【原文】
後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召めされて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂うき事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国の者ものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。
【現代語訳】
後鳥羽院の時代のことである。地方官の行長は古典の研究に優れ、評判が高かった。しかし、漢詩の勉強会で、白楽天の新楽府を論じた際に「七徳の舞」のうち、二つを忘れてしまい、天皇の前で恥をかいだけでなく「五徳のお兄さん」という不名誉なあだ名まで額に烙印されてしまった。羞恥心に悶絶した行長は、勉強を辞めて、人生も捨ててみることにした。慈円僧正という人は、一つの芸に秀でた者ならば奴隷でも可愛がったので、この行長の面倒をみた。
『平家物語』の作者は、この行長なのだ。性仏という盲目の坊主に教えて、語り部にさせた。比叡山での事を特に緻密に書き、義経にも詳しい。範頼の事は詳しく知らなかったのか、適当に書いている。武士や武芸については関東者の性仏が仲間に聞いて行長に教えた。今の琵琶法師は、この郢曲で名高い性仏の地声を真似しているのだ。
『平家物語』の作者は、この行長なのだ。性仏という盲目の坊主に教えて、語り部にさせた。比叡山での事を特に緻密に書き、義経にも詳しい。範頼の事は詳しく知らなかったのか、適当に書いている。武士や武芸については関東者の性仏が仲間に聞いて行長に教えた。今の琵琶法師は、この郢曲で名高い性仏の地声を真似しているのだ。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。