阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「いつも飛んでるわけじゃないんだ…」海上に浮かぶアホウドリの群れ(動画)

2023年09月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

A Sea Of Albatross || ViralHog

海で見かけるアホウドリって、だいたい空を飛んでいるイメージが強いと思うのですが、海面に浮かんで休んでいるときだってあります。

それも群れ単位で。

海面を埋め尽くすアホウドリ、アホウドリ、アホウドリ。

波間の気流を捉えて、全く羽ばたかずに数千kmを飛行することが可能と言われるアホウドリですが、こんな風に海上に浮かんでいることもあるのですね。

漁船の近くでエサを狙っているとの意見もありました。引用元。

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09月18日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月19日(金)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月19日 | 東日本大震災ブログ
011年08月19日(金)
 
8/17福島県の子どもの声を政府に届けよう!院内集会
 

福島の子どもたちを代表して4人の小中学生が原子力保安院、文科省に意見を述べた。

Video streaming by Ustream
島の小中学生4人が上京し、県内で辛い生活を強いられている自分たちの生活について綴った手紙を、内閣府原子力災害対策本部と文部科学省の担当者に手渡し、

「どうしてこんな思いをしなくてはいけないのか」と訴えた。  主催したのは、子どもたちを放射能から守る福島ネットワークなど4団体。

原発事故の一番の被害者である福島の子どもたちの声を永田町に届けようと企画したもので、会場の衆院議員会館には、首都圏だけでなく、

京都や山口県などからも詰めかけ、子どもたちの声に耳を傾けた。  中学2年生の橋本伽耶さんは、「わたしは6月に転校をしてとても悲しい思いをしました。

友達も泣いて別れを惜しんでくれました。こんなふうにバラバラになっていくのは、わたしたちにとって耐え難く悲しいことです。

出て行った人も残った人もお互いのことが心配でたまりません。ですから、わたしたちが学校の友だちとみんなで安全な場所に避難できるよう、真剣に考えてください。

そして、わたしたちが避難している間に、森も山も川も田畑も、福島県全域を徹底的にきれいにする計画を立てて、実行してください。

わたしたちが将来安心して暮らせるよう、最大限の努力をしてください」と訴え、避難範囲を見直し、学校ごと集団疎開できるよう訴えた。 

子どもたちのストレートな問いに対し、政府の担当者は、「除染が期待されていると思うので頑張ります」と回答。子どもたちの悲しい思いはそういうことではない。

疎開についてはどう思うのかと指摘されると、マイクをたらい回しにし、10人出席した政府関係者は誰ひとり、きちんとした回答をしなかった。引用元はこちら

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東日本大震災・原発 / 今日の気になるネット情報 |
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今日読んだネット記事 8月19日版 その1
 
〇報道被害を受けた病院・医師の名誉回復の処方箋   こちら

〇掘って埋める、その前に (児玉教授の実活動の一環も報告されている)  こちら

〇アメリカ経済の現在位置  こちら

〇 神戸市民1人当たり借金66万2000円!  こちら
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今日読んだネット記事 8月19日版 その2
 
〇中国高速鉄道事故と福島第一原発事故に共通するもの(2)  こちら

〇原発がなくても電力は不足しない(外国と日本の情報格差)  こちら

〇健康や命より国が優先したもの 小出裕章(そもそも総研)  こちら

〇ヤマトは我なり  こちら
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同じ役所の中に規制側と推進側があっても問題ない。
 

保安院院長 歴代5人、エネ庁在籍
2011年8月19日 11時24分 東京新聞

電力会社にシンポジウムでの「やらせ」を頼むなど、原発の規制機関としてのあり方が問われている経済産業省原子力安全・保安院で、現職を含む歴代六人の院長の五人までが、

原発推進側の同省資源エネルギー庁に在籍経験があることが分かった。保安院は環境省の下に新設する「原子力安全庁」に統合される方向だが、

規制機関として独立性を保つには、人事面でも推進側の影響力を排除することがカギとなる。

 経産省の人事記録によると、十二日に就任した深野弘行院長は一九七九年に旧通産省に入省。エネ庁の課長を経て二〇〇〇年七月に保安院設立を担当する大臣官房参事官、

続いて〇一年一月の同院発足時に原子力などの安全政策を立案する企画調整課長になった。

 二年半後にはエネ庁に戻り原子力を含むエネルギー政策にかかわる総合政策課長となるなど推進側と規制側を行き来。

〇八年から一年間は保安院次長を務め、院長の前は保安院の原子力災害特別対策監と本省の商務流通審議官を兼務していた。

 寺坂信昭前院長も原子力発電部門を抱えるエネ庁電力・ガス事業部長を経験した。経産省の松永和夫前次官はエネ庁で石油部長や資源・燃料部長を歴任後、

いきなり保安院ナンバー2の次長になった。保安院長は深野氏で六代目だが、エネ庁在籍歴がないのは旧科学技術庁(現文部科学省)出身の一人だけだった。

 規制側と推進側の人事交流は保安院の独立性を損なうと批判されてきた。深野氏は十八日の就任会見で「私の経験から申し上げて、

同じ役所の中に規制側と推進側があることにより、安全規制をゆがめたことはなかったと思う」と、問題ないとの認識を示した。

 <原子力安全・保安院と資源エネルギー庁> 保安院は原発などエネルギー関連の安全規制を担う経産省の外局。資源エネルギー庁は、

エネルギーの安定的で効率的な供給を担い原発を推進する同省の外局。保安院は2001年の省庁再編で、旧通商産業省本省が担っていた原発の設置許可などの従来業務と、

旧科学技術庁の原子力安全行政の一部を統合して発足した。

(東京新聞)

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原子力村は国家の中のもう一つの国。
 

原子力発電に関するあらゆる業務に従事して、電気料金や国税から大きな年収を得ている人たちがいる。そのグループメンバーが住み着いている楼閣を総称して“原子力村”という。

日本国におけるそのメンバーは:

①・原子力行政を推進してきた経済産業省と傘下の原子力関連部局の公務員さんたち

・放射能取扱いを束ねてきた文部科学省の公務員さんたち

・原発差止め裁判を担ってきた最高裁以下の裁判所の公務員さんたち

・原発定期点検現場の作業員の労働条件を監督してきた厚生労働省の公務員さんたち

②電力会社と、原子力機器・建設で発注を受けるゼネコン、メーカーなど大手企業とその役員、社員、労働組合員たち。そしてその下に連なる膨大な数の下請け企業群。

③原子力発電技術と安全性を研究し、原子力技術者を育成する大学の教授や研究者たち(学術専門家と呼ばれる権威者?の方々)

