団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★ポツダム宣言の真実

2015年06月13日 | 日本再生

  ケント・ギルバートさんが、第353回の「韓国人こそ歴史を学べ!」に続いて、今度は世界に向かって素晴らしい真実を書いてくれています。最近のケントさんは日本にとって神様じゃないでしょうか。  
  あの揚げ足取りの質問を第342回の「日本は世界征服目指したか?」で取り上げた、共産党の志位委員長にこれを読ませて、どう言うか見たいものです。
  尤も、悪魔に魂を売った男の一人ですから、そんなことは承知の上で、あの質問をしている確信犯ですから反省することは無いでしょうね。本当に、日本は悪魔に魂を売った人達の巣窟です。
  そこに、最近はケントさんやヨンさん・テキサス親父さんなど外国の人達が見かねて、神として降りてきてくれたのかもしれません。

  ZAKZAKより    2015.06.06

  【ニッポンの新常識】「ポツダム宣言受諾は無条件降伏だ」と言い張る議論は空論

  前回はポツダム宣言について書いた。ポツダム宣言は条件を明示して、米国と英国、中華民国が日本政府に降伏を勧告した文書だ。日本は条件を飲んで降伏した。それでも「ポツダム宣言受諾は無条件降伏だ」と言い張る議論をいくつか読んだが、すべて空論だった。

  昭和20(1945)年9月2日、日本はポツダム宣言で示された「降伏条件」を前提に、戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した。しかし、GHQ(連合国 軍総司令部)最高司令官マッカーサー元帥は、自分の占領政策が降伏条件に縛られることを嫌い、トルーマン大統領に直訴した。

  トルーマン大統領は9月6日、「ポツダム宣言は双務的な拘束力を持たない」と言い放ち、「日本との関係は無条件降伏が基礎である」と明記した指令文書 をマッカーサーに送った。日本は条件付きで降伏したはずが、トルーマン大統領は「日本は無条件降伏だ」との主張を突然始めたのだ。日本軍は完全武装解除し た後だから、何も抵抗できない。

  この経緯は、国立国会図書館のウェブ資料で読める。この米国側のだまし討ちを隠すために、GHQは「ポツダム宣言受諾=無条件降伏」という洗脳を始めたのだろう。

  もう1つ、興味深い歴史的事実を知った。日本共産党は「日本国憲法」の審議過程で、第9条に反対した唯一の政党だったのだ。こちらは第90回帝国議会の速記録に残っている。言うまでもなく、「第一章 天皇」の条文には、真正面から反対している。

  帝国議会衆議院で「憲法修正案」は賛成421票を集めたが、全反対票8票を投じたのが日本共産党である。いつから、なぜ、「9条守れ」と言い始めたのか興味深い。
  
  さて、先の大戦と戦後政策における米国側の過ちを、私が次々に指摘することを心配する人もいる。例えば、毎日のようにテレビで顔を見る米国人の某友人 はわざわざメールをくれた。私のことを本気で心配してくれている気持ちが文面から伝わった。彼は、負の要素を持つ歴史的事実の公開は、米国の国益に反する と考えているのだと思う。

  しかし、私は、大戦中に日系人を強制収容所に入れたことをレーガン大統領が謝罪したように、米国政府が過ちを正面から認めることが、米国と日本の双方の国益にかなうと確信している。

  日本人は正直で誠実、正義を重んじ、嘘を嫌い、潔さを好み、恩義を忘れず、つらい過去を水に流せるからだ。

  ただし、大国同士の外交の場面で「正直」や「誠実」が通用するのは日米間だけだと思う。日本人はこの悲しい現実も忘れてはならない。

  本当に、ケントさんは良く勉強されてますね。何にも知らずに70年近く生きて来た自分が恥ずかしいです。早く、日本人がこれを知って理論武装するべきですね。
  何とかして、日本から悪魔に魂を売った奴らを一掃しなくてはなりません。余命3年作戦に期待するだけでは駄目ですね。やはり、日本人一人一人が立ち上がらなくては。


