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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

三重県四日市市千歳町にあった「水平引き込み式クレーン」の写真に巡り合った!  ブログ「花の四日市スワマエ商店街」さんのおかげです。

2019年02月16日 | ゲストルーム

花の四日市スワマエ商店街(click)から引用させてもらいました。謝謝。

カンバック!昭和商店街33<山路氏の中央通り> 

2019-02-13 | レモン色の町

<山路昭雄氏の写真>

写真から想像すると昭和三十二年晩秋の早朝ではないだろうか

新しい駅がオープンして少し一段落した感がある。パイロット萬年筆の看板を揚げる新光堂書店が右に建っている。オカダヤはまだ姿をみせていない。近鉄ストア開店売り出しののぼりが、川伝いに並ぶ。この川はまっすぐ駅裏に抜けていて、現在駅西に川の続きを見ることが出来る。久保田町で三滝川からくみ上げられた水は、農業用水と下水の役割をしながら、あせち川へと流れていた。植えられたばかりの楠の木が、整備したての中央通りを物語っている。(注 新しい駅 近鉄四日市駅)。

近鉄ストア2階から中央通り東方向を見る。左にはすでにオカダヤが建っている。遠く左に商工会議所屋上の東芝ネオンが望める。←ブログ記事はここまで。

☆昭和32年晩秋の「四日市」なら中学生の自分もこの頃2回目に住んだ四日市にいた頃だなあと思って写真を見た。

目が写真の右上に行ったとき、見覚えのある懐かしいクレーンの小さいシルエットがあるのに気が付いた。そして工場の建屋も見える。

このクレーンは板ガラスの原料を溶解する窯を1日24時間燃やし続けるための石炭を船から陸上げする水平引き込み式クレーンだ。

昭和32年当時は近鉄四日市駅からクレーンが見えていたことになる。阿智胡地亭はあのクレーンの根元にある工場に付属する社宅で戦前に生まれた。

2017年10月に生まれた場所を訪ねた。⇒こちら。(click)

当時父親は24時間操業の工場の機械や窯全体のメンテ担当で、トラブルがあると夜中でもすぐに駆けつけるために社宅も工場に付随していた。

彼の勤務は三交代で夜間勤務が多かったのか、昼は大体寝ていて一緒に休日に遊んでもらった記憶はない。工場街だから住民は少なくそのせいか

近くに幼稚園はなく、幼稚園というものが世の中にはあることも知らず、団体生活の経験はないまま父親が次に転勤した九州若松の二島工場の社宅から

4キロの山道を歩いて若松市立島郷第一小学校へ入学し通学することになった。

このクレーンに近い工場の社宅にいた頃、自分がこのクレーンを製造納入した会社に将来就職することになろうとは思いもしなかった(笑)。

まして、クレーンが作られた愛媛県新居浜市に勤務することになることも当然知らなかった。

 ちなみに水平引き込み式クレーンを、アメリカのミシッシピー河の河口に据えて、カオリンを艀から本船に積み替える用途にピッタリと言うことで

買ってもらった時に、営業担当でニューオリンズに数回出張する(クリック)ことになったのはまさにこのタイプのクレーンのおかげだ。

  ところで2017年10月に四日市の現地を訪ねた時、窯を燃やすことが無くなった工場にもうクレーンは不要になっていてクレーンは撤去されていてどこにもなかった。

しかしもう2度と姿を見ることはないと思っていたクレーンの貴重な写真にネット上で巡り合うとはIT時代のおかげだ。

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有楽町のレストラン「綴」で友人と昼食をとった。

2019年02月15日 | ある日のランチ
昭和37年に当時阪神御影にあった教養課程の校舎の語学クラスで一緒になったのか、その後友人を介して親しくなったのか定かではないが50年以上の
付き合いがあるSさんから東京へ出てきたなら一度昼食をと誘われた。場所は有楽町の「綴」という落ち着いたレストランだった。
三菱系の会社に勤めもう東京の生活が長い彼はさすがにいい店を知っていると思った。

