世界レベルとの落差が大きすぎて、日本の新聞やテレビも、彼らが日ごろ目を向けているのは、この列島の内部だけのことで、日本のメディアが、
全くの世間知らず(世界知らず)なんだということがミエミエだ。
そんな中で女子スピードスケートに小平奈緒さんという人がいて1000mと1500mで5位に入った。そして終了間際の日程の「スピードスケート女子団体追い抜き」で銀メダルを取った。
事前にメディアが、「スピードスケート女子団体追い抜き」で日本チームがもしかしたら金メダルを取る可能性があると、あまり報道していなかったので嬉しかったのと同時にびっくりした。
「小平(こだいら)」という苗字は長野県に多く、諏訪や茅野ではポピュラーな苗字なので、もしかしたら長野県出身の人なのかなと思っていた。
ある日のテレビで、茅野市の豊平小学校の児童たちが先輩の小平選手の応援をしているニュース画面があった。
ウン?豊平小学校?聞いたことがあるなあと思って、グーグルのMAPで検索すると、やはり阿智胡地亭の母親が通った玉川小学校の隣の小学校が豊平小学校だった。
小平奈緒さんは、母や母方のイトコたちが卒業した玉川小学校の隣の小学校を卒業している。
母が生まれた当時の諏訪郡玉川村は今は茅野市玉川だが、豊平地区も当時は諏訪郡豊平村で、現在は茅野市豊平になっていて、往時の玉川村の隣村にあたる。
そのことに気がついたとき、母が話していた下駄スケートの話を思い出した。
冬になると、校庭全面に夜先生方が水を張って、朝になるとそれが全面結氷し、昼間は休み時間にみんなでスケートをしたと、そう楽しそうに話していた。
「ただね、昭和初年のあの時代に村で誰もスケート靴を買えるような家はないから、みんな下駄の下に村の鍛冶屋さんが造ったスケートの刃を、紐でしばりつけて滑ったんだよ」、
「冬は誰でも子供は当たり前のようにスケートをしていたよ」と言っていた。
聞いたときその光景を想像して面白かった。足袋と下駄を履いて着物姿で、校庭に出来たスケートリンクの上をみんなが滑っていたんだそうだ。
今は知らないが、イトコ達も同じように毎冬楽しんだと聞いたような気もする。もしかすると今でも冬は校庭がリンクに変わり、
小学生の小平奈緒ちゃんも(彼女の時代は)スケート靴で滑っていたのかもしれない。
そんな土地から小平奈緒さんは出て、オリンピックの代表選手になり2種目で入賞し最後の種目で銀メダルを獲得した。4年後にはメダルには金メダルを取って欲しい。
マップの上の丸印が小平奈緒選手が卒業した「豊平小学校」所在地。下の丸印は玉川小学校。(地図はクリックで拡大)
余談ながら諏訪市内の高島小学校に通っていた父は、冬の体育の時間は、結氷した諏訪湖でスケートばっかりさせられたと聞いたような気がする。
そういえば尼崎市の塚口に住んでいた昭和28年ごろ、西宮にあったスケート場に連れて行ってもらい、父が見事に滑るのを初めて見てびっくりした記憶がある。
当時から諏訪の子供は普通に冬はスケートを楽しんでいたらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
引退インタビュー 2022/10/28 07:22 読売オンラインから引用。
小平奈緒さん「八ヶ岳に登りたい」「語学の勉強も」…スケート以外にも広げたい「文脈」
「『知るを 愉 しむ』『唯一無二の自己表現』という、これまでと変わらないテーマを探究していきたい」。スピードスケートの小平奈緒さん(36)(長野県茅野市出身)は27日、東京都内で開いた引退記者会見で氷上を離れて活動する抱負をこう表現した。今後は競技人生を支えた相沢病院(同県松本市)に所属したまま、新たな“学び”の道へ歩み出す。
小平さんは22日の全日本距離別選手権・女子500メートルで優勝。最後の滑りに、「氷上に私が表現できる全てを描けた」とし、競技人生を「山あり谷ありのジェットコースターのような日々だった」と振り返った。
また、「自分の文脈の中でしか学びは生まれてこない」という言葉を引き合いに、今後については「スケート以外にも文脈を広げたい」と語り、11月に母校の信州大特任教授に就任することを明らかにした。キャリア形成や健康科学に関する講義を担当し、来年1月から教壇に立つ予定という。
このほか、イベントや講演会への出演予定も決まっており、「スケートは小さな勇気さえ持てば前に進むことができる。挑戦してみようという気持ちを持っていきたい」と語った。
会見に同席した相沢病院の相沢孝夫理事長(75)は「僕も職員も皆の気持ちをどきどきさせ、感動させてもらったことに感謝したい」と花束を手渡した。小平さんは「新しい世界へ飛び出していくが、小平奈緒と一緒に歩みを進めてくれる皆さんがいたら幸せです」と締めくくった。
五輪「純粋に世界を明るくする舞台であってほしい」
記者会見での主なやりとりは次の通り。
――スケートを滑る時間はどんな時間だったか。
「無限の学びが含まれているのが(500メートルを滑る)三十数秒間。これからも趣味としてリンクに通いたい。技術を書き留めたノートを一つにまとめて、未来のスケーターに役立つものを作れたらとも思う」
――引退した今だから取り組みたいことは。
「地元の八ヶ岳に登山したい。現役中にはあまり時間が作れなかった語学の勉強もやってみたい。食も楽しみたい」
――五輪の舞台をどう子どもたちに伝えたいか。
「4大会を経験し、確かにそこで成長したという思いがある。純粋に世界を明るくする舞台であってほしいし、世界の人と人とをつなぐものであってほしい。支える人たちも 真摯 にスポーツに向き合ってくれることをただ願っている」
|