阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

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2022年10月22日 | 東京あちこち

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映画「カティンの森」

2022年10月22日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月11日「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

監督は1926年(昭和元年)生まれのアンジェイ・ワイダ。「地下水道」や「灰とダイヤモンド」などの作品で知られるポーランド人。本作品は2007年に製作・リリースされた。

彼は元々画家を目指したこともあり、日本の浮世絵などの愛好家で、日本美術を東欧へ紹介したことを多とし、稲盛財団の“京都賞”を1987年に受賞している。

その賞金の4500万円を基金として、クラクフに日本美術技術センターが設立されている。

 本題の映画に戻る

裁判も尋問もなく、ポーランド軍の将校団がソ連のカチンの近くで銃殺され穴の中に埋められた。

このことは、長い間旧ソビエト連邦の意向で、ナチス・ドイツの犯罪であるとされてきた。

ワイダ監督の父親も帰らなかった将校の一人で、50歳で亡くなった監督の母親は真相を知らないまま、死ぬまで夫の帰還を待ち続けていた。

映画は将校たちの両親、妻、子供の戦中戦後を軸に当時のポーランドの生活が描かれる。

映画は淡々と進む。どこにも激するところはない。ラスト15分を含めて。

 ラスト15分。収容所から処刑の森までの行程と、一人一人の死が克明に描かれていく。



 将校を呼びだし後ろ手にしばる、二人の兵が両脇をかかえる。別の兵が後頭部にピストルの銃口を向け引き金を引く。

血煙が上がる、脳漿がまわりに飛び散る。穴に放り込む。はいその次、はいその次、はいその次と続く。

一つの穴が一杯になると、兵隊が一人穴に降りて、いまだ絶命していないのを見つけると銃剣で止めをさす。

ブルドーザーがきて穴に土をかぶせていく。

 20数年映画化を温めていたワイダ監督の思いがこの15分に詰まっている。彼はおそらく理性の人だと思う。

しかしこの映画に彼は彼と彼の家族のどうしようもない「怨念・痛恨・悲哀」を込めたのだと私は思った。しかしそんな言葉はこのシーンの前では殆ど意味はない。

あくまでこれは私自身の器の限界の理解のようだ。

 ワイダ監督自らはこう書く。

「試行錯誤を重ね、熟考を続けた結果、わたしはある確信に至った。カティン事件についてこれから作られるべき映画の目的が、

この事件の真実----その追究は、歴史的・政治的な次元で、すでになされている----を明るみに出すことだけであってはならない、と。

今日の観客にとって、史実は、出来事すなわち人間の運命の背景であるにすぎない。観客の心を動かすのは、あくまでもスクリーンに映される登場人物の運命である。

私たちの物語を展開するための場所が、あの時代のすでに記述されている歴史のなかにある。


したがって、私の考えるカティン事件についての映画は、永遠に引き離された家族の物語である。

それは、カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実の物語になるだろう。ひとことで言うならば、これは個人的な苦難についての映画であり、

その呼び覚ます映像は、歴史的事実よりはるかに大きな感動を引き起こす。

この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な真実である。主人公は、殺された将校たちではない。男たちの帰還を待つ女たちである。

彼女たちは、来る日も来る日も、昼夜を問わず、耐えられようもない不安を経験しながら、待つ。

信じて揺るぎない女性たち、ドアを開けさえすれば、そこには久しく待ち受けた男性(息子、夫、父)が立っているという、確信を抱いた女性たちである。

カティンの悲劇とは今生きている者に関わるものであり、かつ、当時を生きていた者に関わるものなのだ。

長い年月が、カティンの悲劇からも、1943年のドイツによる発掘作業からも、我々を隔てている。90年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、

さらには、部分的に止まるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について、我々の知るところは、いまだにあまりにも少ない。

1940年4月から5月にかけての犯行実施は、スターリンと全ソビエト連邦共産党政治局に属するスターリンの同志らが、1940年3月5日、モスクワで採択した決定に基づいている。

ひょっとしたら父は生きている、カティンの被害者名簿一覧には、ワイダと姓があったが、名はカロルと出ていたのだから----。

このように永年にわたり、母やわたしたちが信じていたのは、少しも不思議ではない。

母はほとんど生涯の終わりに至るまで、夫の、すなわち、わが父の生還を信じ続けた----ヤクプ・ワイダ、騎兵第二聯隊所属、第一次世界大戦(1914−18)、

ポーランド・ソ連戦争(19−20)、シロンスク蜂起(21)、並びに1939年9月戦役に従軍の勳功により、戦功銀十字架勲章騎士賞を受けた。

とは言え、この映画がわが個人的な真実追究となること、ヤクブ・ワイダ大尉の墓前に献げる灯火となることを、わたしは望まない。

映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、

カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソビエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。

若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、

彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの----

政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが----を忘れる。

さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9月17日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。

もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。

「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく......。

アンジェイ・ワイダ


"集英社文庫「カティンの森」(工藤幸雄・久山宏一訳)より引用。

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余談 その1

ポーランドという国を自分が最初に意識したのは、ノーマン・メイラーの小説「裸者と死者」を読んだとき、日本軍と戦う米軍のポーランド系アメリカ兵士が兵隊の間で、

個人の名前を呼ばれずに「ポラック」(ポーやろう?)という蔑称で呼ばれていたことからだ。

後から他国に移った連中は、それ以前に渡った連中から肉体労働の仕事を安い賃金で奪うことになるので、お互い社会下層どうしで必ずいがみあう。

アメリカに渡った日本人はアイルランド系やイタリー系アメリカ人に「ジャップ」と言われ、日本で朝鮮人は「TYOUSEN」や「hantoujin」と呼ばれて小馬鹿にされ、差別されてきた。