有楽町駅から5分ほどでこんな穴場みたいな静かで落ち着いて空間があるとは思わなかった。

刺身定食をオーダーした。





彼は作家の村上春樹が通学した高校の同窓生で、村上春樹が高校時代まで過ごしたいわゆる「阪神間」育ちの一人だ。







ゆっくりと共通の友人の話や互いの近況などの話を交わした。




 
有楽町駅で降りるとつい電気ビルの前にあるクロシングの前にきてしまう。かってここを渡って船橋社中の皆さんと
外国人記者クラブのバーで年に2回ほど毎年楽しんだものだ。

有楽町のホームに上がってから思い立って新橋駅に行き

新橋駅の地下ホームから湘南総武快速線で帰った。

新橋駅の地下街に2月8日に開店したばかりの崎陽軒の販売店でシューマイを二家族分買って帰ったが孫たちに大喜びされた。




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2歳のガールフレンドから手渡されたチョコレート。

2019年02月15日 | 身辺あれこれ
チョコ素材にはこんな精密な加工が出来るんだと驚いた。渡してくれた本人も中身を見て驚いていたのが可笑しい。(笑)。
買ったのはママだから本人は渡してから初めてよく内容を見たらしい。一緒に楽しみながら食べましょう。
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日本には児童相談所の数がドイツの約4分の1しか無い

2019年02月15日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・これは僕が政府の会議でもらった資料ですが、日本は他の先進国のどこの国よりも、人口あたり児童相談所設置数が少ないことが分かります。

日本=60万人に1ヶ所
アメリカ=51万人に1ヶ所(日本の約1.2倍児相数が多い)
イギリス=37万人に1ヶ所(日本の約1.6倍児相数が多い)
ドイツ=16万人に1ヶ所(日本の3.75倍!児相数が多い)

 ということで、児相の職員が忙しいのは、児相の中の職員の数自体が少ないのもありますが、児相の数自体が少ないことで受け持ちエリアが多く、ケースが溢れている、という構図なのが分かります。


画像クリックで本文に飛びます。

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日本酒バージョンボンボンのバレンタインチョコをもらった。

2019年02月14日 | 身辺あれこれ

去年の今頃は引っ越し手続きのために神戸で役所や銀行に足を運び、引越し業者選定で見積もりを数社に頼み、50年来の家財の断捨離に悩み、
持っていけるわずかな荷物を段ボールに詰めるなど毎日が戦場だった。だからバレンタインのことなど頭のどこにも無かった。
 ボンボンの広島バージョンの方にはあいかたが好きな白牡丹も阿智胡地亭の好きな賀茂泉もあって驚いた。よくこんなシリーズに気が付いてくれました


コメント (2)
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下町の惨禍「若い世代にも読みやすく」 東京大空襲 21人の体験記 来月10日発刊 東京新聞

2019年02月14日 | SNS・既存メディアからの引用記事

74年前の3月10日 一夜にして東京の下町で米空軍の焼夷弾絨毯爆撃によって民間人10万人が焼き殺された。

以下総務省のホームページから引用。

江戸川区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 東京における最初の空襲は昭和17(1942)年4月18日であった。その後、しばらく小康状態が続いたが、昭和19(1944)年11月24日からB29による爆撃が始まり江戸川区も被害を受けた。江戸川区は昭和20(1945)年8月1日から2日にかけての最後の爆撃まで軽微なものも含めて二十回以上の空襲にあったが、その中で最も被害の大きかったのは、3月10日の空襲であった。

 空襲警報解除までの約2時間半の間に投下された焼夷弾は1,783tといわれ、東京の約4割が一夜にして焼失した。江戸川区内では小松川・平井地区一帯が壊滅的な被害を受け、焦土と化した(右写真)。当時、小松川・平井地区は区内第一の春日町商店街を有する、木造住宅密集地域であったため延焼による被害を大きく受けた。一方、葛西・瑞江・篠崎地区は農村地域であったため、空襲による火災の延焼は比較的拡大せずにすんだ。

 この空襲により、区役所も焼失したため、都立第七高等女学校(現在は都立小松川高等学校)で罹災者の救援業務を開始したが、他区の罹災者も扱ったため毎日、行列ができた。そのような中で、町会の果たした役割も大きく、罹災証明の発行、国民貯金の払出し手続き等、区民一丸となって、救援業務に取り組んだ。

