20・府中(安部川)
今の静岡市である。江尻から九粁。古は阿倍の市といい、江戸時代になって駿府と改められた。徳川家康はこの地に城を築かせて晩年を送っている。また、近く久能山には家康の廟があるなど、徳川家にはゆかりの地であっただけに、特殊な城下町として繁栄していた。西に安倍川が流れ、広重はその安倍川の川渡しのさまを描いている。画題も「安倍川」とある。広重は「江尻」で純然たる風景画を描いたが、ここでは人間の生活を描いている。人の肩で、蓮台で川を渡る渡河風俗がこの絵の焦点であり、絵も写真も近いと思われ、旅情の実感も豊かである。この人間図に対し、風景画の要素、正面の賤機山は霞で区切って二つの世界を暗示しているかに見えるのも、広重の画境と見ていいであろう。広重は川渡しの有様を、「小田原」「島田」「金谷」でも描いているが、この府中の図も最もその風俗をはっきりと伝えている点で一つの風俗資料ともなる。
阿倍川川畔にある、名物あべ川餅の店は有名で、広重は「行書東海道」でこの店先きを描いているが、この店は今に残っている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今の静岡市である。江尻から九粁。古は阿倍の市といい、江戸時代になって駿府と改められた。徳川家康はこの地に城を築かせて晩年を送っている。また、近く久能山には家康の廟があるなど、徳川家にはゆかりの地であっただけに、特殊な城下町として繁栄していた。西に安倍川が流れ、広重はその安倍川の川渡しのさまを描いている。画題も「安倍川」とある。広重は「江尻」で純然たる風景画を描いたが、ここでは人間の生活を描いている。人の肩で、蓮台で川を渡る渡河風俗がこの絵の焦点であり、絵も写真も近いと思われ、旅情の実感も豊かである。この人間図に対し、風景画の要素、正面の賤機山は霞で区切って二つの世界を暗示しているかに見えるのも、広重の画境と見ていいであろう。広重は川渡しの有様を、「小田原」「島田」「金谷」でも描いているが、この府中の図も最もその風俗をはっきりと伝えている点で一つの風俗資料ともなる。
阿倍川川畔にある、名物あべ川餅の店は有名で、広重は「行書東海道」でこの店先きを描いているが、この店は今に残っている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』