荻原先生が書かれた興味深い文がありました。
それは短歌の鑑賞についてのもの。
俳句にも通ずる点がありますので、引用します。
例として挙げられたのが栗木京子さんの歌。
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
先生は次ぎのように書いてみえます。
この一首、「我」が恋愛感情を抱く相手と観覧車に
乗っているときの想いを描いたものだというのはすぐにわかる。
あえてそう言わずとも観覧車は回るわけなのだが、
わざわざ「回れよ回れ」と強調するのは、
「君」と過ごすきょう一日が、いつまでも「想ひ出」として
強く心に刻みこまれるようにという願いや祈りのきもちがある、
と読むのがいいと思われる。
そして「君には一日我には一生」は、この二人が永く結ばれることはなく、
いずれ別れるという「我」の側のいささか哀しい確信をあらわしている。
ここまではたぶんそれほどむずかしく考えなくても、
何度か読むうちに感じとることができるのではないかと思うのだが、
どうだろうか。
短歌を読むときの問題は、ここから先にあらわれる。
この作品で定まった読み方をした方がいいのは、ここまで。
あとは自由に読んでもいいのだ。
自由に読むというのは、いささか抵抗があるかも知れないが、
短歌は、作品に記述された情報だけで確定的に読めない部分については
自由に読んで構わない。
観覧車と書いてある以上、そこが遊園地である可能性は高いが、
いつのことだとは書かれていない。
週末なのか平日なのかで、歌の背景の雰囲気はかなり変わることになる。
天候は、晴なのか雨なのか曇なのかあるいは雪なのか。
時間帯は、午前なのか午後なのか夕方なのか夜なのか。
そもそも「君」と「我」は具体的にはどんな関係なのか。
短歌を読むにあたってものすごく大切な部分ではあるが、
しかし、これらは、自由に読んで構わないのだ。
散文の表現であれば、当然これらの設定は克明に描かれているであろう。
短歌にはそれをするだけの文字のスペースがない。
なので、どうしても読み方を変えられては困る部分だけを仔細に描き、
その他の部分は読者の鑑賞にゆだねることが多いのである。
俳句の場合のほうが、より情報が少ないわけですから、
自由に読む範囲が広くなります。
読者の想像力を刺激し、自由に読める句が、きっと、
良い句の一つの条件ですね。
それは短歌の鑑賞についてのもの。
俳句にも通ずる点がありますので、引用します。
例として挙げられたのが栗木京子さんの歌。
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
先生は次ぎのように書いてみえます。
この一首、「我」が恋愛感情を抱く相手と観覧車に
乗っているときの想いを描いたものだというのはすぐにわかる。
あえてそう言わずとも観覧車は回るわけなのだが、
わざわざ「回れよ回れ」と強調するのは、
「君」と過ごすきょう一日が、いつまでも「想ひ出」として
強く心に刻みこまれるようにという願いや祈りのきもちがある、
と読むのがいいと思われる。
そして「君には一日我には一生」は、この二人が永く結ばれることはなく、
いずれ別れるという「我」の側のいささか哀しい確信をあらわしている。
ここまではたぶんそれほどむずかしく考えなくても、
何度か読むうちに感じとることができるのではないかと思うのだが、
どうだろうか。
短歌を読むときの問題は、ここから先にあらわれる。
この作品で定まった読み方をした方がいいのは、ここまで。
あとは自由に読んでもいいのだ。
自由に読むというのは、いささか抵抗があるかも知れないが、
短歌は、作品に記述された情報だけで確定的に読めない部分については
自由に読んで構わない。
観覧車と書いてある以上、そこが遊園地である可能性は高いが、
いつのことだとは書かれていない。
週末なのか平日なのかで、歌の背景の雰囲気はかなり変わることになる。
天候は、晴なのか雨なのか曇なのかあるいは雪なのか。
時間帯は、午前なのか午後なのか夕方なのか夜なのか。
そもそも「君」と「我」は具体的にはどんな関係なのか。
短歌を読むにあたってものすごく大切な部分ではあるが、
しかし、これらは、自由に読んで構わないのだ。
散文の表現であれば、当然これらの設定は克明に描かれているであろう。
短歌にはそれをするだけの文字のスペースがない。
なので、どうしても読み方を変えられては困る部分だけを仔細に描き、
その他の部分は読者の鑑賞にゆだねることが多いのである。
俳句の場合のほうが、より情報が少ないわけですから、
自由に読む範囲が広くなります。
読者の想像力を刺激し、自由に読める句が、きっと、
良い句の一つの条件ですね。