④原子力発電所をわが選挙区に誘致する国会議員、市町村議員さんたち。彼らはまた電力会社の役員や組合から毎年、大きな政治献金を得ている。

⑤原子力発電の必要性、安全神話を国民に伝える新聞・テレビの役員、社員、労働組合員たち。その紙面に寄稿する評論家やテレビに出るコメンテーターたち。

こうしてメンバーを羅列してみると日本で最強の旦那衆軍団ということが自ずと浮かび上がってくる

 国民の誰もが電気を使用する限り、目下のところ、自分が住んでいる土地の電力会社と契約するしか選択の余地はない。

 自分は民間企業が自由に競争する資本主義国家日本のくにたみだ、と思っていたが、うっかりしている間に、社会主義国家のような独占企業体である電力会社を作る法律が出来ていた。

 この国家の中のもう一つの国家である原子力村がそう簡単に存在を縮小したり、ましてや姿を消すようなことにはならない、と見ていた方がいい。

ネット上には旦那衆に都合の悪い情報が相当数掲載され、多くの無名の一般人がそれらを知ることが出来るようになってはいるが、フツーの世間の人は宅配新聞とテレビから世間を見ている。

例えば読売新聞の最新の販売部数は(こちら)9,937,994部、朝日新聞は7,955,595部(こちら)。

(この数字は自己申告の数字なので押し紙分が相当部数入っていると見ないといけない。「押し紙」についてはこちら。)

これまで国家の中の国家である原子力村は、マスメデイアを使って大本営発表をやってきた。この方法はまだまだ有効で彼らは活用し続ける。

マスメデイアの活用の一例として、参考記事を紹介します。

参考ネット記事;

『「大本営発表」を続けるマスメディアの大罪』こちら

「市民の政治参加を望まないマスメデイア」こちら

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日本のもう一つの大きな村、「リニア中央新幹線村」

☆原子力村は経済産業省が仕切っているが、国土交通省が作ってきた村もある。

原子力村と同じような「政官産学マスコミの五つの旦那衆」による強力ペンタゴンの共同体だ。

東京名古屋の新幹線利用客はここ5年ほど毎年減少している。

リニア新幹線が起案されたころは、日本の経済は上り坂一方で、新幹線の客はどの車輛も満員に近く、需要予測をすると輸送能力不足が見込まれた。予測をしたのは30年以上前の話だ。

着工から完成まで15年かかるのは、東京から名古屋まで地中深くトンネルを掘り続けるためだ。その間毎年土木業者には安定したトンネル掘削の仕事が保証される。

 さて、リニア新幹線の超速度は電気を使ってあの車体を磁力で浮かせ、電気で推力を与えることで実現する。一編成の電力消費量は膨大なものになるという。☆

一部引用・・

リニア中央新幹線は東海道新幹線の3倍といわれるエネルギーを必要とする。電力消費を抑制しようと、必死に節電に努めているこの日本で、

時速500キロで走行時の超電導リニアの想定消費電力は、1列車で約3・5万キロワットにもなるという。この新幹線が必要とするのは、原発数基分に匹敵するエネルギー量になる。

JR東海は自前の発電施設を持たないので、当然のことながらこの電力は、新潟県の柏崎刈羽原発や、静岡県の浜岡原発から送ることを目論んで進められてきたのである。

今や廃炉が決定的となった浜岡原発の復活論をバックアップするために、福島第一原発メルトダウン事故の直後にリニアのプロジェクトをぶちあげたのであれば、いっそう許し難いことである。
 
・・中略・・

 原発の新設・増設を前提に進められてきたという意味で、リニア中央新幹線は、深夜の原発電力で充電する電気自動車と同じ失敗の証明である。

こんな巨大な電力を浪費するプロジェクトを立ち上げるその無神経さにあきれる。

 この答申案に対して、国交省鉄道局が「パブリックコメント」、つまり意見を公募した結果が5月12日に報告されたが、リニア賛成16に対して、反対648となり、

こんなものはまったく不要であると、97%の圧倒的な国民がその建設に反対している。

 リニア関連予算があるというなら、それを今年度より即刻凍結し、その大金を東日本大震災の復興資金にあてるべきだ。福島第一原発の不幸な事故によって

、電気自動車とリニア中央新幹線の未来が閉じられたことを、メーカーと関係者は早く認識する必要がある。

全文はこちら

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セロリ栽培 日本初めて 物語        茶話 6

2023年09月18日 | エッセイ

戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は殆ど知られていませんでした。

☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として数多く駐留しました。

 

昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています??

(2003.7.14記)

 占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。

しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は調達出来ませんでした。

 

なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。

 戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の有効活用をしていたのです。

 止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて野菜を作らせるようにしました。

 

米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、

それまで日本ではあまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。

   その一つにセロリがありました。

当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、

カラッとして湿度が低い土地に良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。

 長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。

 

色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と

米軍検査部門の厳密な検査にパスし関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。

日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。

 

☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の茅野市玉川へ四日市から遊びに行って、始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、

あの独特の匂いが漢方薬の匂いのようだと思いました。

 

 その後長い間セロリは四日市の家の近くの八百屋では見かけませんでした。

そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降マーケットにも少しづつ出回るようになり、

今ではどこのスーパーでも売られている野菜になりました。

 

 茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や、

漬物にも使われてよく食べられています。洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。

 

 諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、

セロリは東京という大消費地へ出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。

恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップclickだろうとおもいます。

 

*以上の話は 最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長をしていた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、

今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞いて構成。

 

 ♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」というアメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、

紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、あれはなんだろうと長年思っていたのですが、

あるとき「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。

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Before the war, the vegetable celery (Japanese name: Holland mitsuba) was almost unknown in Japan.

After Japan lost the Pacific War, many U.S. troops (including British and Australian troops) were stationed in various parts of Japan as occupying forces.

 

It has been 58 years since the first year of occupation in 1945, and they are still stationed in Japan as allied forces even though their names have been changed.

(2003. 7. 14 note)

 General MacArthur, the head of the occupation forces, and other U.S. generals ate fresh vegetables in salads on a regular basis, so it was necessary to procure the ingredients for them every single day.

However, although fresh vegetables were available in Japan, it was impossible to procure vegetables that could be eaten raw.

 

This is because, at that time, most vegetable farmers in Japan were found to be using a lot of traditional recycled golden fertilizers (or human feces fertilizers), which have been used since the ancient times of the Japanese archipelago.

