
【原文】
人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は、兵の道を立て、夷は、弓ひく術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜なみ合へり。されど、おろかなる己れが道よりは、なほ、人に思ひ侮られぬべし。
法師のみにもあらず、上達部・殿上びと・上ざままで、おしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、未だ、武勇の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽つき、矢窮りて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、初めて名を顕はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近き振舞ひ、その家にあらずは、好みて益ことなり。
法師のみにもあらず、上達部・殿上びと・上ざままで、おしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、未だ、武勇の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽つき、矢窮りて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、初めて名を顕はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近き振舞ひ、その家にあらずは、好みて益ことなり。
【現代語訳】
誰にでも、自分とは縁が無さそうな分野に首を突っ込みたくなる傾向があるようだ。坊主が屯田兵まがいの事をしたり、弓の引き方も知らない武士が、さも仏の道に通じているような顔をして連歌や音楽を嗜む。そんな事は、怠けている自分の本業よりも、より一層バカにされるだろう。
宗教家に限ったことではない。政治家や公家、上流階級の者まで、取り憑かれたように戦闘的な人が多い。しかし、例え百戦錬磨であっても、その勇気を称える人はいないだろう。なぜなら、ラッキーな事が重なって敵をバタバタと薙ぎ倒している最中は、勇者という言葉さえ出てこない。武器を使い果たし、矢が尽きても、最後まで降参することなく、気持ちよく死んだ後に、初めて勇者の称号が与えられるからだ。生きている人間は、戦闘力を誇ってはならない。戦闘とは、人間のやるべき事ではなく、イーグルやライオンがやる事である。武術の後継者以外、好き好んで特訓しても意味がない。
宗教家に限ったことではない。政治家や公家、上流階級の者まで、取り憑かれたように戦闘的な人が多い。しかし、例え百戦錬磨であっても、その勇気を称える人はいないだろう。なぜなら、ラッキーな事が重なって敵をバタバタと薙ぎ倒している最中は、勇者という言葉さえ出てこない。武器を使い果たし、矢が尽きても、最後まで降参することなく、気持ちよく死んだ後に、初めて勇者の称号が与えられるからだ。生きている人間は、戦闘力を誇ってはならない。戦闘とは、人間のやるべき事ではなく、イーグルやライオンがやる事である。武術の後継者以外、好き好んで特訓しても意味がない。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。