575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

10月句会の投句が集まりました。    遅足

2012年10月17日 | Weblog
今年は、木の実が不作らしくて長野県では都会にまで熊の姿が・・・
また名古屋の東山動物園では、一匹の雄猿が自由を求めて脱出に成功。
動物の世界も大変なようです。
さまざまな木の実の句が集まりました。
こちらは人間世界を映し出しているようです。

題詠「木の実」

①命ある木の実を拾いポケットに
②岩風呂は風の抜け道木の実降る
③眠る子の掌(て)よりこぼるる木の実かな
④木の実ふる恋の再発かもしれぬ
⑤木の実落つ幸せの道踏みしめる
⑥通草もぐGI側を通りけり
⑦どんぐり落ちる砲弾の形して
⑧団栗が背伸びし転がるリクルート
⑨手ひらけばちちんぷいぷい木の実かな
⑩木の実落つ終の支度のはじめ時
⑪ふらふらと木の実踏ん張るやじろべい
⑫シャラシャラとポケット鳴らす木の実かな
⑬古墳(ふるつか)や木の実落ち来るつづら折り
⑭足元の木の実気になる仁王かな


自由題
 
①どんぐり落ちるまた落ちる以下同文
②木犀や誰かと夢で会えそうな
③秋燈や昭和の薫る写真集
④乗換えの駅コスモスの風を待つ
⑤昼飯を一人で食べて独り言
⑥10月の乾いた空に万国旗
⑦空も樹も秋の真ん中散歩する
⑧水澄みて花穂(かすい)のゆれも映しけり
⑨秋晴れにブーツなま足スニーカー
⑩ハジメテノヒミツオシロイバナトキミ
⑪朝ドラの酷評飲み込む手抜き飯
⑫木犀の香りも乗せるエレベーター
⑬潜り戸の冷気見下ろす伎芸天
⑭ノーベル賞晴れのち曇り秋の空

ひさしぶりに雨が降ってきました。
この天気、選句にどんな影響を与えるのでしょう?
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狗尾草はネコジャラシ  鳥野

2012年10月16日 | Weblog
地下鉄を降りて家まで、堀川沿いを歩きます。

その道は、サクラ並木の下生えに、四季折々、野の草木を楽しむことができます。
雑草とひと括りしては、申し訳ないほどに多彩で可憐です。

その一つが「エノコログサ(狗尾草)」、またの名はネコジャラシ。犬コロの尾に似ているからの名付けだそうですが、喜ぶのはやっぱり猫。おみやげにと、摘んで帰った草の穂に、そばえてじゃれて、嬉しそうでした。

イエネコの祖はリビアヤマネコ、その肋骨から今の猫が生れた時、神が用意しておいた
遊び道具だったという伝承もあります。

振り動かしてみれば、誰もがなんとなく擽ったく、懐かしい思い出のある草。

猫のためにと、摘んで帰った日は遠くなりました。

 ・ 狗尾の穂に甘やかな記憶あり  鳥野
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蔦の芽の下に三角定規かな   岡田とく子

2012年10月15日 | Weblog
今井聖さんの「部活で俳句」のなかの一句。
時々、こういう句に出会うのですが、
どうも今ひとつ良さが分かりませんでした。
今井さんは、こう解説しています。

物と物との出会いだけで成立している句。
ここにどういう詩があるのか、説明するのは難しい。
ただ、いかにもそこにありそうなものが
作品の中に出現することの嘘臭さに僕らは辟易している。
現実は事物の意外な出会いに満ちています。
その関係を見出して拾い上げるのが俳句のひとつの特性。

確かに頭で考えて出来る句ではありません。
しかし、この取り合わせを発見した
作者のオドロキが感じ取れるのか?といえば・・・
若い感性の句なのでしょうか。
それならば、ちょっとサミシイ私です。  遅足


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半円をかきおそろしくなりぬ   阿部青蛙(せいあい)

2012年10月14日 | Weblog
円を半分描いて、急に怖ろしさを感じたという。
なぜ円を描くことは憚られるのでしょうか?
完全な円は神様の領域なんでしょうか?神を前にした恐怖?
この句、よく分からないのですが、ずっと気になっていました。
倉阪鬼一郎さんの本「怖い俳句」には次のような解説がありました。

私たちが見ている、このまことしやかな世界の裏面には
言語化することの出来ない白い不定形なものが
ウレタンのごとく埋められている。(ヴィックス粒子?)
その世に知られない構造を直感的に把握し、
平明な言葉に定着させたのが青蛙の句。
なぜ半円をかいた作者はおそろしくなってのでしょう。
見えているのは「かかれた半円」だけです。
その半円をかいた時、作者はかかれざる、本質的に
かくことが出来ない半円の存在に気づいて戦慄するのです。
この空白。人知の及ばない、言語化できないおそろしい空虚です。

