開戦を告げる臨時ニュース ノイズ除去版
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「昭和十六年十二月八日 畏し 大詔 煥発(かんぱつ)」
「蹶起(けっき)せよ 全国民 東條首相 決意闡明(せんめい)」
《東條首相》
「ただいま、宣戦の御詔勅が煥発(かんぱつ)されました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦いを行いつつあります。
東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも関わらず、ついに決裂のやむなきに至ったのであります。
過般來(かはんらい)、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、
かえって英蘭支と連合して、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要して参りました。
これに対し、帝国はあくまで平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず、今日に至りました。もし帝国にして彼らの強要に屈従せんか、
帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期しえざるのみならず、ついには帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
ことここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ち上がるのやむなきに至ったのであります。
今、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼(きょうく)感激に耐耐えません。私は不肖なりといえども一身を捧(ささ)げて決死報国、
ただただ宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君もまた、おのが身を顧みず、醜の御楯たるの光栄を同じうされるものと信ずるものであります。
およそ勝利の要訣は、必勝の信念を堅持することであります。建国2600年、我等(われら)は未だかつて戦いに破れたことを知りません。
この史績の回顧こそ、いかなる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。
我等(われら)は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざるとともに、さらに栄えある帝国の明日を建設せんことを堅く誓うものであります。
顧みれば、我等(われら)は今日まで隠忍、自重との最大最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、また敵の強大を恐れたものでもありません。
ひたすら世界平和の維持と人類の惨禍の防止とを顧念したるに他なりません。しかも敵の挑戦を受け、祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、
決然(けつぜん)起たざるを得ないのであります。
当面の敵は物資の豊富を誇り、これによって世界の制覇を目指しておるのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せんがためには当然、
長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に、絶大の建設的努力を要すること、言を要しません。
かくて我等(われら)はあくまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、いかなる困難も障害も克服して進まなければなりません。
これこそ、昭和の御民我らに課せられたる天与の試練であり、この試練を突破して後にこそ大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるものであります。
このときにあたり、満洲国及び中華民国との一徳一心の関係、いよいよあつく、独伊両国との盟約、益々堅きを加えつつあるを快欣(かいきん)とするものであります。
帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正にこの一戦にあり。一億国民が一切を挙げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。
八紘を宇(いえ)となす皇謨(こうぼ)の下に、この尽忠報国の大精神ある限り、英米といえども何ら恐るるに足らないのであります。
勝利は常に御稜威の下にありと確信致すものであります。私はここに謹んで微衷を披瀝し、国民とともに大業翼賛の丹心を誓う次第であります。終わり。」
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私の昭和16年12月8日 -後楽園球場に出現した真珠湾- 半沢健市 2021.11.26 リベラル21掲載
「共有した記憶を語る相手がいない」。
それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった。こんな当然なことを知るのに86年もかかった。嘗てこのコラムに、
