家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

葛城北の丸に行ってきた

2013-01-14 08:04:33 | Weblog
葛城北の丸に行ってきた。

昨年このホテルの宿泊割引券をいただいた。

母に聞くと「行きたい」ということだったので予約した。

浜松から近いし以前宿泊した時の良い印象が行く気にさせたのだろう。

このところ母には、あまり調子の良くない日々が続いていたので心配したが実現できた。

どうせなら新東名高速道路も体験してもらおうと思った。

なんでも「冥土の土産」ということばで経験してもらう。

森町パーキングエリアにも寄った。

ホテルでは部屋に案内されたとたんに話し始めた。

毎月一回4人でランチしているし年始の挨拶もしてあるし話が足りないことはない。

だが場所や雰囲気が変わり宿泊もするとなると我々全員が気持ちを緩めて、ゆったりあれこれ話すことになる。

風呂に入る間もなく夕食の時刻になった。

料理に舌鼓を打ちワインやビールを楽しむ。

皆が饒舌になり話は、さらに盛り上がる。

部屋に戻り少し酔いを醒ますまでしゃべる。

時間的限度を取り外すことによって皆が自由に話し活発に意見を言う。

ところが、またまた話が弾み、とうとう入浴時刻は終了してしまった。

「風呂は明日」ということで11:30まで話し込んだ。

翌朝6時から大風呂に入った。

まだ暗い中で露天風呂に沈む。

昨日の記憶を首から上の寒さと首から下の暖かさの中で甦らせる。

私の腕につかまって歩く母の重さ。

宝物に触るように大切に扱う。

上り坂になると少し重く感じられる。

母の筋力の低下を私の腕の重さとして実感する。

だが上機嫌の母の心の弾みも同時に腕から私の体全体に浸入してくる。

少ししか食べられないが、それでもワインに口をつけたし、よく眠れたという。

冥土の土産は母だけでなく私たちのことでもある。

母のつかんだ腕の感触は私の冥土の土産だ。

帰りがけ車に乗り込むと「また来たい」と母が感想を述べた。

母の希望は我々の希望でもある。

たった1泊が4人の寿命をどれだけ伸ばしたか計り知れない。

SLKの最後

2013-01-13 08:15:32 | Weblog
ベンツSLK を駆って春野に行った。

「おやっ」と変に感じたのはヒーターが利かないことだ。

スイッチを入れてもブロワーの音がしない。

春野からの帰路のこと信号で止まり再発進しようとアクセルを踏むがギアがサードあたりに入っていて加速が悪い。

ラジオは,かかっていてウインカーが点滅しない。

窓は下げることはできるが上がらない。

これは電気系統がおかしいと感じた。

危険のない場所で車を止め、いつもの車屋さんに電話した。

「ヤナセに運んでください」

ということだったのでウインカーが不調だということを考慮して、なるべく左折でヤナセに入ることの出来るルートを考えた。

なんとかヤナセに到着し車屋さんに再び電話した。

「今ヤナセに到着しました」というと「すぐそちらに向かいます」ということだった。

車屋さんが来るまでの間エンジンを掛けっぱなしにすることにした。

しばらくするとSLKは震えるようにケイレンを起こしてストンとエンジンが止まった。

私は、そのまま車屋さんの横に乗せてもらい代車を借りて帰宅した。

3日後に連絡が来た。

やはり電気系統が壊れていた。

この際いろいろな故障箇所を直すか別の車に買い換えるかという選択に迫られた。

故障箇所は数々あり、それらを直す費用は、結構な金額になる。

SLKは気に入っていてカッコいいとも感じている。

しかし初老の私たち夫婦が長距離を走るには姿勢も疲れるし荷物も、ほとんど乗らない。

ということでベンツのいちばん小さな車であるAにすることにした。

新車を買うほどの金額はかけられない。

中古車で調子が良く走行距離数の少ないものを探してもらった。

シートヒーターとクルーズコントロールは外せない装備だと思っていたのだが、それを待っているといつまでも代車のままだ。

幸い車屋さんの持ち車で私たちの気に入っている色の物があり距離数も31000キロだ。

それに決めた。

壊れた日は母の誕生日で、お金を振り込んだ日は父の誕生日だった。

数字で見る2012

2013-01-12 12:15:01 | Weblog