<空襲後の小松川2丁目付近>

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2.市民生活の状況

 各戸全員が責任の分担を決め、防火活動への参加が定められた。児童は集団疎開を強いられ、家族と離れて暮らすことになった。

 下町のような木造家屋密集地域では、空襲、とりわけ焼夷弾に対しては落下後数秒以内に防火処置を講じなければ、現下の消防力だけでは火災の防止が困難であった。そこで、個々の家庭で防火の徹底を図るとともに、隣組防空群が組織され、バケツリレーや火たたき、あるいは油脂焼夷弾の処置等の訓練を受けた。さらに、もんぺ姿に防空頭巾をかぶり、防火用水に水を張り、火はたき、とび口等をそろえて実戦に臨む体制も整えた。そして、ひとたび空襲を受けた時には、戦火を最小限に食い止めようと必死の活動が続けられた。しかし、3月10日のような大空襲ではとうてい力が及ぶべくもなく、甚大な被害がもたらされた。

 戦争が激しさを増すにつれ、児童を戦禍から守り教育を続けるために集団疎開が国策として実施された。江戸川区での疎開先は山形県と決定され、昭和19(1944)年8月から9月下旬まで児童の輸送が行われた。第一次集団疎開児童数は5,118人(『江戸川区の学童疎開』)であり、8地区に分かれて生活することとなった。当時農村地域だった江戸川区は、食糧についてはさして事欠くこともなかったが、疎開先は温泉地が多く、食糧の生産力が乏しかった。児童を引率した元国民学校訓導は「食事は、三食ほとんどおかゆやおじやで、おかずは山菜か、たまに魚が食膳をにぎわす程度であった。篠崎は当時、野菜作りで有名なところだったから、野菜の少ないのには、いささか苦しんだ。」(『江戸川区の学童疎開』)と述べている。また、疎開を体験した児童は「スイカの皮、卵の殻、貝の殻、雑草まで食べさせられた」(『江戸川区史〔第2巻〕』)と当時の食糧難を語っている。

<防空訓練のようす>

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3.空襲等の状況

 死者約800名の犠牲を出した3月10日の大空襲。小松川・平井地区一帯が一夜で焼失し、大きな被害を受けた。

 空襲による最初の被害は、昭和19(1944)年11月24日午後2時15分であった。B29約80機が小編隊に分かれ、都内各所を爆撃し、区内でも死者1名を出した。その後、幾度となく空襲が続いたが、翌年の1月27日にB29が62機、五編隊に分かれて来襲し、爆弾・焼夷弾を投下した。この時、東篠崎町の化学工場で学徒動員として勤労作業中の小岩国民学校の児童多数が投下された爆弾により生埋めになるという惨事があった。

 2月から3月には空襲がますます激烈化し、3月9日から10日未明にかけては最も凄惨をきわめた。江戸川区内では、小松川・平井地区一帯が焼き尽くされ、死者約800名、負傷者約5,800名、全焼家屋約11,000戸、罹災者は約40,000名(『東京都戦災誌』)にのぼった。中川新橋から約100m上流付近での死者が最も多く、「中川新橋の下は死体で川の水が見えなかった」(職員の座談会『昔の江戸川区』)という。

 この3月10日の恐るべき悲劇の原因は、虚をついた深夜、人家スレスレにまで高度を落としての超低空からの無差別爆撃、風速20~30mにも及ぶ強風、下町特有の木造家屋密集地域であったことが相重なってもたらされたといえる。当日の風の強さを区民の一人が「橋を渡り始めたとたん5歩と歩かぬうちに倒されてしまう。いつもなら5分で行けるのに、その日は30分以上も費やした。」(『江戸川区史〔第3巻〕』)というように、想像を絶するものであった。空襲による最初の被害から終戦までの約8ヶ月間、江戸川区における被害総数は死者878名、負傷者5,955名、全焼家屋11,266戸、罹災者42,027名(『東京都戦災誌』)であった。

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平成31年2月初旬の梅だより=愛媛県西条市八堂山

2019年02月13日 | 新居浜便り
愛媛県新居浜市在住のIさんは毎年隣の西条市の八堂山に梅の咲き具合を見に行きます。今年も二月初旬に訪ねたそうです。
⇒西条の八堂山に梅の咲き具合を見に行きました。 すでに満開に近い状態でとても綺麗いでしたが例年より少し早いような気がしました。
菜の花と梅と高速道路(松山道)。



