原発は技術停滞の固まりだったという目からうろこ こちら から全文引用・・ 新聞のコラムをみていて、思いがけない大事なことに気がついた。核エネルギー開発の技術は、最先端どころか、現代で最も停滞している分野だったのだ。40年間も動いている原発があるということは、自動車で考えたら1970年のサニーやカローラが現役で走っていることになる。 原発も、建設した当初に見込んだ耐用年数は、10年から、長くても20年だったという。ところが技術革新がなく、逆に廃炉の大変さがわかってきて、延長に延長を重ねて今に至っている。当初に期待した大きな技術革新は、何一つ実を結ばなかったのだ。 およそ革新的な技術が導入されると、数十年のうちには初期には想像もしなかったような発展をとげるものだ。飛行機、蒸気機関、電気・電波の利用、コンピューターなどが、私たちの生活を大きく変えてきた。だから核エネルギーの利用も、同様に順調に発展したなら、今ごろは誰もエネルギーについては意識もしないで使えるような夢の世の中が実現してもおかしくはなかった。それこそキャンプに小型の携帯原発を持って行くような時代である。しかし、そうはならなかった。 未来の原子炉と期待された「ふげん」も「もんじゅ」も、いくら手を加えてもモノにはならなかった。原発は小型化とは反対に、従来技術の延長で、ますます集約化・巨大化するしか活路がなくなった。要するに核エネルギーは、それほど扱いにくい危険な対象だったということだ。唯一の成功例が、67年も前の爆弾としての使用であったのだが、その後に残った放射線障害の深刻さに、使ったアメリカも「あれは止むをえなかった」と弁明に追われている。 もうこの辺で目をさまして、人類は核エネルギーの開発・利用から撤退するべきではないのか。医療用などの微量の放射性物質を除いて、核物質の最終処分に向けた具体的な行動計画を立てるべき時期が来ているのだと思う。これまでに蓄積した核技術は、博物館的な安全な施設に保管して、将来の人類のために参考資料として残して置けばよい。 核兵器の唯一の被爆国だった日本が、福島原発で再び世界に問題を提起したのは、単なる運命のいたずらだろうか。起こってしまったことを今から変えられない以上、私たちにできることは、この運命を、核廃絶の伝道者としての役割に生かすことではないだろうか。 (太字は管理人) |
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反「ハシズム」学者が橋下市長に勝てない理由―私の分析 一部引用・・ 「橋下主義(ハシズム)を許すな」を書かれた四人の学者の致命的な弱点は、色々騒動を起す橋下市長の言動に引きずられ、相手方の手法を批判するだけで、日本に「何」が「何故」必要か! と言うテーマを示せない事と、テーマ設定に必要な理念と原点の二本柱に欠けている事です。 橋下市長が国民の注目を集めたのは、世論を二分する政策や、歯切れの良い弁論、相手を完膚無きまでに叩く激しさもさることながら、日本は「何」を「何故」「誰が」「何時」「何処で」「どの様に」すべきかを全体的な視点で捉え、その中から優先順位をつけて説明する能力に優れているからです。 橋下さんは、自分の理念と原点(オリジナルインテント)が確りしていますから、何処から攻められてもぶれません。又、間違ったと思えば直ぐ訂正し、知らない事は素直に知らないと認めるのも、いさぎよいのではなく、そうしないと原点が崩れるからです。 全文はこちら |
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一部引用・・ 今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもない。そうではなくて、教師たちが教育を信じるのを止めてしまったからである。 教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。 教師たちが政治家やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け容れたときに、商取引のタームで教育が語られることを許したときに、教育の奇跡は息絶えるだろう。 「教卓の向こう側」には圧倒的な知的アドバンテージを有するものが存在する。生徒たちが差し出すどのような代価も、教師からの「贈り物」の価値を相殺することはできない。その信憑だけが私たちをドクサの檻から解放してくれる。 子供たちはまず「教卓」を介して「この世界には私の理解を超えた数理的秩序が存在する」という信憑を身体化する。そこから科学的探求心と宗教的覚醒が始まる。そこから人間は人間的なものに成長してゆく。 この理路をまったく理解していない人たちが教育について語る言葉が巷間にあふれているので、贅言と知りつつここに記すのである。 全文はこちら |
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タブーの正体! もう一つは、これが圧倒的に多いのだが、抗議を受けたこと自体を隠し、人知れず転向してしまう態度だ。 そして、そのことでタブーの実態はますます見えにくくなり、タブーは肥大化してしまう。 |
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官僚制に冒された教育 したがって、教育は、文書化できる客観的な結果を出すことを目的とするようになります。 |
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