

(8)日本兵と日本人入植者の悲劇と苦難
戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留と引揚に苦難によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

5番目の写真は瀋陽にある九・一八歴史博物館です。九・一八歴史博物館とは1931年の柳条湖事件の歴史博物館のことです。

以上が「満州の建国と滅亡後の苦難」でした。しかし悲劇的な事件は以上の他にも数多くあったのです。
日本民族は永久に「満州の建国と滅亡後の苦難」を忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「中国の都会と農村の美しい風景写真」

2024年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の中国を知っている人々が吃驚するような経済成長をしている中国です。
1980年以後の鄧小平の時代からです。
今日はその中国の都会と農村の美しい風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は 夜の香港の美しい風景です。香港は英領の頃も高層ビルがありましたが中国領になってからさらに高層ビルが増えてのです。{https://publicdomainq.net/hong-kong-cityscape-night-0013280/ )

2番目の写真は上海です。(https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000017093.html )

3番目の写真は蘇州のそばの銭江新城です。(https://crea.bunshun.jp/articles/-/11485 )

4番目の写真は蘇州付近の農村です。(https://pixta.jp/photo/20111191 )

5番目の写真は奥地の四川省郷城県の美しい田園風景です。(http://j.people.com.cn/n/2015/0618/c94657-8908444.html )

6番目の写真は中国でもっとも美しい村と言われている四川省丹巴です。美人谷のある山里の秘境村です。

今日は中国の都会と農村の美しい風景写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」

2024年09月17日 | 旅行記

今日は大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノをご紹介いたします。

日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。

2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かキロロのホテル・ピアノに泊りました。

キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。

ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を下に写真で示します。

まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を2枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.co.jp/  をご覧下さい。

066

084  上が6月の新緑の頃で、下が10月の晩秋の頃の写真です。最初の白樺林の写真と下の最後の落葉してしまった白樺林の写真は同じ所を撮ったものです。


「ホテルの思い出(11)ザ・ウインザーホテル洞爺の有為転変」

2024年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は北海道のザ・ウインザーホテル洞爺をご紹介したいと思います。このホテルは洞爺湖を見下ろす山の上に建っています。周囲の風景が良く、その上内装が華麗で美しいホテルです。2014年12月10日に泊りました。ウインザーホテル洞爺は絨毯が厚く、その模様が落ち着いた美しい柄で感動的でした。その上ホテル内の壁紙や装飾が実に華やかです。ケバケバしくない品の良い華やかさです。そこでホテルの外観と内装の写真をお送りします。華麗な内装の美しさもお楽しみ下さい。外観の写真以外は家内が撮った写真です。
最後の写真は私どもが食べた朝食です。窓の下に洞爺湖が広がっています。
さてウインザーホテル洞爺の内装は華麗です。しかしそのかげには経営の破たんによる有為転変があったのです。
そんな苦難の歴史があったような気配を感じさせない従業員の態度には別の意味で非常に感動しています
それでは、http://biz-journal.jp/2014/05/post_4766_2.html  よりの抜粋を以下にお送り致します。
このホテルには有為転変の歴史があり、経営が破綻した北海道拓殖銀行の乱脈融資により生まれたと「バブルの殿堂」としても知られていました。
不動産会社カブトデコムの子会社エイペックスが700億円を投じて1993年6月に開業した会員制の高級ホテルのエイペックス洞爺が前身でした。
イタリア産の大理石張りのロビーなど贅を尽くした建物は、バブルならではの産物でした。
 しかしバブルは崩壊し、同ホテルのオープンを境にして、巨額融資した拓銀とカブトデコムの関係が悪化します。
カブトデコムの創業者・佐藤茂氏の手形訴訟事件や拓銀幹部の背任問題などの不祥事が続出したのです。そして97年11月、バブル崩壊で多額の不良債権を抱えた拓銀が破綻しました。エイペックスも98年3月に自己破産を申請しました。負債総額は949億円に上ったのです。
そんな中、同ホテルに救済の手を差し伸べたのがセコムだった。2000年、セコムグループのセコム損害保険の子会社、十勝アーバンプロパティーズがホテルの土地・建物を60億円で購入し、施設を改装してザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパと名前を変え、2002年6月に営業を再開したのです。
2014年4月2日、セコムは土地・建物と、保有株式を全て売却すると発表します。同日、売却先の明治海運と基本合意書を締結しました。
2014年3月24日、新会社の株式会社ザ・ウインザー・ホテルズインターナショナル(北海道洞爺湖町、代表取締役社長 丹生雅之 明治海運取締役)を設立しました。不動産及び新会社の株式が明治海運に譲渡され、同年7月1日より明治海運グループとなったのです。

以上いろいろ煩雑な経過をご紹介したのは日本のバブル経済の崩壊の混乱と悲劇を忘れないようにと祈るからです。ウインザーホテル洞爺は一つの例に過ぎません。日本中で同じような悲劇が起きたのです。
ウインザーホテル洞爺の楽しい思い出とともに私は日本のバブル崩壊の悲しみを忘れません。華麗な観光ホテルのほとんどは一方で苦難の道を歩んだのです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)