見事な白梅









石鎚山系からの地下水が西条市内の至る所で自噴水として湧き出て直接飲料しても問題のない品質です。
24時間自噴しているので誰でも利用出来る。
西条市は遥か昔から一度も渇水を経験した事がない羨ましいとても恵まれた市です。
全国地区水品質コンクールで連続1位も受賞しており安全性は折り紙付きです。

絶えずこの自噴水を求めて遠くから来られるようです。 炊飯、味噌汁。鍋物、コーヒーなどに使用しますが
やはりひと味違うと言います。

ペットボトルを持って近くの中学女子がやって来ました。

今日は瀬戸内海と島々うっすらとが見えました。目の下にも見えますが造船所の大型ブロック組み立て用の
ゴライアスクレーンを製造できるメーカーはいまや日本では私が勤務していた会社だけです。

京都の鴨川と西条の加茂川は呼び名はおなじですが、残念ながら知名度は大きく違いますね。
しかし、加茂川は立派な一級河川です。

八堂山からしまなみ海道がある今治市方向の風景。

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信州蕎麦漫遊  茅野の清流、増す甘みと食感 「献上寒晒し蕎麦」仕込み 信濃毎日新聞

2019年02月13日 | ゲストルーム
 

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茅野「献上寒晒し蕎麦」
茅野「献上寒晒し蕎麦」

伊那「寒ざらしそば」へ
伊那「寒ざらしそば」へ

松本 信州ひすいそば提供へ
松本 信州ひすいそば提供へ

佐久「そばのペペロンチーノ風」
佐久「そばのペペロンチーノ風」



2019/01/26 12:03
茅野「献上寒晒し蕎麦」

 茅野市内のそば店でつくる「八ケ岳蕎麦(そば)切りの会」は25日、厳寒期にソバの実を市内の清流に浸してつくる

「献上寒晒(かんざら)し蕎麦」の仕込み作業をした。江戸時代に高島藩が将軍家に献上した特産品で、甘みや食感が増すという。

会員ら5人が八ケ岳山麓を流れる冷たい水にソバの実を沈めた。

 会員らは、市内の畑で昨年栽培したソバの実約200キロを網状の袋に小分けし、川底に沈めた。約1週間浸した後、

屋外で1カ月ほど乾燥させる。そばは7月に同会の加盟店で提供する予定だ。

 仕込みは今年で5年目で、毎年首都圏から味わいに訪れる人もいるという。

会長の宮坂新一さん(51)は「ソバの出来はいい。地域の特産品を守っていきたい」と話していた。

写真説明:ソバの実を清流に浸す八ケ岳蕎麦切りの会の会員ら

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16日ぶりの晩酌

2019年02月12日 | ある日の肴/夕食
長い間咳とくしゃみが続き、その間、持って帰って孫に移したら大変だから、病原菌の集会所である病院には行くなとあいかたに言われ、
家で彼女の差配で漢方系の薬で時間をかけてゆっくり治してきた。ようやく咳も止まりお許しが出たので焼酎のお湯割りを飲んだ。
五臓六腑にじわっとアルコールがまわるのを感じた。神戸の労災病院には何度も入院したが、一回にこんなに長い入院はなかったから本当に長い長い禁酒期間だった(´;ω;`)
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ゴーストアップルとは?氷が混ざった冷たい雨で、幽霊みたいな“新種のりんご”ができちゃった

2019年02月12日 | びっくり画像・映像
2019年02月09日 ハフィントンポスト
氷が混ざった冷たい雨の影響で、アメリカで"新種"のりんごが誕生した。その名も「ゴーストアップル」。
まるで幽霊のようなりんごの正体は、いったい何なのか。CNNなどの現地メディアが2月8日、事のてんまつを報じている。
Wood-TVになどよると、「ゴーストアップル」が発見されたのは、アメリカのミシガン州の農園。アンドリュー・シエセマさんが2月6日、
雪に覆われたりんごの木の剪定をしていると、揺れた木から凍ったりんごや氷の塊が地面に落ちた。
その時、シエセマさんは、氷に覆われた謎の球体の底の部分から、どろっとしたものがすり落ちるのを目にした。
この球体が、「ゴーストアップル」だったのだ。
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四国愛媛県から雪の便り

