家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

本物の先生

2010-02-17 11:40:18 | Weblog
陶芸家の友人は今、週に3回ほど講師になる。

近所に出来た高校の美術の授業の一環として陶芸を教えに行っているのだ。

スケジュールは学校に合わせなくてはならないから自分の生活が苦しくなることは必至である。

陶芸は机上の論理ではない。

写真やビデオを見ても理解した気になるだけだ。

実際の指導ならどの角度からでも見ることが出来る。

土に触って造形しようとすると、これが思ったようにはいかないというのが実際だ。

うまくいかない自分の作業を知ってから陶芸家の作業を見ると輝いて見えるのである。

「本物を見た」ということが分かる。

それを知ることが出来れば限られた時間しかない授業で覚える最大の目的が達せられるような気がする。

「努力」の上に絶対的に君臨する「才能」というものを知るほどの時間がないのは残念だが。

また更に才能があっても窯から出してみなければ分からないという世界が陶芸だ。

でも学校という所は、がっかりさせる場所ではないから細かな部分については卒業後に知ればよい。

出会いを持てた生徒たちは幸運である。

その幸運に気付いた生徒は、さらに幸運である。