田 捨女<でんすてじょ>1633年 兵庫丹波の生まれ。
柏原藩の庄屋で代官を務めた田季繁の娘。幼い頃か
ら俳句を詠み、和学者で俳人の北村季吟に師事しま
す。北村は松永貞徳の弟子であり貞門俳諧の新鋭と
いわれ、土佐日記抄、伊勢物語拾穂抄、源氏物語湖
月抄などの注釈書をあらわし幕府の歌学方を世襲し
ています。門人は松尾芭蕉、山口素堂など錚々たる
顔ぶれ。江戸時代初期に俳壇の礎を築いた人物とい
っても過言ではないでしょう。
「鳥籠の 憂目見つらん 郭公」<季吟>
話を捨女に戻します。42歳の時に代官を務めていた
夫が死去。シングルマザーとなった捨女は五男一女
を育てあげます。夫の七回忌を済ませた翌年に剃髪。
仏門にはいり妙融と号します。やがて、播磨の天徳
山龍門寺に「不徹庵」という庵を構え貞閑と改名。
捨女は仏の道を歩むだけなく俳壇の指導者としても
優れ、貞門派女流六歌仙のひとりとして世間に広く
知られることになります。
「草よ木よ 汝に示す 今朝の露」<捨女>
田家は文芸を嗜むことが家風。そのため捨女は幼児
より筆を持ち、周囲の大人たちを驚かすほど迅速に
俳句を詠んだといわれています。下記は捨女6歳の
冬に詠んだといわれるユーモアあふれる句。
「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」<捨女>
捨女の生誕地である丹波市崇広小学校には、ボブカ
ットの捨女像があります。また、句碑や歌碑が点在
する「田ステ女公園」まで作られ、捨女の名を冠し
た俳句大会が開催。捨女は地元で人気者のようです。
ちなみに、枢密院顧問官や閣僚を歴任した男爵 田健
治郎や、ジャーナリストから政治家となった参議院
議員の田英夫は捨女の子孫にあたります。
「花は世の ためしに咲くや ひと盛り」<捨女>
田 捨女。才知に富む女流俳諧師の祖。享年65歳。庵
のあった播磨の龍門寺に墓があります。
写真と文<殿>