575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「きしやのけむり」

2021年01月17日 | Weblog



田中古代子<たなかこよこ>1897年鳥取県の生まれ。
1910年に鳥取の女学校に入学します。しかし、気管
支炎を患い中退。その後、東京の実践女学校の通信
教育で国文学と英語を学び「女子文壇」や「文学世
界」といった文芸誌に短歌や散文の投稿を始めます。

1915年に山陰日々新聞の女性記者して入社。文芸誌
「我等」の同人となり「闇の夜に」「心のまま」な
どの作品を発表。若き女流作家として文学青年たち
の人気を得たようです。結婚と共に退社。1916年に
「我等」に発表した「接吻」「性の闘争」が社会風
紀を乱すとして発禁処分になります。

「日本海の 荒潮の如き わたしの胸は」<古代子>

1917年に長女千鳥を得ますが、結婚生活はうまくい
かず古代子はやむなく実家に戻ります。実家は裕福
で運送業や海産物の問屋を営み、兄は県会議員でし
た。近くの浜村温泉で青年画家と親しくなったこと
で別居中の夫が告訴。しかし、古代子は別件で逆に
告訴して、和解が成立したことを機に離婚し執筆活
動を本格的にスタートさせます。

「鉄瓶 静かに鳴る 初秋の朝」<古代子>

1919年の春 古代子は「諦観」を発表。「実らぬ畑」
は大阪朝日新聞の懸賞小説に入賞しています。選者
の有島武郎に絶賛されたことから、文壇の注目を集
め古代子は広く知られる作家となります。

1922年「病床詩片」を文芸誌「微明」に発表。同
年の秋には文芸誌「水脈」に「御安宿」を発表しま
す。しかし、長女千鳥が病いを得ており、看病をし
ながらの執筆。長女の千鳥が亡くなり、死と向き合
った自らの心を綴っています。

「リボンを頂きたる 小さき骨壺壺」<古代子>

ところで、7歳で早逝した田中千鳥。5歳より自由詩
を作り、万物を素直な感性でとらえ80編の素晴らし
い詩文を残しています。これらは絵本「千鳥のうた」
としてまとめられ出版。また、千鳥の短い生涯を描
いた「千鳥百年1917-2017」という映画も秀悦。

千鳥の叔父 田中暢は「千鳥は死の前の三四ケ月と云
ふものは、凡ての人のみならずあらゆる物象に異常
な懐しみを抱いゐた様に思はれる。野原を凝視して
は花の心を歌ひ、空を凝視しては一生懸命になって
雲を描いた」と記しています。暢も千鳥の後を追う
ように亡くなり享年27歳。

「むかうのふぶきのふりようは 白い鳥がおりるやう」<千鳥>

話を戻します。1924年、古代子はジャーナリストの
湧島義博と再婚。上京して夫と南宋書院を牛込で営
みます。しかし、順風満帆ともいえる生活は短く古
代子は結核となり療養のため鳥取に帰郷。1935年に
睡眠薬で自死します。

田中古代子。享年37歳。鳥取市の玄忠寺に古代子の
記念碑があり、2001年に年譜碑も建立されています。

田中千鳥。享年7歳。母の古代子と共に玄忠寺が墓所。
墓碑には、湧島古代子。千鳥は田中千鳥と記されてい
ます。7歳半の絶筆は下記。

「ばんかたの空に ぽつぽと き江てゆく きしやのけむり」<千鳥>


写真と文<殿>
コメント
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