21・鞠子(丸子)
府中から八粁で鞠子の宿である。道は海沿いから別れて山手へかかる。ここの名物「とろろ汁」は、あまりにも有名である。街道に沿っても今も一軒は残っている。広重はこのとろろ汁の店を「名物茶屋」と題して描いている。時は早春、名物とろろ汁の茶見世の軒端の梅も、つぼみがふくらんでいる。裏の畑にも若菜が芽ぐんでいる。
なにもかも、のどかな春の暖かさであるが、この気分を広重はバックの空も薄紅の潰しにしている。それでこの絵の暖かい春の色が象徴されている。芭蕉の「梅若葉まり子の宿のとろろ汁」の句にピッタリの風趣である。また、この店の藁屋根の上にとまっている二羽の鳥、こんな小さな鳥の姿にも、のどかさは満点である。
さらに、この絵に描かれている人物が素晴らしい。店の中で二人の旅人が、とろろ汁をかき込んでいる、その姿態。また、背に赤子を背負った女房が、汁のおかわりを運んできている。その姿。その情景が実に巧みである。この女房の姿は十返舎一九の「膝栗毛」に描かれた鞠子の、とろろ汁屋の女房そっくりといわれ、広重が「膝栗毛」の文中から情景を巧みにとらえている一例といえよう。また、一人静かに向こうへ行く老百姓の後姿がまたのんびりとして、いかにも春の日の下の野良の人である。私は、この絵を一般が認めている以上に賞讃する好きな絵である。
この絵の地名に「丸子」と記したものと「鞠子」と記したものがあり、初版は「丸子」であるといわれている。地名の鞠子は丸子とも麻利子とも作る。しかし、初版といわれる、「丸子」と記されている絵は非常に少ない。
なお、鞠子宿で有名なのは、とろろ汁の外に柴屋寺がある。この寺は連歌師柴屋軒宗長の庵の跡で、ここで竹の灰吹きを作って売っている。吐月峰と称し知られている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
府中から八粁で鞠子の宿である。道は海沿いから別れて山手へかかる。ここの名物「とろろ汁」は、あまりにも有名である。街道に沿っても今も一軒は残っている。広重はこのとろろ汁の店を「名物茶屋」と題して描いている。時は早春、名物とろろ汁の茶見世の軒端の梅も、つぼみがふくらんでいる。裏の畑にも若菜が芽ぐんでいる。
なにもかも、のどかな春の暖かさであるが、この気分を広重はバックの空も薄紅の潰しにしている。それでこの絵の暖かい春の色が象徴されている。芭蕉の「梅若葉まり子の宿のとろろ汁」の句にピッタリの風趣である。また、この店の藁屋根の上にとまっている二羽の鳥、こんな小さな鳥の姿にも、のどかさは満点である。
さらに、この絵に描かれている人物が素晴らしい。店の中で二人の旅人が、とろろ汁をかき込んでいる、その姿態。また、背に赤子を背負った女房が、汁のおかわりを運んできている。その姿。その情景が実に巧みである。この女房の姿は十返舎一九の「膝栗毛」に描かれた鞠子の、とろろ汁屋の女房そっくりといわれ、広重が「膝栗毛」の文中から情景を巧みにとらえている一例といえよう。また、一人静かに向こうへ行く老百姓の後姿がまたのんびりとして、いかにも春の日の下の野良の人である。私は、この絵を一般が認めている以上に賞讃する好きな絵である。
この絵の地名に「丸子」と記したものと「鞠子」と記したものがあり、初版は「丸子」であるといわれている。地名の鞠子は丸子とも麻利子とも作る。しかし、初版といわれる、「丸子」と記されている絵は非常に少ない。
なお、鞠子宿で有名なのは、とろろ汁の外に柴屋寺がある。この寺は連歌師柴屋軒宗長の庵の跡で、ここで竹の灰吹きを作って売っている。吐月峰と称し知られている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』