歌人、若山牧水の門弟だった私の父、竹中皆二が生前に所有していた短歌誌
「創作」をこの度、宮崎県立図書館に寄贈することになり、郷里の福井県
小浜市へ行ってきました。
私の生家は昭和7年に建てられたままで、今にも崩れそうなですが、その中に
父が大切に保存していた「創作」が山のようにあり、以前から気になって
いました。
幸い、牧水研究の第一人者、伊藤一彦氏の斡旋により、寄贈がやっと決まり
ました。牧水生誕の地で今後、「創作」を活用して頂ければ父も本望だと
思います。
明治43年 (1910 ) に牧水が創刊した短歌誌「創作」は、初期に時々、休刊する
こともありましたが、昭和21年からは毎月一回 発行、父は昭和47年から22年間、
選者を務めました。
その後、「創作」は平成17年12月号で終刊となり、94年の歴史を閉じました。
父の書斎には、「創作」が年代別に収められていますが、今回、初めて発行
年月日を調べてみたところ、大正7年 (1918) 新年号からで、父はこの年、まだ
15歳。創刊号がないのも頷けます。
段ボール7個に詰めて、宮崎県立図書館へ送り出すことができ、ほっとしました。
父の書斎にはまだ、牧水に関する書籍がかなり残されていますが、牧水の高弟、
大悟法利雄・著「若山牧水伝」には、牧水と竹中皆二との出会いを次のように
書いています。
「 24日朝、洗面所で顔を洗っていると、その横の部屋から一人の痩せた青年が
出て来て、しばらく見ていたが不意に、牧水先生ではありませんか、と声をかけた。
まだ一度も会ったことはないが、社友の竹中皆二という八高生であった。竹中も
昨夜、仏法僧を聴きに泊まっていたのである。… 」。
大正15年(1926) 6月とあります。愛知県新城市の鳳来寺でコノハズク (仏法僧)
の声を聞くため、たまたま同じ旅館に宿泊していて、牧水と出会ったのが、
父の運命を変えました。
この後、父は八高(名古屋大学の前身)を中退し、浪々の日々を送ることになります。
父は生涯、短歌にすべてを託していたようです。しかし、歌の道だけで食べていける
わけがなく、その上、かなり裕福だった生家の破産にもあいます。
昭和7年、若狭湾に面した内外海(うちとみ) 半島の付け根で、今でいうコンビニを
営みながら、そちらの方は母に任せ、自身は村役場に一時、勤めた後、内外海半島
に点在する14ヶ村の産生(うぶすな) 神社の宮司として奉職。92歳で他界しました。
父は平成5年、亡くなる1年前、長年つとめてきた短歌誌「創作」の選者を辞めた
ことが大変ショックだったようです。
若山牧水のご長男、若山旅人(たびと)氏がわざわざ我が家まで来られ、父にそろそろ
選者を後進に譲っては、と遠まわしに持ちかけられました。
旅人氏は「創作」の竹中皆二追悼特集の中で、「別れのまなざし 」と題してこの
時の模様を「 思いなしか何となく淋しい印象だったのが お別れする時の心懸り
だったことが忘れられない。深い哀別のいろをたたえていた事が今でも心に残る
のである。」と記しておられます。
晩年、父の歌人としてのアイデンティティーをつなぐ唯一の道は「創作」の選者を
していたことだったと思っています。
尚、宮崎県立図書館へ「創作」を寄贈するに当たり、遅足さんご夫妻にご協力頂き
ました。御礼 申し上げます。
写真は、若山牧水が創刊した短歌誌「創作」の平成7年5月号 竹中皆二氏・追悼特集
「創作」をこの度、宮崎県立図書館に寄贈することになり、郷里の福井県
小浜市へ行ってきました。
私の生家は昭和7年に建てられたままで、今にも崩れそうなですが、その中に
父が大切に保存していた「創作」が山のようにあり、以前から気になって
いました。
幸い、牧水研究の第一人者、伊藤一彦氏の斡旋により、寄贈がやっと決まり
ました。牧水生誕の地で今後、「創作」を活用して頂ければ父も本望だと
思います。
明治43年 (1910 ) に牧水が創刊した短歌誌「創作」は、初期に時々、休刊する
こともありましたが、昭和21年からは毎月一回 発行、父は昭和47年から22年間、
選者を務めました。
その後、「創作」は平成17年12月号で終刊となり、94年の歴史を閉じました。
父の書斎には、「創作」が年代別に収められていますが、今回、初めて発行
年月日を調べてみたところ、大正7年 (1918) 新年号からで、父はこの年、まだ
15歳。創刊号がないのも頷けます。
段ボール7個に詰めて、宮崎県立図書館へ送り出すことができ、ほっとしました。
父の書斎にはまだ、牧水に関する書籍がかなり残されていますが、牧水の高弟、
大悟法利雄・著「若山牧水伝」には、牧水と竹中皆二との出会いを次のように
書いています。
「 24日朝、洗面所で顔を洗っていると、その横の部屋から一人の痩せた青年が
出て来て、しばらく見ていたが不意に、牧水先生ではありませんか、と声をかけた。
まだ一度も会ったことはないが、社友の竹中皆二という八高生であった。竹中も
昨夜、仏法僧を聴きに泊まっていたのである。… 」。
大正15年(1926) 6月とあります。愛知県新城市の鳳来寺でコノハズク (仏法僧)
の声を聞くため、たまたま同じ旅館に宿泊していて、牧水と出会ったのが、
父の運命を変えました。
この後、父は八高(名古屋大学の前身)を中退し、浪々の日々を送ることになります。
父は生涯、短歌にすべてを託していたようです。しかし、歌の道だけで食べていける
わけがなく、その上、かなり裕福だった生家の破産にもあいます。
昭和7年、若狭湾に面した内外海(うちとみ) 半島の付け根で、今でいうコンビニを
営みながら、そちらの方は母に任せ、自身は村役場に一時、勤めた後、内外海半島
に点在する14ヶ村の産生(うぶすな) 神社の宮司として奉職。92歳で他界しました。
父は平成5年、亡くなる1年前、長年つとめてきた短歌誌「創作」の選者を辞めた
ことが大変ショックだったようです。
若山牧水のご長男、若山旅人(たびと)氏がわざわざ我が家まで来られ、父にそろそろ
選者を後進に譲っては、と遠まわしに持ちかけられました。
旅人氏は「創作」の竹中皆二追悼特集の中で、「別れのまなざし 」と題してこの
時の模様を「 思いなしか何となく淋しい印象だったのが お別れする時の心懸り
だったことが忘れられない。深い哀別のいろをたたえていた事が今でも心に残る
のである。」と記しておられます。
晩年、父の歌人としてのアイデンティティーをつなぐ唯一の道は「創作」の選者を
していたことだったと思っています。
尚、宮崎県立図書館へ「創作」を寄贈するに当たり、遅足さんご夫妻にご協力頂き
ました。御礼 申し上げます。
写真は、若山牧水が創刊した短歌誌「創作」の平成7年5月号 竹中皆二氏・追悼特集