575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「遊郭の俳諧師」

2021年01月24日 | Weblog



炭太祇<たんたいぎ>1709年江戸時代中期の生まれ。
軽妙洒脱でしられる川柳の祖ともいえる慶紀逸に師
事。その後、太祇は江戸の吉原で俳諧の師匠として
暮らします。しかし、縁あって得た二人の子どもが
相次いで急死。失意の太祇は諸国放浪の旅に出ます。
放浪の末にたどり着いたのが、京都の大徳寺。太祇
は禅の修行僧となり厳しい仏の道を歩み始めます。
しかし、ある日、寺を飛び出し下俗してしまいます。

「蚊帳くぐる 女は髪に 罪深し」<太祇>

このいきさつについて文献を調べましたが、太祇の
心変わりの理由がわかりません。ただ、太祇は京都
にある島原遊郭の「桔梗屋」という置屋の主人から
俳諧の師匠をしてほしいと懇願されていたようです。
太祇は江戸吉原での楽しい生活が恋しかったのかも
しれません。

「傾城の 朝風呂匂ふ 菖蒲かな」<太祇>

京都の島原遊郭は、江戸の吉原遊郭と異なり文人墨
客が集う文化サロンとして発展した感があり「島原
俳壇」が作られ、その指南役を任されたのが太祇で
す。島原遊郭の「桔梗屋」の隣に「不夜庵」という
庵を結びます。江戸時代の遊郭は、俳諧や和歌が盛
んで遊女たちが身につけるべき芸のひとつとされて
いました。

「山吹や 葉に花に葉に 花に葉に」<太祇>

京都の島原は幕府公認の花街。しかし市中にある祇
園に客を取られていました。そこで、太祇は、から
くり人形や仮装行列などのイベントを提案しプロデ
ュサーとして島原遊郭の活性化に尽くします。

「初恋や 灯籠によする 顔と顔」<太祇>

晩年を迎えた太祇は与謝蕪村が主催する「蕪村の三菓
社句会」に出席しています。太祇は蕪村より7歳年上。
しかし、頼り甲斐のある盟友だったのでしょう「太祇
馬提灯図」には楽しげな句会帰りの太祇と蕪村が描か
れています。

「芝居見る 後侘しさや 秋の雨」<太祇>

炭太祇。享年63歳。不夜庵には句を書き散らした紙が
高く積まれていたといわれています。没後、蕪村らに
より句集が編まれ900の句が残存。墓は島原にほど近
い綾小路通り大宮の光林寺にあります。


構成と文<殿>

コメント
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