575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

栗林一石路、今日亡くなる   遅足  

2009年05月24日 | Weblog
先日、信州に旅をしてきました。
目的は修那羅峠。途中、青木村の大法寺に立ち寄りました。
国宝の三重塔を見ていたら、境内に青木村郷土美術館が・・・
覗いてみたら、たまたま、ここ青木村が俳人・栗林一石路の故郷。
最近、寄贈された資料が展示されていました。
さらに館長さんが説明して下さる時間になって・・・
ついつい1時間以上もお話をお聞きしました。

栗林一石路は、明治27年の生まれ、5歳の時に父がなくなります。
母が再婚、栗林姓になります。
青木小学校を卒業後、農民として田畑を耕していました。
東京に出ていた兄が送ってくれた荻原井泉水の「層雲」を読んで
自由律俳句に共感して投稿します。
20歳の時に詠んだ句

  母に代りて米を磨ぎしより二度の三日月
  
お母さんは病弱だったようです。
24歳の時、弟が亡くなります。

  ついにたうべず逝きしままの林檎
  死ぬ日近きに弟よ銭のこといえり

同じ年、恋に落ちます。

  まいにち通る先生に村の山は枯れ
  ふるさとの月に先生と影をならべ据え

相手は、青木小学校に赴任してきた斉藤たけじさん。
小学校の同窓会報の編集に携わっていたことから知り合い、
一石路は、ハイネの詩集をたけじさんに送っています。
2年後の結婚。

  妻よさびしき顔あげてみるか夕空

一石路は、東京に出る決心をかため、27歳の時、単身上京します。
そして関東大震災に遭遇します。

  あな東京が燃えているくらがりの虫

この震災は結果的には栗林一石路に仕事を与えることになります。
雑誌「改造」の編集者への道が開けたのです。
妻も上京、先生となって家庭を支えます。
そして33歳の時に同盟通信社に入社、
ジャーナリストになりたいという夢を実現させます。
俳句のほうも、37歳の時に「層雲」をやめ
プリレタリア俳句運動を興すことになります。

  冬空のビルデングの資本の攻勢を見よ
  働いてきてぬいだままの服がかけてあって死んでいた
  
そして日中戦争の始まる前年の句

  どれにも日本が正しくて夕刊がばたばたたたまれてゆく

12年の句

  大砲が巨きな口あけて俺にむいている初刷
  はげしい感情を戦争へゆく君に笑っている

そして13年には中国戦線を取材。

  妻も子も万歳もなくくたくたに荷をかついでくる
  国をうしなうた顔が道の端をはだしでくる

昭和16年、47歳の時、治安維持法違反で逮捕され、入獄。

  未決囚の妻として炎天をきてひたと
  
3年後の転向して出獄。
(同盟通信社は一石路を解雇せず、給料は払っていたそうです。)

昭和20年、敗戦。蓼科で開拓に携わっていました。

  みことのりかしこきわれは大根蒔く

同盟通信社は解散、一石路は、あたらしく新聞「民報」を設立
編集長となります。
21年には、俳句誌「俳句人」創刊。
皇紀2600年を賛美した句をつくったことなどを挙げて
自らの戦争責任を反省しています。

しかし23年には、GHQの用紙統制によって廃刊。
以後、俳句活動に専念します。

  メーデー歌口紅ぬれて美しき

昭和24年、妻が急死。配給の芋が腐っていたので、
交換に戻った時のことでした。

  死にゆく妻の足のうらのよごれ拭いてやる
  死ぬなよ妻よもういも負わせぬ世にするに
  
昭和36年5月25日、67歳で亡くなります。

  わが庭に声ごえ高し冬木の子ら



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紫蘇生姜葱抜き駄句る冷や素麺   朱露

2009年05月24日 | Weblog

     「駄句る」は「駄句を作る」と広辞苑。
     蕎麦を食べる俗語「たぐる」をもじる。
     真っ当な素麺食いは紫蘇生姜葱抜きさ。
     死ぬ前に一度そいつら入れて食いてえ。

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