14・駿州江尻(View from Ejiri in Suruga Province)
これは風の絵である。北斎は風を描いてこの絵の中にあらゆるものを表現している。
道ゆく誰も彼もが一陣の突風に飛ばされんばかりで、身体を支えるのさえやっとといった姿態描写の巧みなことは北斎ならではの技量である。
そして左手の頭巾姿の女の人の懐紙が沖天に舞い上り、旅人の笠も飛ばされている。
いかに強風かが効果的に描かれている。
にもかかわらず、富士山だけは平然とし、その描写は稜線のみで白にしたのも何か風のすごさを象徴しているようである。
※富岳三十六景
「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いている。
初版は1823年(文政6年)頃より作成が始まり、1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)頃にかけて刊行されたと考えられている。[1]版元は永寿堂西村屋与八。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用いて摺ったことも特色である。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
「凱風快晴」や「山下白雨」のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、各地での人々の営みも生き生きと描写している。
日本のみならず、ゴッホやドビュッシーなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えた。
当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼ぶ。
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