36:御油(旅人留女)
吉田から10.4里で御油の宿に入る。広重は、この宿場の夕暮時を描いている。画題は「旅人留女」で、そこか旅篭屋をと、さしかかった旅人を宿の女が強引に自分のところに引きとめ、引きずり込もうとしているユーモラスな一情景である。一九の「膝栗毛」にも、「はや夜に入りて両側より出くる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」とある。絵も旅人が二人、弥次郎平喜多八を想定した絵かもしれない。広重は、「膝栗毛」からヒントを得ている図をかなり描いている。このタックルのさまは写実で人物の表情もよく出ている。旅篭屋の中では、すでに泊まりをきめた旅の侍が、媼のすすめるタライで足をすすいでいる。この侍を引き入れた女であろう、頬杖をついてタックル中の留女の次の成果を見守っているのも面白い。飯盛女が一人、これもタックルを見守っている。宿場の夕暮時の風趣満点で留女の喧しい声が聞こえているようである。
この絵で注目されることは、絵の中に、版元・彫師・摺師・絵師の名を書き入れてあることである。旅篭屋の店先に掛けられている定連の講中札に右から「東海道続画」「彫工治郎平?」「摺師平兵衛」「一立斎図」と記され、円形の中に「竹之内板」とある。画中に絵師・版元などの名を趣向して入れることは浮世絵版画には度々見受けるが、摺師・彫師の名まで入れることはあまりない。この大シリーズのスタッフをここで公表することは、絵師・版元ともにこの作品に力を入れていることを示していたいと見ていい。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田から10.4里で御油の宿に入る。広重は、この宿場の夕暮時を描いている。画題は「旅人留女」で、そこか旅篭屋をと、さしかかった旅人を宿の女が強引に自分のところに引きとめ、引きずり込もうとしているユーモラスな一情景である。一九の「膝栗毛」にも、「はや夜に入りて両側より出くる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」とある。絵も旅人が二人、弥次郎平喜多八を想定した絵かもしれない。広重は、「膝栗毛」からヒントを得ている図をかなり描いている。このタックルのさまは写実で人物の表情もよく出ている。旅篭屋の中では、すでに泊まりをきめた旅の侍が、媼のすすめるタライで足をすすいでいる。この侍を引き入れた女であろう、頬杖をついてタックル中の留女の次の成果を見守っているのも面白い。飯盛女が一人、これもタックルを見守っている。宿場の夕暮時の風趣満点で留女の喧しい声が聞こえているようである。
この絵で注目されることは、絵の中に、版元・彫師・摺師・絵師の名を書き入れてあることである。旅篭屋の店先に掛けられている定連の講中札に右から「東海道続画」「彫工治郎平?」「摺師平兵衛」「一立斎図」と記され、円形の中に「竹之内板」とある。画中に絵師・版元などの名を趣向して入れることは浮世絵版画には度々見受けるが、摺師・彫師の名まで入れることはあまりない。この大シリーズのスタッフをここで公表することは、絵師・版元ともにこの作品に力を入れていることを示していたいと見ていい。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』