舎利礼(しゃりらい)とは
四弘誓願(しぐせいがん)とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。読経の終わりなどによくお唱えされる願文。
誓願(せいがん)とは、仏道を志すものが願いを成就させるという誓いを立てること。 菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調された。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じ。
原文
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
読み下し文
衆生は無辺なれども 誓って度せんことを願う。
煩悩は尽きることなけれども 誓って断ぜんことを願う。
法門は無量なれども 誓って学ばんことを願う。
仏道は無上なれども 誓って成ぜんことを願う
現代語訳
まず人々を救う利他行を第一に取り上げ、そのために自分の利己心克服し、正しい教えを学ぶ努力をして、はじめて仏道を歩み、自己完成に近づくことができるのだということを、自分自身にいい聞かせ、それが実現できるように願います。
「衆生無辺誓願度」衆生とは生きとし生けるものすべてのこと。無辺は限りがないということ。度は、渡すこと、導いたり、救ったりすること。
「煩悩無尽誓願断」煩悩は、わずらいや悩み、心の汚れ・穢れのこと。無尽は尽きることがない、滅びることがないということ。そして断は、悪を断ずること、断ち切ること。。
「法門無量誓願学」法門は仏の教え。無量は限りのない、図ることのできないということ。学は学ぶこと。従ってこの文は、仏の教えは、はかり知ることができないくらいありますが、必ず学ぶことをお誓い申し上げ舞う。
「仏道無上誓願成」仏道は、仏となるための教え悟りにいたるべき道のこと。無上は、これ以上のものがない、最高のものという。成は、実現とか、完成するということ。従ってこの文は、仏になるための道は、最高のものであり、必ず完成させることをお誓い申し上げます。
四弘誓願(しぐせいがん)とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。読経の終わりなどによくお唱えされる願文。
誓願(せいがん)とは、仏道を志すものが願いを成就させるという誓いを立てること。 菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調された。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じ。
原文
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
読み下し文
衆生は無辺なれども 誓って度せんことを願う。
煩悩は尽きることなけれども 誓って断ぜんことを願う。
法門は無量なれども 誓って学ばんことを願う。
仏道は無上なれども 誓って成ぜんことを願う
現代語訳
まず人々を救う利他行を第一に取り上げ、そのために自分の利己心克服し、正しい教えを学ぶ努力をして、はじめて仏道を歩み、自己完成に近づくことができるのだということを、自分自身にいい聞かせ、それが実現できるように願います。
「衆生無辺誓願度」衆生とは生きとし生けるものすべてのこと。無辺は限りがないということ。度は、渡すこと、導いたり、救ったりすること。
「煩悩無尽誓願断」煩悩は、わずらいや悩み、心の汚れ・穢れのこと。無尽は尽きることがない、滅びることがないということ。そして断は、悪を断ずること、断ち切ること。。
「法門無量誓願学」法門は仏の教え。無量は限りのない、図ることのできないということ。学は学ぶこと。従ってこの文は、仏の教えは、はかり知ることができないくらいありますが、必ず学ぶことをお誓い申し上げ舞う。
「仏道無上誓願成」仏道は、仏となるための教え悟りにいたるべき道のこと。無上は、これ以上のものがない、最高のものという。成は、実現とか、完成するということ。従ってこの文は、仏になるための道は、最高のものであり、必ず完成させることをお誓い申し上げます。