★崇徳上皇

2015年06月13日 | 国体・皇室・シラス

  我が坂出市にゆかりのある菅原 道真公を、第 192話の「平成の菅原道真出でよ」でも触れましたが、もう一人チラッと触れた、崇徳上皇についても、ねず さんが取り上げてくれています。
  長い歴史の中で有名なお二人が坂出に縁があるとは坂出恐るべしですね。教養の無いと言うことは、情けないですね。坂 出ではお二人の名前は有名ですが、 どんなことをされた人かなんて全く知りませんでした。もっと早く知っていれば、もっと真剣に歴史の勉強をしていたかもし れません。

  身近で言えば、我が家から1キロくらいのところに子供の頃から「てんのうさん」と呼ばれていた八十場という ところに、ところてんで有名なお店があり ます。そのお店は店の前に、山から清水が湧き出ていて、その下が小さな池になっていました。そこで、ところてんを冷やし て食べられるように縁台を置いています。
  その水こそ、崇徳上皇が無くなられたときに遺体を保存するために冷やした池だったのです。子供の頃はそんなことも知 らずに、何の疑問も抱かずに、只単に、「てんのうさん」と親しんで呼んでいたものです。
  まさか、あの「てんのうさん」が崇徳上皇から来ているとは想像もしませんでした。無知と言うか、教養のないというこ とはやはり恥ずかしいですね。

  百人一首でも有名なんですね。菅原道真公の詩も百人一首にあるそうです。早く、ねずさんの本を早く読みたい。図書館 からはまだ連絡なし。  

   ねずさんの ひとりごとよ り   2015年06月04日

   対 立よりも和

  瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
  われても末に 逢はむとぞ思ふ

  これは小倉百人一首の77番にある崇徳院の歌です。
一般には、別れても好きな人、フラレたけれどまた逢いたい人を詠んだ歌など、恋歌として紹介されている歌ですけれど、実 は全然違います。

  なぜなら崇徳院は、わざわざ「瀬をはやみ」「滝川」といった激しい表現を用いているからです。
恋する人にまた逢いたいという思慕の歌なら、どうしてそんなに激しい言葉を使わなければならないのでしょうか。

  崇徳院は、藤原忠通の謀略にあい、讃岐に流された人です。
これが保 元の乱(1156年)で、崇徳院となる前は、崇徳天皇です。
その、元天皇が、なんと武力によって拿捕され、流罪となってしまったのです。
天皇ないし元天皇が流されるというのは、当時にあっても、あるいは現代に至るまで、ありえない驚天動地の出来事です。
そして崇徳院が流されたときの天皇は、弟の後白河天皇でした。


  よくものの本には、保元の乱は後白河天皇によって崇徳院が讃岐に流されたとしているものと書かれています。
けれど我が国における天皇は、政治権力を揮わない権威としての存在です。
ですから後白河天皇が、天皇の地位にあって崇徳院を拿捕し流罪したという解釈は間違っています。

  そうではなく、これを仕掛けたのは、当時摂政関白太政大臣だった藤原忠通です。
藤原忠通は、摂関家としての藤原家の安泰のために、政治的に邪魔になる崇徳院に、実際にはまったくの無実である謀反の疑 いをかけて逮捕し、流罪にしてしまったのです。

  結果として崇徳院は、実弟の後白河天皇とも別れることになり、また、政治権力を握る藤原忠通とも、本人の意思に反し て、政治的敵対者とされてしまいました。

  そして冒頭の歌を読めば、何か大きな対立 戦までは至らなくても、それに近いほど意見が食い違う相手と、今は互いに 別の道を歩むことになるけれど、いつか再び出会い、今度は同じ道を歩んでいきたいという、崇徳院のお気持ちが、素直に伝 わる歌となっています。
今は無理かもしれないが、いつか・・それは遠い未来かもしれないし、もしかすると来世かもしれないけれど、また出会い、 今度は対立などしないで仲良く暮らしたいものだと、崇徳院は詠んでいるのです。