去年の車の走行距離とガソリン消費量そしてリッター当たりの走行距離が出た。


VITZ          18700Km走行で    1053.85L消費         17.74Km/L

BENZ A        9311.3Km走行で    673.4L消費          13.82Km/L

MORGAN       1624Km走行で      145.52L消費         11.15Km/L

GYRO CANOPY   689.3Km走行で      47.61L消費          14.47Km/L

MATE          30.8Km走行で      補給せず



ヴィッツは一昨年よりも1000Kmほど距離が少なくベンツAは3月31日に納車されたにもかかわらず1万キロ近く乗った。

ヴィッツの走行距離減少の理由は分からないが、ベンツAの距離数の多いのは長距離移動が多かったせいだろう。

ジャイロはキャブレターの修理があったせいで距離数が伸びた。

修理や調整をしては走ったし、その後調子が良くなって乗る機会が増えた。

冬になったら不調になるかと思いきや今でも調子が良い。

ヴィッツのほうがジャイロよりもリッター当たりの走行距離が長いことに驚く。

だが、このジャイロも以前よりは、これでもリッター当たりの走行距離が伸びている。

メイトは、ジャイロに乗る機会が多かったせいで、ほとんど乗らなかった。

一昨年のガソリンで動いている。



春野に行った回数、去年は169回。

2011年の194回よりは少ないが、ほぼ2日に1回通ったことになる。

5月には22回行き、また10月には6回しか行けなかった。


アルコールを摂取しなかった日数は182日で、これもほぼ2日に1回。

2011年の196日に比べると14日間多く飲んだ。

喉元過ぎれば熱さを忘れるということではなく月~木は休肝日にしていることは変わらない。


本は35冊読んだ。

分厚い本から薄い児童書内容もさまざまだ。

世の中の見方が変わる本も2冊あった。

インターネットラジオを知ってからは、そればかり掛けている。

バッハやモーツァルトなどのクラシック音楽のみならずビートルズや楽器ごとのチャンネルもあり、ありがたく音楽漬けになっている。


数字に表れるものは事実でもある。

自分の思いとは違うかもしれないが自己反省をするためのよい道具として使える。

記録が面倒なこともあるが、それを楽しみにしてしまえば簡単だ。

今後も続けて立派な大人になろうと還暦の私が思った。





交通違反の思い出

2013-01-11 08:05:50 | Weblog
昨年9月20日私は妻のほか母と姉を乗せて走行していた。

4人でランチに行く途中であった。

繁華街に白バイが止まっていた。

その前にタクシーが止まり、その前には左折進入したい女性ドライバーの車が一台。

タクシーは白バイがいるので左折したい車のためにわざわざ止まっているように感じた。

私は、その横を通り過ぎた。

ところが横断歩道には女性が立っていたらしい。

私は、それを見逃した。

すかさず白バイが追ってきて通りの激しい場所で停止を命じられた。

白バイ隊員は私がわざと歩行者を無視して通り過ぎたとして少し興奮気味だった。

私は歩行者を見逃したことは明白なので素直に、その旨を伝えた。

白バイ隊員は、そのような見逃しでの事故を何度も目の当たりにしている。

見逃しの恐ろしさを普通の人よりも痛感しているのだ。

私に対する口調の強さは、そんな職務上というより弱者を守りたい情熱として伝わってきた。

9000円の罰金とゴールドの免許証がブルーに変わることは当然の罰であった。

それからは私は横断歩道があると歩行者を探すことにしている。

ただ漠然と前を見ているだけでは同じ間違いを起こしそうだからだ。

次に同じ道を通りかかったところ同じ地点に白バイが2台とパトカーが1台止まっていた。

白バイが2台とパトカーが1台という人数で対処すれば根本的に永続的に歩行者を守れると考えているのだろうか。

そんなに私のような歩行者を見逃す人が多いなら、もっと画期的に改善しないと歩行者を守れないのではないかと感じた。

その三叉路の手前の歩行者横断用信号機と統合するとか新たに歩行者横断用信号機を設置するなどしないとどんなに大人数で監視していても効果は少ないのではないかなと感じた。