 In prewar Japan, as is the case with the Chinese and Taiwanese people of today, it was not customary for most households to eat vegetables raw, and the Japanese had always made effective use of resources at a low cost.

 The Occupation Procurement Office ordered the Japanese government to produce vegetables in a clean environment using only chemical fertilizers.

 

Among the vegetables grown at the U.S. Military Procurement Department's "Vegetable Cord" were potatoes, carrots, cabbage, and onions, among others, which were their favorite foods,

Among the vegetables grown in the "Vegetable Growing Cord" were potatoes, carrots, cabbage, onions, and other vegetables that had never been cultivated in Japan before.

   One of them was celery.

The Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries at that time investigated the climatic conditions of the land where celery was grown in the U.S., and found that cold regions were suitable, with a large temperature difference between morning and evening, and during the day,

The Ministry of Agriculture, Forestry, and Fisheries conducted trials in Hokkaido and Nagano Prefectures, finding that celery grows best in cold climates with a large temperature difference between morning and evening and low humidity.

 In Nagano Prefecture, celery was cultivated in the highlands at the foot of Mt. Yatsugatake, mainly in present-day Chino City and Hara Village, now known as Pension Village.

 

After much trial and error, it became possible to produce celery of the same quality as that grown in the U.S.A. The seedlings were grown, grown, taken in, cleaned, packaged, and transported to the U.S.A. for strict inspection by the U.S. military inspection department.

After passing strict inspections by the U.S. military inspection department, the celery was shipped to the U.S. military garrison in the Kanto and Chukyo areas. The shipping boxes were labeled "clean vegetables" for the purpose of shipping.

The vegetables that were sold at ordinary Japanese grocery stores (this was more than 10 years before supermarkets appeared in Japan) and that our parents and we ate every day were not clean for them.

 

When I went to my mother's hometown, Tamagawa, Chino City at the foot of Mt. Yatsugatake during summer vacation in junior high school from Yokkaichi and met celery for the first time, I went into the earthen floor where celery was piled up,

When I entered the earthen floor where celery was piled up, I thought its distinctive smell was like the smell of Chinese herbal medicine.

 

 For a long time after that, celery was not seen in the grocery stores near my house in Yokkaichi.

Then, as time went by, celery gradually became known to people, and even in the Kansai region, after the Expo, it began to appear in markets little by little,

Nowadays, celery is a vegetable sold in every supermarket.

 

 My cousin on my mother's side in Chino has been a celery farmer for decades, and celery is also a very common and popular vegetable in the Suwa area,

In the Suwa area, celery is a very common and popular vegetable used in miso soup and as a pickle. Celery is often washed, dipped in mayonnaise, and eaten as is, and pickled celery is one of my favorite dishes.

 

 The Suwa-Chino area is a cold region that also produces agar and frozen tofu (koya-dofu), so the yield per unit of rice is not good,

However, celery has long been cultivated in Suwa as an advantageous suburban vegetable in the summer season that can be shipped to Tokyo, a major consumption center.

Nagano Prefecture is probably still the top clic in Japan in terms of celery shipments.

 

The above story is about my uncle, who was involved in the first introduction of lettuce cultivation in Japan together with my mother's brother, who was the head of one of the agricultural cooperatives that was first asked by the Ministry of Agriculture and Forestry to conduct experimental cultivation,

I heard the first half of this story from my cousin, who still grows lettuce full-time, and composed it.

 

 Â By the way, there is an American family cartoon called "Blondie" that was serialized in the Asahi Shimbun newspaper in the late 1945s, in which the husband, Dagwood, eats his lunch at work,

In the scene where the husband, Dagwood, is eating his lunch at work, there is often a scene where he pulls out a long, white thing from a paper bag, separate from the bread, and covers it with it, and I had wondered what that was for many years,

One day it occurred to me that it might be celery, but what do you think?

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

 

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【木原氏退任でも「露木警察庁長官発言」は絶対に看過できない岸田内閣の重大問題!】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#271

2023年09月18日 | SNS・既存メディアからの引用記事

【木原氏退任でも「露木警察庁長官発言」は絶対に看過できない岸田内閣の重大問題!】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#271

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09月17日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月18日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月18日(木)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月18日 | 東日本大震災ブログ
2011年08月18日(木)
 
児玉龍彦さん最新インタビュー
 

児玉龍彦・東大教授に聞く

国土への思いが、子どもと妊婦を守る思想の原点

東京大学先端科学技術研究センター教授/アイソトープ総合センター長。 1953年東京都生まれ。筑波大学附属駒場中学・高等学校を卒業後、

東京大学医学部に入学。77年同校卒業後、東京大学医学部附属病院医師、85年マサチューセッツ工科大学研究員、96年東大先端科学技術研究センター教授(現任)

前文引用・・

「私は、満身の怒りを表明します!」――7月27日、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授は、衆議院厚生労働委員会の参考人として、現在の放射線対策を痛烈に批判した。

 福島原発の事故で放出される放射線の総量は、広島に投下された原子爆弾と比較して、「熱量で29・6個分、ウラン換算でも20個分」に当たるという、

衝撃的な推定値を明らかにし、除染作業と食品汚染検査の徹底を提言した。

 時間にしてわずか15分程度。だが、その発言はインターネット上で急速に広がり、大きな話題となった。

遺伝子解析による創薬研究で世界的に知られる科学者が募らせる、危機感と焦燥――臨床医らしく普段は穏やかな児玉教授の熱い行動の原点には、何があるのだろうか。

本文はこちら

2011年8月18日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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アメリカから見た福島原発事故 NHK動画①