  藤原定家は、崇徳院の代表作としてこの歌を選び、藤原忠通の歌の次に配列しました。
聖徳太子の「十七条憲法」第一条には、有名な「和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)し、忤(さか)ふること無きを 宗(むね)と為(な)せ」という言葉があります。
ここにある「忤」という字は、語源が「呪いのための道具の杵」からきています。
つまり、「たとえ相手が呪詛しようとも、こちらも同じように呪詛することは愚かである。そのようなことはしないようにし なさい」という教えです。

  どんなに辛くて悲しいことや腹立たしいことがあったとしても「和を以て貴しと為し」なのです。
それは、相手を許すことでもあります。
「今は無理でも、いつか再会したい」という願いがあればこそ、崇徳院はこの歌を何度も推敲したのです。
「瀬をはやみ」「滝川」といった強い言葉を選んだのも、政争の濁流に押し流された二人の運命を象徴するにふさわしかった からでしょう。

  崇徳院は讃岐国に流されたあと、仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、 大品般若経)の写本作りに専念しました。
そして保元の乱で亡くなった戦死者の供養を最後まで続けられたのです。
そんな功徳を積んだ崇徳院を人々は四国の守り神として祀るようになります。

  そして崇徳院が崩御してから七百年後の慶応四年(1868年)、明治天皇はご自身の即位の礼に先立ち勅使を讃岐に遣 わして崇徳院の御霊を京都へ帰還させました。
こうして創建されたのが京都市上京区堀川東入ルにある白峰神社です。

  「岩にせかるる滝川」は崇徳院が亡くなってから七百年後、再びひとつの川になりました。
私たちの国の歴史はつながっているのです。
そしてこの歌を思うとき、昨今の日本を取り戻そうとする保守同士での、骨肉の争いがあることを、たいへん悲しく思いま す。…以下略

  下は、坂出市のゆかりの地です。

  白 峰宮

  歴史[編集]

  保元の乱(1156年)によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、長寛2年(1164年)に崩御するまでの9年間を讃 岐で過ごした。上皇の崩御後、遺体 を当地の清水に浸しておいたところ神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝 える。後嵯峨天皇の時代には荘園な どが施入されている。

  江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十 八箇所の七十九番札所であった。

  摩尼珠院は空海(弘法大師)の創建と伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。崇徳天皇社が創建されてからはその別当 となり、天皇にゆかりの深い寺ということから「天皇寺」と称するようになった。

  しかし、明治の神仏分離で崇徳天皇社は白峰宮となり、摩尼珠院は廃寺とされたため、筆頭末寺の高照院がその跡に移転 し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。現在、白峰宮の鳥居から社殿に向かう参道の両脇に天皇寺高照院の境内がある。… 以下略

  白 峯寺

  歴史[編集]

  寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、衆生救済の請願をした。円珍(智証大師)が貞 観2年(860年)に白峯大権現の神託を受けて千手観世音菩薩を霊木に刻み安置したという。

  後に、長寛2年(1164年)崇徳天皇が讃岐流刑地で没し、この地に陵墓が造られた。その後、建久2年(1191 年)に、慰霊のために陵墓近くに頓証 寺が建立され、さらに、応永21年(1414年)に後小松天皇は崇徳天皇の成仏を願い自筆の額(勅額)を頓証寺に奉納し た。これが現在の白峯寺になったと される。…以下略

  白峯寺::四国霊場第81番札所

  白峯寺 縁起
 
  …略

  その後、保元元年(1156)保元の乱に因り、第七十五代崇徳天皇当国に御配流、
 山麓林田郷綾高遠の館に三ヶ年後、府中皷ヶ丘木丸殿に移り六ヶ年、都合九年間配所の月日を過ごされて、長寛 二年(1164)旧八月廿六日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上に茶毘し、御陵が営まれた。

   然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武將も怖れ崇め奉り、御府莊園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等 当山に綸旨、院宣を下され、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を盡され、特に第百代の後小松帝は、御 廟に「頓証寺」の御追号勅額を奉掲 して、尊崇の意を表された。

   又仁安元年神無月の頃、歌聖西行は四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇 徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。

  即ち、  "松山や 浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな"


  西行涙を流して御返歌に "よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ"

  と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。…以下略

  ウィキペディアより  菅 原道真

  今は、まだ病気が全快とまで行かず、一日中ネット三昧もあって、足腰が弱ってしまっているので、外出もまならない状 態ですが、体力が回復したら、改めて、こうしたゆかりの場所を訪れてみたいものです。

  行けるかな!

