アメリカの美術史家 ロバート シンガー氏は大英博物館蔵の「津島祭礼図屏風 」の
制作年代について、江戸時代初期の寛永年間( 1624 〜 1644 )の作品としています 。
屏風に描かれた景観が寛文年間のものとする根拠について、シンガー氏の論文から
十分、読み取れませんが、文献から幾つか拾ってみました 。
〇 昭和50年代、津島市教育委員会の稗田 豊 氏 ( 故人 )が「津島市史 ⑸ 」に掲載した
「津島祭りについて 」の記述から
「 寛文十八年文書 」などから「 寛文十二年 ( 1672 ) には、芝居小屋一、小屋掛
二十軒がかけられ、呉服屋、扇子屋など、辻々には多くの市場が立って大変な
賑わいを見たようだ 。」
また、「延享四年( 1747 ) の津島の大火により、多くの道具類も類焼し、まもなく
復興したものの、幕府の倹約令などと相まって、以前ほどの豪華さも失われてきて
いた 。」
また、地元の津島市、愛西市の関係者に聞いた話や文献からまとめてみました 。
〇 津島五ヶ村 ( 今市場・筏場・米之座・ 下構・堤下 )の楽車五艘が出揃ったのは
江戸前期慶長年間で 、それ以前は今市場・筏場・下構の三艘が楽車舟で米之座・
堤下の楽車は陸路だったことがわかっていて、屏風絵は江戸時代になってからのもの
であろう 。
〇 大英博物館蔵の津島天王祭屏風の宵祭の場面 。
画面 向かって右側に天王橋が描かれています 。
この橋は江戸中期の宝暦10年 ( 1760 )に取り払われているため、少なくとも
それ以前に描かれたものであろう 。
〇 宵祭の画面下に描かれている女歌舞伎は江戸時初期の寛永6 年 ( 1629 )に禁止
されている 。
〇 朝祭の画面 向かって左端に小さな社 ( やしろ )が 見える。寛永13年 ( 1640 )頃に
建てられ新宮 (しみや )と呼ばれて、参詣客も多かったが、まもなく事情があつて
取り壊されている 。
更に、厄介なのが天王橋にしろ新宮にしろ、すでに失われていたが、後で追想して
描かれたのかもしれない という考えも出てきます。復元表現の手法です 。
いずれにしても、江戸時代前期であろうとされますが、まだはっきりと制作年代は
確定しているわけではありません 。 つづく
写真は「 津島祭礼図屏風 」( 大英博物館蔵 )
「 綴プロジェクト 」高精細複製品より
朝祭り左端に描かれた小さな社 ( やしろ ) 。寛永13年 ( 1640 )頃に建てられ
新宮 ( しみや )と呼ばれ参詣人も多かったが、まもなく、事情があって取り壊
されています 。
この場面から屏風絵が寛永年間とする根拠の一つとする見方もあリます 。