22・岡部(宇津之山)
鞠子のつぎが八粁で岡部宿であるが、この宿に入る手前に宇津の山、宇津谷峠があり、画題も「宇津之山」である。ここも東海道の難所の一つである。絵は両方から迫る山の間の峠道を描いている。道に沿って水音高く渓流があり、右手の山の杉木立が山の深さを描いている。道に沿って水を上から樵夫が粗朶を担って下りてくる。下から旅の行商人と山の女が登っていく。
鞠子の絵は早春であったが、この絵は初秋であろうか。渓流に差出た立木の葉は早や紅葉している。しかし山肌はまだ青い。この左右の青さの部分があまりにも多すぎる恨みがある。広重はそこに、この絵の画調をおいたのかもしれないが、あまりにも働きがなさすぎる感じがする。この峠の寂しさは伊勢物語にも記されているし、河竹黙阿弥は、この峠の文弥殺しを描いて、怪談劇「蔦紅葉宇都谷峠」を書いている。
この保栄堂版東海道は、保栄堂が微力であったため、当時一流の版元仙鶴堂鶴屋喜右衛門と合版で出版した。発売すると大変な人気を呼び、途中から保栄堂独力で出版した。したがって日本橋・品川・川崎・保土ヶ谷・戸塚・平塚・興津・鞠子・藤枝・日坂・袋井の十一図は保栄堂と仙鶴堂ととも印となっている。ところが、この「岡部」だけは仙鶴堂の単印である。なお、日本橋から袋井までの上揚の宿場の絵以外は保栄堂の単印であるが、これは発売が順に行われたわけでなく、描けた図から発売したからである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鞠子のつぎが八粁で岡部宿であるが、この宿に入る手前に宇津の山、宇津谷峠があり、画題も「宇津之山」である。ここも東海道の難所の一つである。絵は両方から迫る山の間の峠道を描いている。道に沿って水音高く渓流があり、右手の山の杉木立が山の深さを描いている。道に沿って水を上から樵夫が粗朶を担って下りてくる。下から旅の行商人と山の女が登っていく。
鞠子の絵は早春であったが、この絵は初秋であろうか。渓流に差出た立木の葉は早や紅葉している。しかし山肌はまだ青い。この左右の青さの部分があまりにも多すぎる恨みがある。広重はそこに、この絵の画調をおいたのかもしれないが、あまりにも働きがなさすぎる感じがする。この峠の寂しさは伊勢物語にも記されているし、河竹黙阿弥は、この峠の文弥殺しを描いて、怪談劇「蔦紅葉宇都谷峠」を書いている。
この保栄堂版東海道は、保栄堂が微力であったため、当時一流の版元仙鶴堂鶴屋喜右衛門と合版で出版した。発売すると大変な人気を呼び、途中から保栄堂独力で出版した。したがって日本橋・品川・川崎・保土ヶ谷・戸塚・平塚・興津・鞠子・藤枝・日坂・袋井の十一図は保栄堂と仙鶴堂ととも印となっている。ところが、この「岡部」だけは仙鶴堂の単印である。なお、日本橋から袋井までの上揚の宿場の絵以外は保栄堂の単印であるが、これは発売が順に行われたわけでなく、描けた図から発売したからである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』