★魂を悪魔に売った河野洋平

2015年06月13日 | 魂を悪魔に売った奴

  魂を悪魔に売った男の代表とも言える男の話題 がありました。その売りっぷりは半端ではないようです。想像もしなかったものまで売っていたようです。余程、腐り切った 男のようです。 

  何と、新幹線まで売っていたそうです。これは、全く知りませんでした。それどころか、天皇陛下まで売ったそうです。
  詳しく書いてくれているブログがありました。かなり長いですが、余りに腹が立つので、全部取り上げさせてもらいま す。
  尚、このブログは他にも興味深い話題が多そうなので、是非、リンク元を読んでください。  
  
  世界のニュース トトメス5世よ り  2015年06月06日
   
  盗 まれた新幹線 天皇謝罪事件 河野洋平の悪行

  日本の新幹線がタイで採用される可能性が高くなり、インドやアメリカ、インドネシアなどでも有力候補として検討され ている。

  新幹線輸出と言えば思いだすのが河野洋平の事である。

    地位を利用して技術どろぼうに加担

  河野洋平が河野談話を発表して、朝日グループによる従軍慰安婦捏造に加担したのは良く知られている。

  だが河野洋平の悪行はこれだけではなく、彼がなくなって「良い人だった」などと言われる前に書いておこうと思う。

   最近日本はインフラ輸出を重視していて新幹線を外国に売り込もうとしているが、どこへ輸出するにも必ず 中国が競合して自国の高速鉄道を売り込んでいる。

  中国の高速鉄道は見た目も規格も日本と同じものであり、品質だけが違う。

  中国に新幹線の技術支援を無償で行ったのはJR東日本や川崎重工業で、日本政府が命令して支援させました。

  その時、地位を利用して日本の技術を無償で引渡させて、見返りを受けたのが衆院議長の河野洋平でした。

  彼は江沢民の忠実な部下である事から「江の傭兵」などと呼ばれていた。

  新幹線の技術の全てをタダ同然で売却する計画を政府主導で強引に推し進め、国内の猛反対を推しきって実行させまし た。

  当事者のJR東日本と川崎重工は反対したが、「日本は中国を侵略したから国際貢献だ。」と言って民間企業の経営に介 入してまで協力させた。

  中国から支払われるのは車両の代金だけで、日本側が渡すのは「新幹線の技術の全て」という空前絶後の契約が交わされ た。

  その陣頭指揮に立ってごリ推ししたのが衆院議長の河野洋平だったのである。

  中国は新幹線技術を受け取った後、自国で開発した独自の技術だと主張し、国際特許を取得して「日本が新幹線技術を盗 んだ」と主張した。

  中国の高速鉄道は最初から、日本の新幹線を走らせるため幅を広く確保してあり、最初から技術を盗用するつもりだった のが分かる。

  幅の狭いフランスやドイツの車両を走らせるには不都合な設計がされていた。

  2003年に入札がされ、ドイツやフランスの車両も一応購入したがこれはブラフで、線路の設計段階から、日本の左翼 政治家と合意がなされていたのである。

  2003年には既に小泉政権で、橋本龍太郎や野中弘務は主流派ではなくなっていたが、河野洋平は正に2003年から 2009年まで衆院議長を務めていた。

  小泉政権の自民党は少数与党であり、公明党との連立で政権を保っており、しかも参議院では過半数割れになる事があっ た。

  自民党で最も中国寄りの左翼政治家である河野洋平は、野党とのパイプ役として絶大な権力を振るった。

  小泉首相は河野洋平に逆らったら議会運営ができなかったので、靖国参拝で憂さ晴らしするのが精一杯だった。

    「天皇を謝罪させた」と自慢した男

  河野洋平の悪行の中でも最悪のものが、1992年の(昭和)天皇訪中である。

  当時中国は1989年の天安門事件で世界から経済制裁を受けて、経済が挫折していた。

  自民党左翼グループは、中国への制裁を解除し、天皇を訪問させる事で中国に貢献しようと考えた。