20110814 アメリカから見た福島原発事故1 投稿者 PMG5


3・11の東日本大震災による福島第一原発事故に対して、これほどまでに、安全神話の嘘に切り込んだ番組は見たことがない。

メディア報道がいかに御用化しているかが、よくわかる反面教師の番組だった。

最初に米国・GEによってつくられたマーク1型の危険性をGEの主任技術者が問題点を告発したが、GEにも電力会社にも無視された経緯が興味深い。

67年に稼働した福島第一原発一号機もこの危険なマーク1型の原子炉で、国内にまだ10基設置されているという。

しかも、福島原発では自家発電機を一機増設したものの、電力会社の都合で地下に設置され、通産省(現経産省)も正式に認可を与えたのだ。

筆者がしつこく批判している、政治家、官僚、企業、学者、メディアが総がかりで「原発利益共同体」を維持・促進してきた構図がわかりやすく解き明かされていた。

この番組でも指摘されていたが、格納容器を守るために高濃度放射線交じりの水蒸気をベントで放出するというヤリクチも、

自ら放射線漏洩の危険性を前提にしているという事ではないか。NHKも「アメリカが見た」とタイトル付することで、

逃げを打ちつつ原発タブーに切り込んだ番組がつくれたのだろう。引用先 こちら

 
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アメリカから見た福島原発事故②
 
 
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現地原発交付金を4月13日に増額
 

交付金で原発後押し レベル7翌日 「新設は増額」
2011年8月17日 07時01分 東京新聞


 原子力関係予算を握る経済産業省と文部科学省が福島第一原発事故の一カ月後、原発の立地自治体などに交付金を支給する規則を全面改正し、

新増設時の交付額を増やす一方、既設の原発では発電実績に応じて交付額を決める方式に変更していたことが分かった。事故収束に向けた見通しが立たず、

原因究明もままならない時期に、新増設や運転を後押しする改正をしていたことになる。

 改正したのは「電源立地地域対策交付金」の交付規則。四月十三日に改正され、海江田万里経産相と高木義明文科相の連名で、同日付の官報に告示した。

経産省原子力安全・保安院が福島第一原発事故の国際評価尺度を、旧ソ連チェルノブイリ原発事故と同じレベル7に引き上げた翌日のことだった。

 改正規則では、原発を新設したり増設したりする際の交付金の単価を増額。発電能力(出力)百三十五万キロワットの原発を新設する場合だと、

運転開始までの十年間に立地自治体へ支給する額は、四百四十九億円から四百八十一億円に三十二億円上積みした。

 一方、既設の原発では、発電実績を重視する仕組みに変わった。

 立地外の都道府県に電力を供給した際に交付する「電力移出県等交付金相当部分」は、たとえ発電量がゼロでも、原発の規模に応じた交付金が支払われてきた。

二年間の経過措置はあるものの、今後は発電量だけが基準になる。

 運転開始の翌年から運転終了まで長期間にわたり支給する「長期発展対策交付金相当部分」や、使用済み核燃料再処理工場などの地元に交付する

「核燃料サイクル施設交付金相当部分」も、発電量や稼働実績を重視して交付する。

 新増設に反対する市民団体からは実績主義への変更によって運転を停止すると交付金が減るため、地元自治体が停止を求めにくくなると指摘が出ている。

 資源エネルギー庁は今回の規則改正を記者発表せず、官報に告示しただけだった。説明用の冊子も二〇〇四年二月に規則を制定した際には、

表紙に「大改正後の新たな交付金制度」と記し、「新たに地域活性化事業が交付対象事業に追加」などと、これまでの制度との違いが分かるようになっていた。

だが、今回は新制度の内容しかなく、どこを変更したのか前の冊子と比べないと分からない。

 同庁電源地域整備室は「昨年六月にエネルギー基本計画が閣議決定され、これに基づき改正したが、地元からの要望もあった」と説明。

官報の告示時期には「特段大きな意味はない」としている。

<エネルギー基本計画> 2002年に制定されたエネルギー政策基本法に基づき、エネルギーの需給に関する長期的、総合的な施策を進めるために政府が策定する。

昨年6月に菅直人内閣が閣議決定した基本計画では、原子力について「安全の確保を大前提として、国民の理解と信頼を得つつ、

新増設の推進、設備利用率の向上」などを図るとしている。30年までに14基以上の新増設を行う目標を掲げている。

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昨日読んだネット記事 8月18日版 その1
 
〇漁師仲間の飲食・タクシー代まで原発持ち
原発で波高まる津軽海峡夏景色(下)  こちら

〇曖昧な科学で遅れた放射線「ホットスポット」
飯舘村の避難区域指定  こちら

〇被災者を救う。明らかになる口腔ケアの重要性と
被災地への支援の現状  こちら
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昨日読んだネット記事 8月18日版 その2
 
〇「大本営発表」を続けるマスメディアの大罪  こちら

〇「東電に賠償させる方法教えます」 弁護士が説明会  こちら

〇同調圧力と思考停止  こちら
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敗戦時に日本兵は789万人いた

「さくら丸に乗って帰ろうじゃありませんか」
―日本軍兵士の視線で見たアジア・太平洋戦争―

一部引用・・

《30年前の二つの文章》

本書中で私の心に残った二つの文章を掲げる。どうぞ静かに丁寧に読んで頂きたい。

▼〝専門家は間違ったことをいうはずはない〟と思うのが、日本人の通弊である。

しかし、優秀な専門家の集団であった大日本帝国の大本営が、いかに多くのあやまりをおかしたかを貴重な教訓とするならば、

〝専門家〟の言葉は〝健全な常識〟で、その適否を判定しなければならない。

/帝国大本営の「計画」は、〝画餅〟の類であり、願望の表明か決心の宣示でもあって、事柄の実行可能性については、全く無関心であった、ということである。

この旧日本軍人の意識が、今日の自衛隊の幕僚の意識である。

▼今日やっと念願がかなって、皆様の眠っているこの海面にやって参りました。どんなにつらかったことでしょう、

どんなに冷たかった事でしょう、どんなに待ち遠しかった事でしょう。三十五年間もお迎えに参らず、ほんとうにすみません。

お許し下さい。/どうぞ私たちの肩に、そしてさくら丸に乗って帰ろうじゃありませんか。終わりにテープを海に投げますのでこのテープに伝わって帰りましょう

一億二千万人の待っている日本に帰りましょう。

初めのものは内務省出身の防衛官僚で、自衛隊制服組と激しく対立しながら、戦後の防衛政策に大きな影響力を及ぼした人物の文章の一節である。

(海原治著『日本防衛体制の内幕』、時事通信社、1977年)


