575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

俳句は敷居が低かった  遅足

2006年08月13日 | Weblog
   
昨日の文を書いた後、俳句は「ためいき」のようなものだと思いました。

ところで、最初、俳句をつくっていくうえで、
大いに役に立ったのが有季定型でした。
季語があって、575というカタチをはっきりと持っていることです。

もやもやした情念を、言葉にするには、とても難しいことです。
これがすっきりと表現できたら、病気は半分治ってしまいます。

俳句の場合、まず、季語を選べば良いのです。
これを決めると、その磁力によって忘れていた言葉がよみがえってくる。
集まってくると言った方が近いかも知れません。
また575という明確で短いカタチがあるから、
迷うことが少なく、作りやすいのです。

  

子規の唱えた写生という手法は、自己の内面に、
直接、向かい合わなくても、気持ちを表現することが出来ます。
本当の自分の顔を見るのは、なかなか勇気がいります。
このテクニックも俳句に入りやすくしてくれました。
自然の景に託して自分の気持ちを表すことが出来るからです。

これは、和歌の伝統的なテクニックでした。
たとえば、凡河内躬恒の「はるの夜 梅の花をよめる」歌。

 春の夜のやみはあやなし梅の花 
   色こそ見えね香やはかくるる  

春の夜の闇は、何とも理屈に合わないものだ。
梅の花を暗闇によって覆い隠しているが、
香りがちゃんと花の在処を明らかにしてしまっているではないか。
というものです。

美しい女のところに通ってくる男の歌。
母親や乳母が女を男から守ろうとする。
姿は見えないが、香は隠せないという恋の歌ですが、
梅の花だけを詠って、恋心を表しています。

俳句の写生も、この伝統のうえに成り立っています。

  

もうひとつ、切れ字にも重要な働きがあります。
切字は言い切るものです。
言い切ることによって、もやもやにカタチを与えた
という満足感が生れるのです。
すっきりと溜息がつけるのです。

  


いまにして思うと、日本の伝統が、私のなかで死なずに
生きていたことが分かります。言葉のなかにあるDNAの力です。

しかし・・・俳句は敷居は低かったが、奥行きは深い。



コメント (3)
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