白バイ隊員の情熱は、ありがたいものと感じたが我々の税金で歩行者を守ってくれるのであれば運転手にとっても分かり易い方法をとってもらいたい。

私は、どちらかというと横断歩道では必ず止まるようにしていたという気持ちが強い。

普通の注意力で見ていたら見逃さない方法を考えてもらいたいものだ。

歩行者を守りたいという気持ちは私にも充分あるのだから。

還暦誕生日

2013-01-10 07:54:54 | Weblog
還暦の誕生日を迎えた。

朝目覚めても妻が誕生祝の言葉を発しない。

どうやら忘れているようだ。

トイレに入っていたら電話が鳴り妻が話をしながら近づいてきた。

まさかと思ったがドアを開けて受話器を渡す。

読みかけの分厚い本を置いて受話器を受け取る。

生命保険の担当者が、わざわざ電話をくれたのだ。

それが誕生祝いの言葉の一人目となった。

その後妻が祝う言葉と忘れていた侘びの言葉と先を越された悔しさを伝えた。

続いて母が電話で自分の体のコンディションと共に祝いを伝えてくれた。

母の健康は私への何よりの贈り物だ。

息子たちからメールが相次いで送られてきた。

「好きに生きてくれ」というものと「今と同じように楽しい人生を送っちゃってください」というものだった。

この文の中に私への信頼と尊敬を感じ取った。

次男の嫁からのメールは「今年は、とうとう赤ちゃん・・」かと誤解したのだが、よく読めば、私が赤いちゃんちゃんこを着る年齢に達したということだった。

その後も友人たちからお祝いメールが届いた。

妻は憑かれたかのように日に何度も「ハッピーバースデイ・・・」を歌う。

これがやっかいで自分の誕生日を伝えなかった。

マロ君も妻に抱えられて両手をつかまれてハッピーバースデイの指揮者となる。

顔には嫌だという色をありありと浮かべ全身の力を抜いて早く終わらないかなと思っているのが、はっきり見て取れた。

だが菓子の、ほんの一カケラを舐めて内輪のパーティーに参加してくれた。

連絡のあるなしに拘らず私を支えるすべての人たちに感謝をした。

この時期にぎっくり腰を患っているのには何かの暗示があるような気がしている。

健康で過ごすために油断するなということか。

将来の姿を早めに見せるためか。

毎日乗る体重計の設定年齢を59から60に更新した。




還暦同窓会

2013-01-06 09:12:04 | Weblog
還暦同窓会の行われる23日前の風呂の中で考えた。

高校生時代は自分の60年間の歴史の中で最も悪い時期だったのではないかと。

勉強の嫌いな自分が進学校と呼ばれる高校に行ったのが間違いだし家庭環境が良くなかったし出身中学も暴力的だった。

会場に着くと次々と懐かしい顔が現れる。

彼らの顔を見ていたら、いつしか自分がこの中で最低の成績だったことも忘れて大いに語り合い笑いあった。

「太ったでしょ私」という女性というよりこの場合は女子。

「皆太ったから縮尺が同じだから太っていないよ」と答えた。

挨拶が上手な同級生を見ていると自分とは違うなと思う。

だが彼らは挨拶に慣れているだけだ、とこの年なら知っている。

私の隣に座ってくれた友が何人かいる。

皆が修学旅行で土産を買っている時に「オレは何も買わない」と言ったらしい。

驚いた彼は、その時「この人はどんな人なんだろうと思った」という。

「オレは流されるタイプだもんでね」と彼は付け加えた。

「まだフルート吹いてる?」と聞く友もいた。

