この前のブログで、信州旅行のついでに、昔確かに見た覚えのある「一茶の頬杖」に再会したいと書きました。
昔友達に馬鹿にされた「頬杖」の存在を二十年ぶりに確かめるためです。
昔見た一茶のふるさと長野県信濃町柏原、にある「一茶記念館」への再訪問。
記念館はすっかり立派になっていて、ガラス窓をふんだんに使った洒落た二階建ての建物。資料もすっかり整備されて、展示も見やすく豊富になっていました。
続いた敷地の公園には俳諧寺や一茶の墓地もあり、丁寧に見れば半日はかかりそうでした。
ところで、「頬杖」はありました。真新しくみえるほど艶やかで、長さ50~60㎝例えはよくないが昔のお巡りさんの警棒を細身にしたような、幼児のバットのような感じで紐が通してありました。
これはこの前のブログの肖像では手に握られていますが、バットでいえば握りのほうに顎を乗せていたのでしょう。
また指図の棒に使ったりして宗匠の風格をあらわす演出の小道具だったのかもしれません。
説明には「脇杖」とも呼ばれていたようで、一茶亡きあと長沼在住の門人の家に継承されていたとありました。
一茶は罹災あとも土蔵の中でこの頬杖をついて句作に耽ったことでしょう。
昔友達に馬鹿にされた「頬杖」の存在を二十年ぶりに確かめるためです。
昔見た一茶のふるさと長野県信濃町柏原、にある「一茶記念館」への再訪問。
記念館はすっかり立派になっていて、ガラス窓をふんだんに使った洒落た二階建ての建物。資料もすっかり整備されて、展示も見やすく豊富になっていました。
続いた敷地の公園には俳諧寺や一茶の墓地もあり、丁寧に見れば半日はかかりそうでした。
ところで、「頬杖」はありました。真新しくみえるほど艶やかで、長さ50~60㎝例えはよくないが昔のお巡りさんの警棒を細身にしたような、幼児のバットのような感じで紐が通してありました。
これはこの前のブログの肖像では手に握られていますが、バットでいえば握りのほうに顎を乗せていたのでしょう。
また指図の棒に使ったりして宗匠の風格をあらわす演出の小道具だったのかもしれません。
説明には「脇杖」とも呼ばれていたようで、一茶亡きあと長沼在住の門人の家に継承されていたとありました。
一茶は罹災あとも土蔵の中でこの頬杖をついて句作に耽ったことでしょう。