第1359回や第1415回でも書いたように坂出と言えば今は瀬戸大橋ですが、昔は塩の町として有名でした。私の子どもの頃にはまだ塩田が広がっており枝条架式という竹を屋根状に何段にも組んだものに海水を流し水を蒸発させて塩分を濃くする方式が全盛でその設備が林立していました。
そんな風に育ってきたのでどうしても塩には思い入れがあります。坂出で地域通貨をやるとすれば通貨単位はソルトだなどと書いたこともあります。
それだけに、塩とか同じ産地としての赤穂という言葉に反応してしまいます。久しぶりに反応させられた記事がありました。
中日新聞より
懐かしの塩田復活 吉良の饗庭塩づくりに児童が挑戦 2007年9月13日
製塩が盛んだった吉良町で十二日、かつての地場産業を理解する体験会「吉良の饗庭(あいば)塩復活大作戦!」があり、地元の小学生たちが昔ながらの塩作りにいそしんだ。
吉良町は、江戸時代から塩田に海水を引き込む入浜(いりはま)式の製塩で栄えた。饗庭塩と呼ばれ、岡崎から足助を経て南アルプスを越える「塩の道」のルートで、信州の伊那谷方面に運ばれたという。一九五三(昭和二十八)年の13号台風で町内の塩田は壊滅的な被害を受け、七一年の国の塩業整理事業で全国の塩田とともに廃止された。・・・以下略
赤穂の塩は有名でしたが、吉良町はお恥ずかしながら知りませんでした。しかし、こうなると、ますます塩に興味が湧きますね。忠臣蔵も、もしかしたら坂出にも何らかの関わりがあったのかもしれないなんて想像してしまいます。ちょっとサーチしてみました。
ありました。本当に便利な時代になったものです。
・・・略
戦後、三河吉良庄出身の尾崎士郎は、吉良家の領地である三河でも塩を作っていたが、上質の塩を産することで有名だった赤穂には及ばなかったので、浅野内匠頭に塩の製法を教えてくれと頼み断られたので…という塩田説を唱えた。しかし、赤穂塩と吉良の饗庭塩では最初から質量共に勝負にならない、という説が有力である。・・・以下略
もう一つ
・・・略
④吉良が赤穂塩の製法を浅野に訊いたが、秘伝であるからと、これを教えなかった。(吉良も地元の三河国幡豆で饗庭(あえば)塩というのを作っていた。) ⑤吉良の饗庭塩と浅野の赤穂塩が市場で競合した為、吉良が自主規制を申し入れたが、浅野が拒否した。・・・以下略
やはり何かあったのかもしれませんね。それにしても忠臣蔵にこんな裏話があったとは意外でした。
知らないことばかり!