その次の一節は船上で読み上げられた「慰霊のことば」である。

「沖縄 台湾 フィリピン海域洋上慰霊団」は客船「さくら丸」を1980年にチャーターして「洋上慰霊祭」をした。

その団長で元海軍軍人の渡辺守という人の言葉の一部である。

《内省のための一書として》

8月15日はメディアが戦争を回顧する日ではない。一人ひとりが戦争を考える日である。本書は、その考えに同感する読者に薦めたい著作である。

■吉田裕著『兵士たちの戦後史 戦争の経験を問う』、岩波書店、2011年7月刊、2800円+税

全文はこちら

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取材記者がホールボディー検査を受けた。
 

週刊朝日記者が体験、体内から「まさかの」セシウム
これがホールボディー検査だ!
 週刊朝日2011年8月5日号配信

一部引用・・

 検査を受ける側はその間、ただじっとしているだけ。ぼんやりと待ちながら、これまでの取材で出会った人たちは今、どうしてるだろうかと考えているうちに、

つい眠くなってしまった。後で聞くと、モニターに映し出されたうつろな顔は、不安におびえているように見えたらしい。

 待つこと30分。重たい扉がようやく開いた。細井教授の一言で、眠気が一気に吹き飛んだ。

「セシウムが入ってましたね」

 えっ、検出されないはずじゃ......。

 これまで放射能の怖さについて見聞きし、また自分でもそうした記事を書いていながら、どこかひとごとだったと思い知らされた。

パソコン上に表示された、放射性物質が放出するγ線のエネルギーに従って体内汚染の量を示す棒グラフを示しながら、細井教授が淡々と言う。

「これがセシウム137、こっちが134です。きれいにピークが出てるでしょう? もうひとつのピークは、人間の体内にもともとあるカリウム40ですね。

ヨウ素131は検出されていないので、ピークが見られません」

全文はこちら

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このところの昼ごはんは「ざるそば」や「シラス丼」「カレーうどん」など

2023年09月17日 | ある日のランチ

 

カレーうどん

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小さな女の子「ダメなんだからね!」叱られてタジタジになる犬(動画)

2023年09月17日 | びっくり画像・映像

Dog Gets Scolded For His Crimes || ViralHog

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09月16日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月17日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月17日(水)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月17日 | 東日本大震災ブログ
2011年08月17日(水)
 
100キロ離れた会津若松でセシウム検出
 

原発100キロで18万ベクレル 高濃度のセシウム検出
2011年8月17日 00時01分 中日新聞

 福島地裁会津若松支部(福島県会津若松市)の敷地内にある側溝の一部で採取された汚泥から、

1キログラム当たり約18万6千ベクレルの放射性セシウムが検出されたことが16日、分かった。福島地裁(福島市)が明らかにした。

支部は東京電力福島第1原発から西に約100キロ。今後、県や会津若松市の指導を受け除去する方針。

 雨水などが流れ込む場所には土壌などに降り積もった放射性物質がたまりやすく、汚泥から高濃度のセシウムが検出されるケースが相次いでいる。

新潟県柏崎市と刈羽村のガソリンスタンド洗車場の汚泥からは、最大で同9万ベクレルが検出された。

(共同)

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終戦の日にあったこと。   ゲストルームから
 

☆東京にもう長く住んでおられる方からこんな便りをいただきました。☆

 私は終戦記念日が誕生日、いつものように(あの戦後の空腹を思い出すために)芋粥の朝食にしました。

残暑というか猛暑というか、室内で34℃ですから、ひたすら堪え忍ぶ毎日です。

 その日の買い物の帰りに偶然にタイムスリップしたような出来事に出会いました。

 近くの通りで信号待ちをしている時にお婆さんから声を掛けられました。地図を片手に目的地までの道を尋ねられたのですが、

その地図がこの近隣のものですが番号が数箇所振ってあります。
 
 尋ねると戦争の跡の残っている場所の案内図で、終戦記念日に訪ね歩いているとのことです。「失礼ですがお幾つですか」と伺うと、

 「82歳です。荻窪で育ったのですが終戦の時は学徒動員で立川で飛行機の組み立てをしていました。

出陣を見送るなかに飛び立てない機体もあって搭乗員が泣き崩れるのをみた辛い思い出があります。

 金槌を持ったこともない娘が組み立てる飛行機ですからね。そんな指令を出した人達と死んでいった人達、この日は私には落ち着かない日です」と

道案内の途中で話してくれました。

小柄で目立たない立居の人でしたが、背すじがしゃんとしていて、「忘れない」ことに女性の強さを感じました。

☆お返事を書きました。☆

おはようございます。

その方はお歳からすると昭和4年生まれで終戦時は16歳ですね。

 田辺聖子さんなど、この世代の都会の女性は結婚相手の男性が少なく、当時の言い方の“職業婦人”として世を送ることになった人が結構いる年齢層ですね。

  82歳にして終戦の日に戦争の跡を訪ね歩く・・。

へんな言い方ですが筋金入りのフィールド知識人ですね。

いろんな本を読むと、関東大震災で東京の江戸の痕跡がずいぶん失われたが、米軍の焼夷弾絨毯爆撃で江戸と江戸人はこの世から消滅したようです。

終戦記念日に、その日が誕生日の人が東京の街で凛とした「江戸の刀自」に声をかけられ、そんな会話を交わすなんて、一篇の掌編小説を読んだ気になりました。

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人類は世界のどの場所でどのくらい核爆発をさせたか
 

1945年7月にアメリカ・ニューメキシコ州で世界初の核爆発実験が行なわれ、翌月、広島と長崎に原爆が投下されました。

その後、1998年までの間に、実に2053回もの核爆発が起きています。 数字の羅列だけではピンとこないかもしれません、直感的にわかるように映像化したものがありました。

一部引用・・ 1945年~1998年の核実験が行なわれた事実を世界地図上に視覚化したものです。

ピッピッピッと時を刻む音と、乾いた爆破音で各国が行なった実験の事実を恐怖とともに再現します。

1945年の米トリニティサイトでの世界初の原爆実験から1998年の最後の臨界核実 験までの2053回に及ぶ全ての核爆発を、1か月を1秒に短縮して、

「光の点滅と実験 回数を示す数字だけで、いつ・どこで・どの国が何回、核実験を行ったかを、目と耳で知 る」ことができる。

上段が右から英・仏・露・米、そして月と年代。 下段が同じく印・中、そして爆発数という構成。 下段には、後にパキスタンが加わるが、

イスラエルは公式には未確認のため本作品には登 場しなかった。◆尚、これは、包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)が制作した資料でなく、