この世の知られない構造は神の世界なのか?
言語化できないものを言語によって、どこまで表現出来るのでしょう?
周囲をぐるぐる廻っているだけのような気もします・・・

他にこんな句も。

  額縁屋額縁だけを売りにけり

売られているのは実体のある額縁ですが、眼目は額縁のなかの空虚です。
この空虚な部分は何でも入ります。
ということは何も入らない空虚でもあると・・・

この句の方が理解できそうです。
俳句が認識の一形式であるなら、花鳥諷詠に入りきらないものも
数多くあることは分かりますが・・・
やはり不可解な句です。

                       遅足



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「イラン式料理本」をみて・・・     遅足

2012年10月13日 | Weblog
食事の終わったマットのうえには皿やコップが乱雑に。
ところどころに食べこぼしもあります。
一家の主婦は、黙々と後片付け・・・
最後に残ったコップを、子供に片付けるように頼みます。
2度3度と・・・、子供は父親との遊びに夢中で知らん顔。
父親と別の部屋へ行ってしまいます。

また、あるマンションのキッチンでは、手作りではなく缶詰中心の食事。
後片付けされることなく、灯りが消えます。

モハマド・シルワーニ監督が、キッチンにカメラを据え、
料理を撮影しながら、インタビューするドキュメンタリー作品。
登場するのは、監督の母、伯母、妹、母の友人、9歳で結婚し、
今年百歳を迎えた友達の母、そして監督の妻と、ごく身近な女性たち。

イランでは、先の大統領選での不正を追及するデモがありました。
映画人たちは、このデモに賛成したことから、
当局の弾圧を受けており、自由な映画制作は困難な状態。
この映画、そんな制約を逆手にとって、身近な台所から
現在のイランの一側面を切り取ったところがスゴイと思いました。
イラン国内では上映禁止だそうです。
監督は、この映画のあと、身に危険があるので、
もうイランでの映画制作には携わらないとのこと。

最初に紹介した食事風景は妹さんの家で撮影されたもの。
マンションは、監督自身の家です。
映画は、監督も妹さん、ともに離婚したとの字幕で終わりました。

この映画、まるで制約の多い俳句のようだなと思いました。
日常のなかで見過ごしていること。それに目が止まるのか?どうか?
長年のホコリやゴミで視野の狭くなった目を洗い直してくれる映画でした。


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芭蕉の句の吟唱とコンサート     遅足

2012年10月12日 | Weblog
四重奏の演奏にあわせて芭蕉の句を吟唱するという
コンサートが名古屋市博物館で行われました。

取上げられた句は十句ほど。
まず女子中学生が句を吟唱します。

  ちちははのしきりにこひし雉の声

次いで、フルート・ヴァイオリン・ビオラ・チェロによる演奏。
この句には「ふるさと」の曲。
スクリーンには句と四季の写真が映し出されていきます。

句と曲は次のような組み合わせ。

  行はるや鳥啼うをの目は泪  旅立ちの歌

  あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風  秋桜

  秋深き隣は何をする人ぞ   宵待草

  閑さや岩にしみ入蝉の声   オリジナル曲 現代音楽風

  ほしざきの闇をみよとや啼ちどり  見上げてごらん夜の星を

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る   G線上のアリア


抒情的なメロディーには短歌がよく合うと思いますが、
俳句は、ちょっと「そっけない」ところがあります。
俳句のような切れがある編曲も面白いかも知れません。

芭蕉展にちなんだコンサート。
名古屋では初めての試み、これからも挑戦して欲しいと思います。 
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フジバカマ?ヒヨドリバナ?    遅足

2012年10月11日 | Weblog
東山植物園にフジバカマの花を見にいきました。

フジバカマは、小さな花が集まっており、ほんのりと良い匂い。
上品な匂いで、昔から、匂い袋としても使われたそうです。
写真を撮ってから、これはヒヨドリバナでは?と奥さんの声。
たしかによく似ています。
植物園のボランティアの方にお聞きしたら、
花はほとんど同じで見分けがつかないとのこと。
葉のかたちが違って、フジバカマは葉が3つに裂けているとのこと。
この写真では違いが分かりません。
多分、ヒヨドリバナではないでしょうか。

中国から渡来し、秋の七草の一つになったフジバカマ。
自生のフジバカマが絶滅の危機に瀕している一方、
同じキク科の同属の花でありながら、
ヒヨドリバナはしっかり生き残っているのが対照的。
そのヒヨドリバナの蜜はアサギマダラの大好物。
まもなく名古屋でも、その姿が見られるそうです。

もう一度行って確かめて来なくては・・・

  蛇苺いつも葉っぱを見忘れる  池田澄子

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10月句会近づく     遅足

2012年10月10日 | Weblog
ようやく秋らしくなってきました。
10月句会も近づいてきました。
今回の題詠は「木の実」です。

 木の実落つ振り向く犬と振り返り  新倉和子

犬の散歩の途中でしょうね。まず犬が振り向く。
一緒に振り返る・・・静かなひと時。

 父ほどの男に逢わず漆の実  遠山陽子

女性にとって最初の恋人は父親といわれています。
漆の実のような父。どんな父だったのでしょう?
女の子がいないので、実感を持って読むことは難しいですが。

 ポケットの木の実も猫も失踪す   遅足

どんな句が集まるのでしょうか?楽しみです。

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コンビニへ三往復す体育の日     朱露

2012年10月10日 | Weblog
   昭和三十九年東京オリンピックの日。
   この年私は三十だが全く覚えがない。
   オリンピックは勿論記憶がないけど。
   私が誰だったか誰にも聞けないとは。