2019年02月11日 | 新居浜便り
愛媛県新居浜市民のIさんからメールが来ました。
⇒ややこしい天候が続いています。 とくに北海道、東北、北陸地方の皆さんご苦労されていますが
南国育ちの私達にはとても想像できません。
瀬戸内海に面した伊予の国は山間部を除くとめったに大雪もないのですが、さすがに昨今の冷え込み
が厳しく自宅から約9キロメートル南に見えるの瓶ケ森、笹ヶ峰山系の一帯は珍しく雪景色になりました。



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江戸川区にも粉雪が舞いました。

2019年02月10日 | 身辺あれこれ
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新居浜住人Iさん結婚51年記念日。愛媛県伯方島の『光藤旅館』のディナーはハンパなかった!!

2019年02月10日 | 新居浜便り

新入社員の初職場になった新居浜で知り合ってから53年たった愛媛県新居浜市在住のIさんから「新居浜便り」が届きました。
⇒結婚満51年を迎えました。お互い空気みたいな存在だから特別な事もしないが日頃は相方の
支えでここまで来れた心からの感謝として毎年、旅行か食事程度を続けてきた。
今年の記念日は旨い魚を食べに伯方島の『光藤旅館』で夕食することに決めた。
この旅館は明治後期から現在まで続く老舗旅館で現在は三代目の女将さんです。
女将さんはいつも大変に気さくで誰からも好かれる親分肌でおおらかな人で何度かお世話になっている。
 (新居浜からしまなみ海道経由で伯方島まで約Ⅰ時間)
行くたびに感じるのはコスパがハンパなく、ホンマに儲かっとんかな~と心配するくらいです。
【吉井 勇】の記念の書が飾ってあります。

明治、大正、昭和にかけて活躍した歌人、脚本家で華族(伯爵)でもあった。 勇さんは実は西郷隆盛の友人で吉井友実
という薩摩人の孫にあたる人だったんです。
祇園をこよなく愛した歌人としても有名。 北原白秋、石川啄木、森鴎外とも親交があり歌謡曲【ゴンドラの歌】の作詞者で
もある。  (昭和35年に74歳で死去)
【光藤旅館】に昭和12年夏に3か月にわたり二階の全館を借り切って滞在し短歌文学全集の編集をしたことで一躍この旅館
が有名になった。 目の前に有津港(あろうづこう)があり伯方島の素朴な自然環境と部屋からの眺めがとてもお気に入りだった様です。

光藤旅館のすぐ前にある有津港(あろうづこう)、船便案内では「尾浦港」が正式だが有津地区にある
ことから、昔からその様に呼んでいる。
この周辺はスズキ、アコウ、マダイ、チヌ、メバル、カレイ、アジなどがよく釣れる評判のポイントだそうです。
吉井勇も舟遊びを大いに楽しんだと言う。

さて、夕食の最初はマグロ、鯛、はぎの三種の刺身。 とにかく新鮮で甘くて美味しい!! 

素朴な大根とこんにゃくのおでんですが味がしみこんでおいしい。

カンパチのタタキは初めて頂いたが鮮度抜群で甘い玉ねぎとのバランスが絶妙で最高!!

名物、大型の活車エビがピンピン跳ねている。(この島は車エビの養殖が盛んです)

活車エビの皮をむいで踊り食い。とにかく甘く口の中でも動くのでエネルギーが蓄えられる感じがする。

揚げたばかりの車エビの天ぷらはホカホカで理屈抜きにうまい! ! 美味しい!! 

次々と出てくるので嬉しいやら、せからしいやら!? 兎にも角にも幸せ感で一杯!!
とても旨いので思わずノンアルコールビールをお願いした。

皿からはみ出す大型の大好きな黒めばるの煮つけ! しかも一人に2匹とは! もうたまりません。 
身が割れて一目で新鮮さが分かる。文句なくウマイ!!   これだけで大満足、まさに至福の時。

次は車エビの塩焼き。 これもまた香ばしくてアツアツですが頭までバリバリと頂いた。


もうお腹はすでに満杯.....ですが、そこへ美味しそうな瀬戸内のワタリガニがきました。これは無理してでも食べなアカンやろ~と
脳神経が反応するんですね。ヤバイ!