芸術作品だ!という事を、先ほど自動翻訳してみてわかりました。 マルチメディアアートワークという部門らしいです。

橋本 公氏(はしもと いさお)の作品です。 しかも、武蔵野美術大学 芸術文化学科2002年度卒業制作だとわかりました。全文はこちら

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玉音放送のあとに上官の命令で出撃した特攻隊員たち
 

大分 「最後の特攻隊」慰霊祭
8月15日 20時49分 NHKニュース

終戦の日の15日、大分市では、終戦の玉音放送のあとに、上官の命令で出撃し命を落とした、「最後の特攻隊」を追悼する慰霊祭が行われました。

66年前の8月15日、終戦を伝える玉音放送のあと、大分市内にあった海軍航空隊では、司令官の命令で、この司令官を含む23人が特別攻撃隊として沖縄方面に出撃し、

このうち18人が命を落としました。この事実を後世に伝えていこうと、大分市内の慰霊碑の前で、

「最後の特攻隊」と呼ばれる隊員たちが出撃した時刻の午後4時半に合わせて、慰霊祭が行われました。

慰霊祭には、地元の人などおよそ30人が参列し、地区の自治会長の本田栄さんが「最後の特攻隊のことをしっかりと語り継ぐことで、

平和をつくる一助にしたい」とあいさつして、一人一人が慰霊碑に玉串をささげました。昭和51年に慰霊碑を建てるのに携わった四堂子隆さんは「

毎年終戦の日は、いつもとは違った気持ちになります。私たちが語り継ぐことで、皆さんに最後の特攻隊のことを覚えていてほしいです」と話していました。

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昨日読んだネット記事 8月17日版 その1
 
〇村を放射能汚染のアイコンにするな。再生努力への共感を飯舘村のいま~再生への軌跡(1)  こちら

〇福島第一原発敷地内で「地割れ、水蒸気が噴出している」情報。再爆発の懸念も。  こちら

〇リスクに直面せざるを得ない3.11後の日本多様性の拡大とソーシャル志向の若者の変化に期待  こちら
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昨日読んだネット記事 8月17日版 その2
 
〇 円高、輸出業者に必ずしもマイナスでない―デフレ長期化で
こちら

〇特命委員長、出番です。  こちら

〇2011-08-14 終戦記念日に向けて  こちら

〇英国の暴動:自己像を見失った国  こちら
 
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九州の若松市二島で昭和24年に小学校に入学した。 商店街の真ん中を走る蒸気機関車と米軍戦車の長い列を見た。     茶話 5

2023年09月16日 | エッセイ

昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。

1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。

月に一度か二度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。気が重くなるのはそのことではなかった。

 

行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって

「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と甲高い声で叫ぶのだった。

きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。
 
その人の手前でつい足が遅くなった僕に「早くおいで」と母から声が飛び慌ててその人の横を通り抜ける。
 
その人を見るのがつらいのだった。
 

その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。

子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。

 そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。

その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、

駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。

 

2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、

大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。

買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。

 こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、母の買物が済むともう帰る時間だった。

出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。

若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。

行きたくない若松も、あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。

 

3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。

大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。

あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。

 

朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。

先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。

 「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。

もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。

 

赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。

 

その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。

 

それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。

芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、

そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。

 

そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。

当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。

 

町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

福岡県 若松~飯塚:若松駅~藤ノ木駅~シャボン玉石けん~デンソー九州~北九州学術研究都市~本城駅~折尾駅【空から公式】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北九州市から小学校2年生当時の写真を入れた手紙が2019年9月に届いた。

封書が届いた。差出人の住所は北九州市八幡西区となっており、お名前には心当たりがない。

封筒を開いてみると手紙と共に写真が一葉同封されていた。

お手紙によると送ってくださった方は、小学校(二島にあった当時若松市立島郷第2小学校)の一、二年時に同じクラスでしたと書かれていた。

 

遠足で行った撮影場所は今の北九州市の折尾公園だと思うと書いてある。

先生や前列の方の名前が書いてあり、前列右端の阿智胡地亭の隣に座っている方がその方だった。

昭和26年撮影の写真を目の前にして遠い昔の小学校生活が目に浮かんだ。


家から2㎞の通学路は田圃と山道の連続で、入学早々の身には遠かったが学校生活は楽しかった。

 幼稚園という団体生活の経験がなく、生まれて初めて集団社会への参加だったが何とか毎日遠い小学校に集団通学で通った。

  そのうちに北九州弁にも慣れてみんなと喋りよったですもん。

当時まだテレビもなく、九州弁以外の日本語を聞くのは先生も含めて周囲の全員がNHKラジオだけだった。

 当然彼らが喋るのは北九州弁だけだったから、小学校に上がる一年前までは三重県四日市にいて、

そこから引っ越してきた自分は嫌も応もなく、周囲の誰もが喋りよる北九州言葉ば覚えんと学校におれんかったとよ。

 

 Oさんわざわざ68年前の写真を送って頂きありがとうございました。

 2019年9月23日記

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09月15日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月16日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月16日(火)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月15日 | 東日本大震災ブログ
2011年08月16日(火)
 
児玉教授 官邸で首相らにレクチャー
 

放射性物質:菅首相、除染の専門家呼び2時間議論
毎日新聞 2011年8月15日 20時24分(最終更新 8月15日 21時44分)

菅直人首相は15日、東京電力福島第1原発事故で飛散した放射性物質の除染に関し意見を聞くため、東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授らと官邸で会った。

児玉氏は「汚染の程度を全部明らかにし、住民中心で除染計画を考えないといけない」などと提言した。

 福島県南相馬市で除染活動をしている児玉氏は、7月27日の衆院厚生労働委員会に参考人として出席し、

「7万人が自宅を離れてさまよっている時に国会は一体何をやっているのか」と国の対応を批判し反響を呼んだ。

 首相は、政府の除染対応が縦割りになっているとの意識を持っており、児玉氏を呼んだのは首相の強い意向。

会談は約2時間続き、細野豪志原発事故担当相や松下忠洋副経済産業相らが同席した。【中井正裕】

放射線:「除染急げ」 東京大アイソトープ総合センター長
毎日新聞 2011年8月7日 21時54分(最終更新 8月7日 22時45分)

「7万人が自宅を離れてさまよっている時に、国会は一体何をやっているのですか!」。

東京大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦さん(58)が7月下旬、衆議院厚生労働委員会で国の放射線対策を厳しく批判したことが反響を呼んでいる。

がん治療薬開発のかたわら、「行動する研究者」として福島県南相馬市で除染活動を続ける児玉さんに、政府がなすべきことを聞いた。【聞き手・青野由利論説委員】

 --今回の汚染はこれまでの考え方では対応できないと指摘していましたね。

 ◆私たちの推計では、福島第1原発からの放射性物質の放出量はウランに換算して広島原爆20個分に上ります。

しかも、原爆に比べて放射線の減り方が遅い。少量の汚染ならその場の線量を考えればいい。でも、総量が膨大な場合、粒子の拡散を考える必要があります。

これは「非線形」という難しい科学になり、予測がつかない場所で濃縮が起きる。だから、稲わらによる牛肉のセシウム汚染や、お茶、腐葉土の汚染といった問題が次々出てくる。

続きを読む...