勿論、知識としては「キュリー夫人」や「ショパン」がポーランド人であることは知っていたが、フツーのアメリカ人の中ではポーランド系は「ポラック」と小馬鹿にされていたらしい。

 どんな時代でもどんな国でも、人間は自分が住んでいる国でつらい目にあっていると、他の集団に対して「自分らはあいつらよりまだましや」と思うことで、

自分が属する集団の感情のバランスをとるようだ。

それは、その時々の支配層からすると、不満が自分たちに向かわずに、彼らのエネルギーが彼ら下層どうしのいさかいの中で消耗されるわけだから大いに歓迎していいことだ。

昔から世界各国で移住者へ参政権を与えるかどうかは必ずもめるが、歴史的にも各国の時の支配層は、フツーの連中どうしが大いに揉めるように、

巧妙にメディアを使って闘争を煽ってきた。アメリカの新聞やラジオのおかげで、当時の日系人がどんなに痛い目にあわされたか。

余談その2 -映画の公式HPより引用

 本作はワイダ監督自身の両親に捧げられている。
父ヤクプ・ワイダ(1900−1940)は1939年9月戦役でソ連捕虜となり、スタロビェルスク収容所に抑留され、ハリコフ近郊ピャチハトキで虐殺された。カティン犠牲者リストには「カロル・ワルダ中尉」の名があり、生年月日も父と一致していた。名が誤記されていたため、母アニェラ・ワイダ(1901−1950)は死去するまで、父が無事生還するとの希望を待ち続けた。
ワイダ監督は1957年、カンヌ映画祭で『地下水道』を上映するためにフランスを訪れた際、アンデルス将軍の序文つきの「カティン事件」資料集を読み、初めて事件の真相を知った。それから、映画完成までに半世紀を要した。

「東欧革命」(1989−90)で社会主義から資本主義に体制が変換するまで、ソ連の犯罪と虚偽を暴露する映画の製作は問題外だった。ワイダは1990年代半ばから、ライフワークとして「カティンの森虐殺事件」の映画化を切望した。それから、完成までに17年の歳月が必要だった。
ワイダ映画(そして、彼が代表する「ポーランド派」)の魅力は、すぐれた文学作品を創造的に映画化したことにある。カティンを素材とした文学作品が(本作中、収容所の場面でイェジが言及するズビグニェフ・ヘルベルト(1924−98)の詩「ボタン」を例外として)存在しないことが最大の障害として立ちふさがった。

虐殺されたポーランド将校は、ドラマの主人公になりにくい、という理由から、別のストーリー展開が模索された。

2001年1月から2003年11月まで、小説家ヴウォジミェシュ・オドイェフスキ(1930− )の協力を仰いで、戦後のクラクフを舞台にロマン・マルティニ検察官(ソ連の指令で、ドイツをカティン事件の犯人として告発しようとして、逆にミンスクでソ連の犯罪証拠文書を発見。その後、1946年3月にクラクフの自宅で何者かにより殺害される)を主人公にする可能性が模索されたが、実現に至らなかった。当時の映画の仮タイトルは、『カティン----痕跡を求めて』だった(オドイェフスキの「原作」は、『敗れざる者たち、歩く者たち』(03)として刊行されている)。
その後、アンジェイ・ムラルチク(1930− )が映画用の短篇小説(未刊行)を執筆し、のちにそれをもとに長篇小説『死後』(07)を執筆した。映画封切り数か月前に出版されたこの「映画物語」の舞台は、1945−46年のクラクフと21世紀初頭のカティン、主要な登場人物は、「カティン事件」の被害者アンジェイ・フィリピンスキ家の人々(母ブシャ、妻アンナ、娘ヴェロニカ)とヤロスワフ(映画のイェジ)、イェジ〔ユル〕(映画のタデウシュ〔トゥル〕)である。アンジェイは回想にしか登場しない。

一方、アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキの3名は、ムラルチク執筆の短篇小説のモチーフを基に、シナリオを執筆した。プロデューサーの証言によると、1990年代半ばから数えて30番目のヴァージョンにあたるという。
撮影開始時、映画の表題は「原作」と同じく『死後』だったが、公開の半年前の2007年4月に、『カティン』に変更された。当初、登場人物は一切姓を持たず、演じる俳優のプライベートの名前で登場するという、かつて『すべて売り物』で試みたことのある手法の採用が検討されていた。ワイダ監督自身が画面に登場する案もあったが、いずれも制作途中で放棄された。

監督自身、カティン犠牲者である父を息子として待ち続け、夫を待ち続ける母の苦悩も身近に目撃している。小説『死後』のような小規模な「家族映画」を作るのはむしろたやすかったかもしれない。しかし、シナリオ執筆者たちは「原作」を大きく改変して、多様な登場人物による歴史パノラマを作り上げた。

ワイダ監督は、ムラルチクの小説とシナリオの関係を次のように説明している。「原作をもとにしたシナリオは、製作の準備段階と撮影中に多くの変更を受けました。しかしこの小説あればこそ、わたしは撮影を開始することができると信じられるようになったのです」「シナリオを4つの物語に分けることで、史実の中に発見された場面・情況・人物をより豊富に導入することが可能になりました。それによって、人物の運命のパノラマが拡大し、一家族の物語を超えた映画になりました。また、主題と直接関係のない要素を原作から排除して、全体の物語を時系列に沿って展開できるようにしました。このことが映画の受容を容易にしたはずです」

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