相方はメスで小生はオス。 卵のあるメスが美味しいと思いきや、実はこの時期はオスの方が美味しいとの事。 
ハサミで細かく仕分けたので今からひたすら無言で食うぞー。

さらにホタテのバター焼きが.....もう参りましたと思いながらパクリと頂く。ウマイ!



最後のトドメはホタテの炊き込みご飯が.....助けて!。 しかも一升炊いたので残った全部持って帰りな
さいと言われさすがにもう言葉がでませんでした。
1パックだけ頂きますと言うと、あなたのために炊いたので全部持って帰りなさいと、どうしても許しが出ず
恐縮しながら5パックに全部詰め込んだ。 

そして新鮮なアサリの澄まし汁が.....とても美味しい! 我ながらビックリするほど食べ過ぎて一瞬、からだ大丈夫かいなと
感じたほどです。

【のぞみ】という新種の甘くて大きいみかん6個と食べ切れなかった塩焼きや天ぷらと炊き込みご飯5パック
と大変な土産を頂き帰路につきました。
いかに結婚記念日とはいえ2人で大1枚ポッキリしかとってくれなくて唖然とした。
女将さんには丁重にお礼申し上げたがニコニコされて送り出してくれた。本当に参りました!!
ご近所の皆さんにもおすそ分けしたがホタテの煮込みが珍しく冷えても美味しいと大好評でした。
また、時期をみて仲間と光藤に出かけたいと考えている今日この頃で~す。

阿智胡地亭さんも近くにおれば時々は家族で楽しめるのに残念ですね。機会を見つけて一度是非訪ねて下さい。
関西在住の阿智胡地亭ブログファンの方もどうぞご贔屓に!


弓道部のO先輩から 光藤旅館に泊りがけで行った体験者のブログを教えて頂きました。これを見てO先輩はますます光藤旅館に行く気になったそうです。
【伯方島】光藤旅館は晩御飯の量が驚き!コスパ抜群だが施設は民宿なみ - 石ログ
(click)
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日本画家 堀文子さんが亡くなった。享年100歳。

2019年02月09日 | 音楽・絵画・映画・文芸

堀文子さん 日本画家 ひとりで生きる

写真

 素朴で柔らかな色彩の花鳥画のほか絵本でも親しまれた日本画家の堀文子(ほりふみこ)さんが、五日、心不全のため死去した。百歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開く。

 女子美術専門学校(現女子美術大)を卒業し、日本画の道へ。新制作協会会員を経て、創画会の結成に参加した。「山と池」で一九五二年に上村松園(うえむらしょうえん)賞。制作の傍ら、絵本や装丁を数多く手掛けた。七二年にはイタリア・ボローニャの国際絵本原画展で絵本「くるみわりにんぎょう」がグラフィック賞を受賞した。

 七十歳間近でイタリアにアトリエを構える一方、メキシコの遺跡やヒマラヤ山麓などを精力的に旅した。晩年まで制作し、全国各地で個展を続けた。二〇一四年には、福島空港のターミナルに陶板のレリーフ「ユートピア」が完成した。(東京新聞 2019年2月8日 朝刊)

◎大磯の堀文子さんのお宅の前まで磯のスーさんに案内されて船橋社中の社主ご夫妻や故ムムリクさんと行ったことがある。
閑静な環境の中の大きなお屋敷だったと記憶する。ムムリクさんは堀文子さんが在学した女子美の後輩にあたる。
個人的には「生きて死ぬ智慧」の堀文子さんの挿絵画がずっと頭に残っている。
 
 
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明石市魚住にある茨木酒造の新酒試飲会に参加しました。  アルバム編  2012年2月28日掲載

2019年02月09日 | 食べる飲む

明石市魚住の茨木酒造で新酒試飲会

会を主催されている東興海運㈱の幹事役、浜崎さんご夫妻、松田さん、松井さんお世話になりました。
十分楽しませて頂きました。ありがとうございました。

スタートアイコンをクリックするか矢印をクリックするとスタートします。

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