阿智胡地亭のShot日乗

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  1942年生まれが東京都江戸川区から。

尖石遺跡 国史跡指定70年の変遷たどる                 長野日報

2022年09月25日 | 諏訪便り

2022年9月24日 6時00分     「特別史跡尖石石器時代遺跡」の歴史を紹介している企画展。土器のほか、書物なども並ぶ

茅野市尖石縄文考古館は23日、国特別史跡「尖石石器時代遺跡」の変遷を紹介した企画展「特別史跡尖石石器時代遺蹟の今まで」を始めた。

尖石遺跡の発掘に尽力した宮坂英弌のフィールドノート(発掘途中のメモ)や、与助尾根遺跡の初代復元住居の設計図などを展示。

土器など遺物のほか、日記や書籍、写真などを並べ、発掘調査の歴史をきめ細かに伝えている。11月23日まで。

1952(昭和27)年に特別史跡指定を受け今年が70年に当たることと、今年3月、明治時代からの遺跡調査を網羅した「総括報告書」が完成したのを記念して開催した。

尖石遺跡名が初めて記載された大正時代の書物「諏訪史」第一巻や、宮坂が33(同8)年に発掘し遺跡調査のきっかけとなった土器2体を展示

合わせて宮坂が記録したフィールドノートや発掘時の写真も置いた。

特別史跡指定前の42(同17)年には国史跡に指定されており、この指定をめぐって地元と文部省とのやりとりを記した手紙や、

49(同24)年に与助尾根遺跡に完成した初代の復元住居の設計図や骨組みの写真も展示した。

現在は、指定地の範囲を調べたり、以前はできなかった花粉分析によって当時の環境を調査したりしている―などと紹介している。

同館は「『国宝』が目立ち注目を集めがちだが、特別史跡は『不動産の国宝』といえる。その価値を改めて感じてもらえれば」としている。

関連イベントとして10月9日午後2時から、シンポジウム「特別史跡尖石石器時代遺蹟 その価値を語る」を開く。

守矢昌文同館特別館長と勅使河原彰・尖石縄文文化賞選考委員、斉藤慶吏・文化庁調査官がパネリストになり、それぞれの立場から語る。

問い合わせは同館(電話0266・76・2270)へ。

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●尖石遺跡(尖石縄文考古館)

八ヶ岳山麓に栄えた縄文時代の文化を紹介
国宝「縄文のビーナス」が展示されてます

八ヶ岳山麓に栄えた縄文時代の文化を紹介。国特別史跡「尖石遺跡」を中心に、
尖石縄文考古館をセンターとした史跡公園となっている。
館内には、美的感覚の優れた国宝「土偶」(縄文のビーナス)を中心に、たくましい力動感あふれる
豪壮な土器や黒曜石で作られた精巧な石器など2000点余りの縄文時代の遺物が展示してあります。
問/尖石縄文考古館 TEL 0266-76-2270  ホームページ

 

 

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尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)は、長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の集落遺跡。

南側の尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の1つとして知られているが、

現在では同遺跡と浅い沢1つ隔てた北側の台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われることが多い。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する。

遺跡周辺は史跡公園となり、園内には茅野市尖石縄文考古館がある。

概要[編集]

 
尖石遺跡から出土した蛇体把手付土器
 
尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)

八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高1050-70mの東西に広がる長い台地の上にある。前述のように台地の中央部に沢が走り、北側が与助尾根、南側が尖石にあたる。

尖石遺跡を最初に学界に報告したのは1893年(明治26年)考古学者、小平小平治(湖東村出身)によってであるが、

本格的な発掘調査を行ったのは地元の考古学者宮坂英弌(ふさかず)である[1]。宮坂が当遺跡とかかわったのは、1929年(昭和4年)、伏見宮博英王が行っていた発掘を、

小平小平治の弟で、俳句の師である小平雪人とともに手伝ったのが最初である[2]。1930年(昭和5年)から独力で発掘を開始し、同年には炉跡を発掘。

1940年(昭和15年)からは、縄文集落の確認を目的として本格的な発掘を開始し、途中太平洋戦争を挟んで発掘は1952年(昭和27年)まで続けられた[3]

また、1946年には与助尾根の発掘にも取り掛かった。与助尾根は1935年(昭和10年)に現地を開墾中に発見されたものであったが、この時までほとんど手付かずであった。

宮坂は縄文土器及び石囲炉を手掛りに住居を探すもので、尖石では竪穴式住居跡33か所をはじめ、53か所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、

土器に比べ石器の出土が極端に少なく、特に石鏃(41)が少なく、打製石斧45、破片8が見つかっている。

また、与助尾根でも28か所の住居、石鏃10、打製石斧14、破片4、磨製石斧、石皿、凹石など多数を発掘している。

宮坂は、ワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考えた。それに対し、藤森栄一は狩猟・採集以外の何かの生業、例えば焼畑農業が存在したのではないかと考えた。

この集落遺跡は、東西170m・南北90mの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明し、これによって日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認された遺跡となった。

当遺跡は、「尖石石器時代遺跡」の名称で1942年10月14日、国の史跡に指定された。

宮坂の尽力によって、当遺跡は「縄文集落研究の原点」とされる重要な遺跡と位置づけられ、

1952年3月29日には文化財保護法に基づき特別史跡に指定。1993年4月6日には与助尾根遺跡の区域が特別史跡に追加指定された。

追加指定分を含む特別史跡指定範囲の面積は66,933.405平方メートルである[4]

Wikipediaから部分引用  引用元。


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