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ミサゴへの侘び状  鳥野

2012年10月09日 | Weblog
「ミサゴ」、つまり「オスプレイ」を初めて見たのは、弥富の野鳥園でした。
係員の声に促され、望遠鏡を調節してもらって、ようやく捉えた姿。
遠目にもその美しかったこと。

図鑑によると、体長は5~60センチと大きく、全体は黒褐色。顔と腹部は白く、
黒いアイラインがくっきりと、首まで伸びて、白い冠毛がおしゃれです。
気品の高い猛禽。・・・そのミサゴ「オスプレイ」が、このところ、悪者として
連日ニュース種。

アメリカの東シナ海戦略の必需機として、沖縄に配備するというものです。

墜落、燃料漏れ、騒音など、重大な欠陥が危惧されたままの配備。

ミサゴの獲物は水面の魚。ホバリングや急降下は得意で、脚を伸ばし、狙った魚は逃がしません。

その能力にあやかろうとの名付けでしょうが、ミサゴにしては、言われなき汚名です。

人間の傲慢。ミサゴへの「詫び状」を書かねばなりません。

  ・ 冠毛は気品のしるしオスプレイ 魚獲る術よどみのあらず

                        鳥野

                       


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百年後四角い葡萄皿に盛る     狗子

2012年10月08日 | Weblog
四角いメロンがあるのですから、
四角い葡萄があっても不思議はないなあ、と思ってしまいます。
もう作者の術中にはまっていますね。

  亀甲の粒ぎっしりと黒葡萄

茅舎は写生の葡萄。狗子さんの句は、夢の葡萄。

                   遅足




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今日咲きて今日散る木槿留守の家    松ヶ崎敬子

2012年10月07日 | Weblog
九月の塔句会の一句です。
今日咲きて今日散る、というフレーズ。
当たり前のことなんですが、とても新鮮に読みました。
その木槿が咲いているのは、留守の家。
今日咲いた木槿の花は、今日散っていきます。
家人に見られることもなく散ってしまうのでしょう。

一日という時間のなかで一生を終える花。
その美しさ(哀しさ)が見事の詠み込まれています。

おそらく若い頃に同じ句を読んでも
なにも感じなかったのでは?と思います。

木槿が口を利けたら、人が見ていようが、
いまいが関係ありません、って言うかな・・・

                     遅足

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葡萄色爪染め付けて三日の余    智恵

2012年10月07日 | Weblog
巨峰を剥きますと、爪の間に葡萄色が残り、
何日間か、葡萄の名残が染み付いている、ということで、
マニュキアではありません、と作者。

ちょっと大袈裟な表現ですが、
爪を葡萄と言ってしまう詠み方もあります。

  染めあげて爪は葡萄に三日の余

同じことを詠んでいますが、印象はより鮮やかになりませんか?
なっていないか?(笑)
                      遅足
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古人曰く、過ちを改めざる、これを過ちという。   遅足

2012年10月06日 | Weblog
原爆についてある俳人はこう詠んでいます。

   あやまちはくりかえします秋の暮

作者は三橋敏男。
広島にある原爆死没者慰霊碑に書かれた言葉。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」のパロディ。

あれから60余年、原子力発電所の事故が起こってしまいました。
正確に言えば「起こしてしまいました。」

不思議なのは、この事故で、いまだに誰も責任を問われていないこと。
国策なので国の責任を問うというシステムがないでしょうか?
裁判所が三権分立の機能を果たしていないこともありますが、
国会が十分な働きをしていません。

国民と政治家の間の意識のズレも原因の一つ。
こうしたなか、原発の再稼動へ向けて着々と手が打たれています。
安全神話をばら撒いてきた専門家たちの多くには反省の色もない。
原子力の専門家は責任を感じないのでしょうか?
事故の検証も十分に行われず、再び事故が起きないと言えるのでしょうか?

 過ちは繰り返します 責任を問わるることのなければ日本

古人曰く、過ちを改めざる、これを過ちという。
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頬寄せて葡萄艶めくロココ調    郁子

2012年10月06日 | Weblog
血色のよい乙女の頬。
そのピンク色が映った黒葡萄まで艶めいてみえます。
まるでロココ時代の絵のように、という意味でしょうか?
あるいは、頬を寄せ合っているのは葡萄同士なのでしょうか?

ロココ様式とは、18世紀のフランスを中心とした
繊細優美な装飾美術や生活様式のこと、と辞典にあります。
葡萄というコトバがロココというイメージを呼び寄せたのでしょうね。

ロココ様式のノベリティを思い出しました。

                         遅足
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