 
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泊3号機 高橋はるみ(経済産業省出身)知事はGO。
 

道議会どう判断 泊3号機 知事きょう容認
<北海道新聞8月16日朝刊掲載>

 道議会は16日午後、北海道電力泊原発(後志管内泊村)3号機の営業運転再開の是非を審議するため、産炭地域振興・エネルギー問題調査特別委員会を開く。

高橋はるみ知事は運転再開を容認する考えを表明する見通しで、知事の判断に対し、議会側がどのような態度を示すかが焦点となる。

 海江田万里経済産業相は、道の判断が示されるまで、営業運転再開を認める検査終了証の交付を見合わせており、知事は地元としての意見集約を急ぐ考えを示している。

 道政与党で最大会派の自民党・道民会議は15日、党道連と合同の会合を開いて対応を協議。会派内には、冬の電力確保に不安が生じるとして、

3号機の運転停止に否定的な声が強いが、「拙速に判断を求めるのはおかしい」(ベテラン道議)との異論も出ており、知事の容認方針を会派の総意として支持するか不透明な部分も残る。

2011年8月16日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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政治家を判断する物差しはたった一つ  既得権者と戦うか否か
 

朝日新聞「3面」の「夏、言いたい」欄:
2011年8月13日

経済産業省 古賀茂明大臣官房付 インタビューから。

――「日本中枢の崩壊」を出版しました。「中枢」に何が起きているのですか。

 民主党政権が政治主導に失敗し、政治が大きな方向性を決め、官僚がスピーディーに実行するという役割分担が機能しなくなっている。

東日本大震災という前例のない大災害に対応するには、新しい政策を考える創造性と、そのリスクに責任を負う覚悟が必要だが、官僚には両方ともできない。


政府はいろいろな会議をつくって規制改革の特区をつくるなどと提言しているが、そんなことは3月に分かっている。今は実施に移っていないといけない時期だ。

 バス会社に例えると、政治家は経営者、官僚は運転手


自民党時代はバスの運転手に運転を任せっきり。順調に運行しているように見えても全体の路線網に不備があり、いろんな場所で人々が置き去りになった。

民主党政権に代わって「オレたちが乗る」とバスの運転を始めたが、バスの運転なんて初めてだから、いろんな所で事故を起こして混乱してしまっている。

運転は官僚に任せ、大臣は路線図の書き換えを行うという役割分担の変更が必要だ。

 ――民主党は、なぜ改革に失敗したのでしょうか。

 大改革をしようと思えば、官僚の抵抗は当然予想できる。それなのに官僚と戦うための優秀なスタッフをそろえず、体制を整えなかった。

民主党の首相には本当にやりたいことがなかったのではないか。次の首相には「自分のやりたいことをはっきりさせてから首相になってください」と言いたい。

 ――「大増税すれば日本経済は奈落の底へ落ちていく」とも警告しています。

 日本の財政破綻(はたん)が近いと言われているが、役人からは消費税増税という答えしか出てこない。

だけど44兆円もの歳入不足を埋めるには消費税を25%にまで上げることが必要。どう考えても消費増税で財政再建なんてあり得ない。

 必要なのは将来、若者が稼いで税金を払える経済の仕組みにする成長戦略だ。

民主党も自民党も成長分野として農業、医療、再生可能エネルギーを挙げているが、農業にも病院経営にも株式会社は自由に参入できない。

電力会社も地域独占だ。優秀な企業が活躍できる仕組みをつくるには、農協や農水省、医師会や厚労省など非常に強力な組織と戦わなければいけない。

消費増税をするのに戦う相手は一番弱い庶民だ。

本当に戦うべき相手は既得権にしがみつき成長を阻害している人たち。そこと戦える政治家こそ責任ある政治家、責任政党だ。

 ――震災復興の具体策は。

 農業や漁業の規制改革は重要だ。宮城県の村井嘉浩知事が漁業への企業の参入を認めてほしいと言っているが、外資でも入れるくらいにした方がいい。

例えば海外の漁業会社を連れてきて、福島県沖で取れた魚は、放射能検査をした上で欧州連合(EU)市場に持って行く。EUで売れれば日本でも売れる。

漁船を失った日本の漁業者を雇うことも可能になるのではないか。

これからの日本の成長を考えれば、外国の企業も来てくれるような国にしなければいけない。

 ――日本全体も変わらなければいけない。

 本当に守らなくてはならない人が手厚く保護される仕組みが大事だ。既得権を壊していく時、安全網がないままだと抵抗が大きい。

高齢者だったら金持ちでも保護するような国はほかにない。「本当に気の毒な人だけを助けるだけにしてくれ」と声を上げなければいけない。

選挙の時だけではなく、ネットなどを利用して普段から政治家に声を届けないと大変なことになると、若い人たちには言いたい。(聞き手・今村尚徳)

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昨日読んだネット記事 8月16日版

〇「若い人たちの被曝を肩代わりしたい」500人のシニア部隊が原発事故収束に挑む  こちら

〇人間は放射線を浴びてはいけない生き物なのです  こちら

〇韓国に元気がありません  こちら

〇米国MITの独創・協創・競創の風土  こちら

〇放射能被害に冷淡な政府をあてにせず独自に動く市民――60人の親子が関東から初の“集団疎開  こちら

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今日の気になるネット情報 |
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全国戦没者追悼式における議長追悼の辞
 
 天皇皇后両陛下のご臨席をいただき、全国戦没者追悼式が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

 二十世紀の中葉、昭和の時代、遠く太平洋の島々と海原で、アジアやシベリアの山野で、そして沖縄をはじめ国内の各地で、戦場に倒れ、戦火に追われ、
 
三百万余りの同胞が亡くなられた悲しみの大きさには、いまなお胸のつぶれる思いがいたします。
 
国の内外すべての戦禍に倒れた方々のみたまに衷心より哀悼の誠を捧げますとともに、最愛の肉親を失い、苦難の戦後を生き抜いてこられたご遺族のみなさまに、深くお見舞い申し上げます。

 真夏の太陽が照りつけ、セミがしきりと鳴いて、あの戦争が終わった日から六十六年たった本年三月十一日、わが国は再び大きな惨禍に見舞われました。
 
地震と津波に襲われた東日本の海岸の街が一瞬にしてがれきの山と化した光景は、あの大戦がもたらした空襲と焼け野原をほうふつとさせ、
 
さらには原爆投下のヒロシマナガサキをも思い起こさせるものでした。家を失い、家族を津波にさらわれた人々の悲しみは、かつての戦争の悲しみと変わるところはありません。

 戦争にしろ、天災にしろ、いま生きている私たちのなすべきことは、「記憶を持ち続ける」ということです。

 歴史にしっかり真正面から向かい合い、そこから教訓を得て、反省すべきは反省し、その教訓を未来のために生かしていかなくてはなりません。

 記憶しなければならないことのひとつは、先の大戦で、遠く異郷の地でいのちを落とされた二百四十万人の同胞の遺骨の半数近くが故郷に戻っていないことです。
 
この一年の間、「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」が政府に設置され、遺骨収集への取り組みが強化されました。
 
