春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

消えた『蚕さん』

2018-09-17 15:12:00 | イベント

日野市内の 市内でも里の風情を残す「川辺堀之内」は台地の一角が森で覆われ、その部分がなんと城館であったと言われる報告がされている。
城館の台地は北側のネットがゴルフ練習場に変わっているが、台地の一角であった。
石積みの外壁に、南側の最下層は水路が走り、城郭の様子を備えている。
折しも輸送ルートの一つとして国道日野バイパス道路の延伸を控え 周辺に建設造機が入り、道路建設に自然の風情を含め大きく変わりつつある。
そんな環境変化を前に、僅かに残される、姿を捉え追って みた。

城館側は一面、竹林で覆われている。旺盛な繁殖力から、地面を掘りおこす「根切り溝」などの手入れが行き届かなく、 竹林は根を張り、この半世紀でも二倍以上の広さに拡大した。
未だ手の付けられない竹林から土器、石器、分銅、嘉永通宝、梅小鉢、醤油の壺、といった、歴史的な遺産が出土さ れている。
この鬱蒼とした竹林が開発の手を阻んでいる一方、城館に繋る歴史ロマンが眠っているのである。

◇農業を守った。
長年同地に住み、農業を通じて先祖伝来の家風を守り、未来に繋げ築きあげてきた遺産が,何の痕跡も止めず,つぎつぎと消されていくことに、悔しい思いであろう。
たまたま散策している折に、当時に長く住まわれている老人から、「これから壊される家が、蚕の跡が残っているよ」と言われ、既に幻想の世界にある『かいこ』の存在に驚き、その事実に駆り立てられた。
里の風情の一つとして養蚕を営んでいた事実を農家が消え去る前に、捉えてみた。

◇地域を支えた養蚕業
養蚕というと八王子は戸中期に産地として全国的知られ、幕末以降には生糸輸出の集積場としてもが有名である。文明開化の間もない時期に国産の生糸が国際的にも脚光を浴び、輸出品の花形であった。八王子と横浜に絹の道が誕生し、巨万の富を得た実業家も誕生した。
隣接する日野も養蚕業に適した土地で農家の米作りとともに、農家が養蚕業でも生活していた。
市内の仲田の森は、「農林省・蚕糸試験場日野桑園」で昭和55年まで蚕・桑を国策施設で研究し、日野も蚕業で関わりの深さを持っていた。
養蚕は,確実に現金収入が得られる手段としてかなりの農家が養蚕を手がけ,昭和40年代の前半まで続いたが、労力の割に経済的に割の合わないものになって自然に消えていった。

◇家屋に残された養蚕の痕跡
建設重機が入り、破壊される数日前に貴重な記録を留めることが出来た。
屋敷の入り口から入って右手の一角に農機具を収容し、作業が出来る、物置を兼ねた木造建物がある。平家だが、屋根下は採光を取り入れる窓を持ち、養蚕作業場に使われた可能性が高い、作りになっている。

敷地の奥で、背後に樹木が覆われる平屋建の母家がある。
当地の代表的な旧家に相応しい象徴的な建物がで~んと構えてあった。
屋根は茅葺きであったようであったが、維持できず、瓦葺き変わっている。
2度の葺き替えで、瓦が比較的真新しく輝き、入母屋作りの立派な屋根が目を引いた。
屋根の頂部から建物側面に当たる破風が結構高いのは外見は平家だが総2 階2 層の造りと想像する。
◇天井に見る、養蚕作業場

因みに天井部分はむき出しになっており、桁や梁が走り、その上の天井部分が格子状になっている所が、一般家庭とは大きく異なる部分である。
天井部分として強固な構造から明らかに屋根裏小屋を儲け,養蚕作業場であったことが明確である。
天井下の高い部分は換気のため開閉自在の障子様のものがはめこんであるものもあった,

◇かいこの世界(参考)

蚕と言われる蛾の幼虫が桑のはっぱを食う、蚕がさなぎになるとき糸を吐き、成虫するための部屋作りを始め綺麗な繭を作る。


繭の中で幼虫は脱皮をしてサナギになる。繭から出てサナギから脱皮して羽化し成虫になる。
吐き出された糸は1~1.5㎞が数本と言われている。
人間は蚕の繭を取り出し絹糸を作る一連のプロセスを養蚕と言われている。

幼虫が桑の葉を食べ、旺盛な食欲を前に其の数が多くなると雨の音のように聞こえると言われ、蚕様ファーストで寝食共にした世界が伝わってくる。


母家の側面は側柱と入側柱の間を開放して板張りとした広縁で、縁側で直接外気に触れている。
四季それぞれの庭先の風情を確かめ縁側に座って一休みする。外気と建物の空間を仕切る意識が全くなく、日本家屋独特の雰囲気がが縁側に表れている、素敵な空間である。
これらの和室建築も『かいこさん』と共に建設重機の前に消してしまった。

こちらでも紹介しています。ご覧ください
日野バイパス延伸工事

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