しかしお前(=私)何を感じたのか。この自問に自答したい。
1941年12月8日(月)に私は国民学校の一年生であった。とても寒い朝だった。
午前7時にラジオの臨時ニュースのチャイムが鳴り、館野守男アナウンサーが緊張した声で開戦のニュースを読んだ。時間にして38秒のテキストは次の通りである。
■「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において
■音声は次のhttpsをクリックすれば聴取可能である。
(https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400316_00000)
《私は巨大な真珠湾を後楽園球場で見た》
私はこの放送をそのとき聞いただろうか。
人の記憶は日々修正され変化する。正直、私はそのニュースを聞いた気もするし、聞かなかった気もする。月曜日であったが校庭朝礼はあったのか。
東京都史のたぐいを一瞥したがその種の記事はなかった。
当時、日々報道のマスメディアはNHKと日刊紙だけである。この第一声を皮切りにラジオでは終日、開戦・その詔勅・東条首相の演説・緒戦の勝利報告・軍艦マーチが続いた。
日刊紙は8日の夕刊で「開戦と勝利」を大きく伝えた。
夕刊の発行日記載は翌日付(現在もタブロイド夕刊紙は同じ)だったから、「9日付夕刊」、「10日付朝刊」から開戦と勝利の報道が始まった。
私の記憶に強く残っているのは、真珠湾の巨大な「ジオラマ(立体模型)」を後楽園球場で見たことである。
真珠湾攻撃から人々は何を連想するか。
私の場合、映画好きだったこと、母校「元町国民学校」が球場に近いこと、が「後楽園球場の真珠湾」は何だったのか、の探索理由となった。
《一億人が見た戦争映画『ハワイマレー沖海戦』》
真珠湾といえば東宝映画・山本嘉次郎監督の『ハワイマレー沖海戦』である。
開戦一周年を記念しての映画公開は「国民的事件」であった。『昭和 二万日の全記録 第6巻・太平洋戦争』(講談社・1990年刊)は、戦争映画の代表作としてこの作品を紹介している。
■『ハワイマレー沖海戦』は1942年12月3日に公開され、大都市から地方へ広がった。大本営海軍報道部の企画で、東宝が七七万円という巨額を投じ半年かけて製作したが
予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊した一人の少年が猛訓練に耐え、一人前のパイロットに成長していく様子と、真珠湾攻撃、マレー沖海戦での活躍振りを記録映画風に再現した。
この映画が戦争映画の傑作と呼ばれた理由は二つある。
一つは、円谷英二(つぶらや・えいじ)の特殊撮影技術である。観客の誰もが本物と信じた真珠湾攻撃やマレー沖海戦の場面は、真珠湾、戦艦、飛行機の精巧な模型と、
■東京世田谷の東宝第二撮影所につくられた1800坪のオープンセットは、爆弾で上がる水柱が最も効果的に見える大きさに設計された。撮影は飛行機を吊すだけでなく、移動するクレーンから撮ったり、回り舞台のようにバックの背景を動かしたりする特殊技術が駆使された。
『後楽園の25年』(後楽園スタヂアム・1990年刊)には、東宝第二撮影所のセットはそのまま後楽園へ移設したと書いてある。両者の面積を調べてみたが、それは可能だったと考えられる。戦争映画の傑作と呼ばれた二つ目の理由は、この作品が全国民の「愛国心」を高揚させ、想定外の戦争キャンペーンが実現したからである。
私が見た「真珠湾のジオラマ」はこの移設セットであったろうと思う。
《小林一三と後楽園と元町国民学校》
私の母校「東京市本郷区立元町国民学校(当時名称)」は、関東大震災の復興計画により昭和初期に東京に出来た52校のコンクリート建造物の一つであった。元町校は三階建で避難場所を兼ねた公園が併設された。校庭は堅く運動靴で走っても転ぶと、擦りむいた足が痛かった。学校と公園は高台にあった。元町公園は、適度の広さがあり砂場やジャングルジムなどの児童用遊具があった。展望バルコニーからは神田川とその土手が見え手前には路面電車が走っていた。国民学校の直ぐ隣に「桜蔭高等女学校」があった。現在は「桜蔭学園」となり東大女子学生の量産校として知られる。
それなら私は後楽園球場をしばしば訪れたのか。そうではない。
1937年に発足した後楽園球場の経営変化は面白いエピソードに満ちている。
経営は、阪急電鉄など関西の都市近郊開発に新手法で成功した小林一三が主導した。
37年から戦後の1950年頃まで、後楽園スタジアムは、国家事業を含むさまざまなイベント会場として機能した。その一部を例示すれば、高射砲陣地、食料用野菜栽培畑、兵器集積場、大相撲会場、スキー競技場(雪持ち込み)、サーカスやプロボクシング競技会場、内外著名タレントのエンタメ会場などである。
上記の1942年12月の行事「大東亜戦争一周年記念映画報国米英撃滅大展示会」はその一つであった。昼は真珠湾ジオラマの展示、夜は大スクリーンで
重要な余談として、この展示会について追記したいことがある。
真珠湾攻撃で活躍した海軍空母は(赤城、加賀など)主力4隻が、42年6月のミッドウェー海戦で米軍に沈められ、観客が展示会に熱狂した時には既に海底の藻屑だったことである。
《「それでどうした」では済まない今である》
ここまで『ハワイマレー沖海戦』の回想を述べてきた。読者は私に「それがどうしたso what?」と問うであろう。
《「共有した記憶を語る相手がいない」。それが「歳を取ること」だと私は感じるようになった》。こう私は書いた。