しかしなお例えば、風雪ふきすさぶ北方の島、アッツ島で亡くなった約二千六百人のみなさんの遺骨の大半はなお凍れる土のなかに眠っているのです。政府の一層の努力が必要です。

 戦争は人間が始めるものでありますから、人間の責任で止めることができるということを心にしっかりきざみたいものと思います。

 地震や津波は、それが起こること自体は人間の力で防ぐことはできません。明治、昭和の三陸地方の大津波を記録した作家の吉村昭さんは、
 
「海の壁」の恐ろしさをつづっています。津波がきたらともかく逃げろという「津波てんでんこ」という言葉もあります。
 
東日本大震災の復興の槌音のなかで、私たちは、失われたいのちを悼みつつ、再び来るかもしれない天災と戦うために、「記憶」を持ち続けなければなりません。

 福島原発の事故では、人間の英知の限界を思い知らされました。大気に放出された放射能は長い年月にわたって、日本の土と水を汚し、
 
そこに生きるいのちをむしばむ可能性をぬぐうことができません。ヒロシマナガサキの原爆投下、第五福竜丸の被曝を体験した私たちが、
なぜ原発の「安全神話」に寄りかかってしまったのか、痛恨のきわみです。

 八月九日の長崎平和祈念式典の「長崎平和宣言」で田上市長は、ノーモア・ヒバクシャを訴えてきた被爆国の私たちが、
 
どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのか、「自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、
 
未来への責任から目をそらしていなかったか…」と私たちに問いを発しました。この問いに私たちは応えなければなりません。

 戦後、わが国は、国際社会の激動のなかで辛うじて平和を守ってまいりました。世界の恒久平和のために、
 
「核のない世界」をつくるために、引き続き渾身の力を傾けてまいります。日本国憲法の平和の理念を改めて深く心に刻み、
 
戦没者のみたまの安からんことを祈って、追悼の言葉といたします。

平成二十三年八月十五日
                              
衆議院議長  横 路  孝 弘
 
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インドネシア国でジャピンドと呼ばれる人生を送る樋口さん   インドネシア残留日本兵たち   茶話 4

2023年09月15日 | エッセイ

☆ 2005年9月30日の新聞に「帰らなかった日本兵」◇インドネシア独立運動に身を投じた「一千名の声」◇と言う記事が出ていました。

その書名の本が発刊されたと言う文化欄の記事の題名でした。

 これを見た時、1976年、昭和51年にジャカルタで出会った樋口さんを思い出しました。

樋口さんは、そのとき私がインドネシア出張に随行した会社の役員の大学時代の同窓ですが、国籍はインドネシア人でした。

 戦争前に愛媛県のN市にあった何社かの会社の合同独身寮で、会社は違ったけれど杉村さんとラグビー部の親友だったと聞きました。

注)「帰らなかった日本兵」とは、日本の敗戦後、再支配を目指して攻めてきたオランダや英国など連合軍に対するインドネシアの独立運動に身を投じ、

祖国日本に戻らなかった兵士たちである。数は確認できただけでも約一千人。多くが独立後に現地女性と結婚、インドネシア国籍となった。

 

 樋口さんは召集を受け会社の寮から帝国陸軍に入隊し、部隊はインドネシアのスマトラ島に駐屯していたそうですが、戦争末期の戦いでオランダ軍の捕虜になり、

銃殺される寸前に、駆けつけた(長く樋口さんが青年達を教育していた村の)村長の嘆願のお陰で釈放されました。

そしてその後、インドネシア独立戦争の時に、インドネシア国軍に参加するよう頼まれ、そのまま将校として銃を取りインドネシア兵を指揮し、

オランダ軍との熾烈な戦いに加わったそうです。

 

 日本の敗戦を知った時も 日本には原爆が落とされ、空襲で殆どの町や村が焼けてしまったと聞かされ、

もう自分の親兄弟も皆亡くなってしまったと思って、それもインドネシアに残った理由の一つでしたとも言われました。

 

彼は秋田鉱専(現 秋田大学 国際資源学部)で鉱山学を学んだキャリアを生かし、国軍の技術将校として重用され、インドネシアの国籍を取り、

栄進され、個人的にも、インドネシア婦人と結婚されました。

 インドネシアが独立し、日本と国交が回復したあと日本の親族とは連絡が取れ、そのご交流を再開されているが、

もう妻、子供もあり生活の基盤もこちらにあるので、日本に戻ろうとは思わなかったそうです。

そして日本の国が戦後、経済復興を遂げていきつあるのを心から喜んでおられました。

 「こうして日本企業が昭和40年代からインドネシアでビジネスを盛んにするようになり、いろいろなお手伝いをしてお役に立てて、

私などは幸せです、戦友の多くは、せっかく太平洋戦争で生き残ったのに、インドネシア国軍の将校としてオランダ軍と戦い、戦死したものも多くいますから」と話されました。

 

 はじめて樋口さんがジャカルタのホテルに現れて お会いした時、樋口さんは色浅黒く、濃い口髭を蓄えた、目の鋭い精悍な男性でした。

そしてお話をされる間、温和な笑みが顔に絶えることはありませんでした。

 子供さんはアメリカの大学に留学されているとかで、アメリカと日本にも仕事で良く行っていますとの話でしたが、

当時国外に出て2,3回目の私には、こんな風に生き抜いてきた日本人がいるんだと強く心に残りました。

 ☆終戦からすでに60年。千人を数えた残留日本兵の生存者も、現在は9人にまで減ってしまったが、その方々のご存命中に発刊でき、ほっとしている。

日本でより多くの方に読んでいただくためウェブサイトも開設した。現在残留日本兵の子孫は、二世、三世を含めおよそ2千人である。・・・}

 ジャピンドとはジャパニーズ・インドネシアンを略して言う言葉だそうですが、

樋口さんは、自分がジャピンドと呼ばれるような人生を、送ることになるとは思ってもみませんでした、と言われました。

☆新聞記事:2005.9.30 日経朝刊44面。ヘル・サントソ衛藤

   

(2005年9月30日作成)

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