「いやあれは、あの時期だけで大人になってからはリコーダーを習ったよ」と伝えた。

それも止めてしまったが。

「あの頃DT-1に乗っていてカッコよかったけど今は?」という男子。

あれこれ経営している成功者が私に「呑めよ」と酒を注いでくれた。

「お前のヒゲは似合うけど、あそこのあいつは似合わんな」という者。

勉強は出来なかったし素行も悪い時があったけど嫌われてはいないはず、という私の勝手なイメージは、まんざら錯覚でもなさそうだ。

「おまえ何か事務所に勤めていたんじゃなかったか」というぶしつけな質問が来た。

私にとって直球のデッドボールだと思われた。

「試験に受からなくて親父の仕事を継げなかったのだよ」と答えた。

この年は皆退職する年だ。

私の決死の言葉は笑いとともに流され今のシアワセそうな私の顔色を認めてくれた。

友の投げた玉を思い切り真正面から打ちホームランを打った気分になった。

競争を強いられた時期の友たち。

今、何回目かのスタート地点に立っている。

これからは私が先輩なのかもしれない。


石臼作戦

2013-01-05 09:46:06 | Weblog
廃屋に放置された石臼に気がついたのは、もう2年も前のことだ。

すぐに手を打とうと現場近くの人知人に頼み所有者に話を持ちかけてもらったのだが断られた。

去年の末になって、その廃屋を壊す工事が始まった。

現場近くの代理人は、すかさず話を進めてくれた。

当初は「あげない」という感じだったが、解体屋の3人でも重くて動かせないことが分かると今度は「何とかして」という態度になったという。

私は、まだぎっくり腰から癒えていない体に鞭打ち現場を見に行った。

妻の運転する車の助手席で背中にシートが当たらないように斜めに座った。

精神の喜びは体の痛みに勝るものだった。

近所の友人である庭師に搬出を任せた。

クレーン付トラックで向かったが、とてもトラックの入れない狭い場所にある。

うまい位置にある駐車場を利用させてもらうことにした。

駐車場主は「午後4時まで空いていますからどうぞ」と好意的だった。

クレーンの届かない位置にある石臼を、どのように運び出すのか少し心配だった。

庭師はガスボンベを運ぶ時に使っているような二輪車をトラックから降ろした。

私は石臼の中に溜まっている雨水と瓦礫を取り除いた。

庭師は石臼の周りの土をどけて石臼を左右に揺り動かすようにして少し広いところに移動させた。

ここで私に手伝いの依頼があった。

「僕がこうやって石臼を上げますから、その下に、この二輪車の先端を差し込んでもらえますか」

「よし分かった」と答えて彼とのタイミングを計った。

一発で決まった。

「それじゃあ持ち上げてください」

彼の合図に私は上がりきった二輪車の取っ手を引き下げようとするが全く動かない。

「それじゃあ交代します」と言って彼が引っ張り私は二輪車から石臼が転がり落ちないように押さえた。

見事に二輪車に石臼が乗った。

そのままトラックの横まで二人で運んだ。

彼が持ち上げようのベルトを石臼に巻きクレーンの先端をそのベルトに固定するまで私は一人でバランスをとって二輪車を支えた。

先端がベルトに固定されると、あとはクレーンが力強く静かに持ち上げて荷台に下ろした。

帰宅して、あらかじめ決めておいた場所に石臼を下ろしてもらった。

庭師は隣に置いてある水甕をのぞき込み魚を探した。

暖かくなった頃には、この石臼の中にもメダカや金魚が泳いでいることだろう。