  首相は宮沢喜一だったが、この人はどうしようもないお人形さんで、首振り人形のようにうなずいているだけだった。

  野中広務と共に自民党きっての親中国派だった河野らは、中国に行って天皇訪中を勝手に約束してきた。

  河野と中国側が決めた日程では、天皇は南京市を訪問し市民の前で、土下座して謝罪する事になっていたが宮内庁が拒否 した。

  天皇自身が拒否したのが、周辺がそうしたのかは伝わっていない。

  この後、河野は江沢民に「私が天皇を謝罪させた河野洋平です」と自分を売り込み、日本でも「俺が天皇を謝罪させた。 俺は天皇より偉いんだ」と言いふらした。


  河野洋平は宮沢内閣で官房長官を勤め、村山内閣で外務大臣を務め、小泉内閣から鳩山内閣まで衆院議長を務めた。

  自民党は下野したのにこれほど長く権力の座に居た理由は、言うまでも無く中国の強い推薦があったからである。

  中国は80年代から2000年代まで、日本の閣僚人事に難癖をつけて「侵略を反省していない」「帝国主義者」「平和 主義者」などとレッテルを貼って問題にした。

  中国と韓国に非難される事で辞任した閣僚は何人もいて、自民党総裁選挙にまで堂々と介入していた。

  河野は外務大臣だった村山内閣でも有名な事件を起こしていて、タイから日本に帰国するとき台風で台湾の飛行場に緊急 着陸したのに、飛行機から一歩も降りなかった。

  空港のロビーでお茶でも飲んだらどうかと思うが、降りなかった理由は「中国との関係を損なう」というものだった。

  その後中国を訪問した河野は「私は台湾の空港では飛行機から降りませんでした」と江沢民に報告した。

  これが河野洋平の『全盛期』だが騒動は意外な場所で続くのである。


  鈴鹿F1は唐突に富士に変更された。当時の衆院議長は河野洋平だった。
  河野洋平は富士スピードウェイを建設し、運営会社の副社長だった事がある。

    富士F1の醜態

  日本には鈴鹿サーキットという立派なサーキットがあり、もう一つ「富士スピードウェイ」というショボイサーキットが ある。

  この「富士スピードウェイ」を建設大臣の権限で建設したのが、河野一郎の河野一族なのである。

1962年に本田宗一郎が鈴鹿サーキット(日本初の本格的サーキット)を完成させ、1963年に第一回日本グランプリを 開催すると大ブームになった。

  初代スカイラインGTが一周だけポルシェを抜いて伝説になった頃の事である。

  それを見て気に食わないと思ったのが河野一郎(建設大臣)で、自分のサーキットを作り、大臣の権力を利用して鈴鹿 GPを中止させて富士で開催させた。

  河野一郎は完成前に急逝したため息子の河野洋平が富士スピードウェイの建設を指揮した。

  河野スピードウェイと呼んでも良いほどの深い関係があり、河野洋平は富士スピードウェイの運営会社の副社長をしてい た事もある。

  鈴鹿で開催されていた日本グランプリは第3回から不可解な理由で富士に変更されたが、コースが不出来で危険であり、 排ガス規制の影響で廃止された。

  1976年と1977年に富士でF1が開催されたが、レース中に事故が発生し、F1そのものが日本から消える原因に なった。

  富士が危険なのは完成前から指摘されていて、日本GPやF1が開催された理由は河野家の政治力の影響があったとされ ている。

  その後F1を巡って、30年後にまったく同じ出来事が繰り返される事になった。


  1987年からは鈴鹿サーキットで再びF1が開催され、アイルトンセナとマクラーレンホンダで大ブームになった。

  こうなると気に食わないのがやっぱり河野洋平であり、2007年と2008年のF1は富士で開催された。

  もっとも公式には「河野洋平の圧力に屈してF1は富士に移転した」などとはどこにも書かれていない。

  2007年に富士で開催されたF1は歴史に残る酷いもので、多くの観客はサーキットまで辿り着けず、レースを見れな かった。

  コースはいつ大事故が起きても不思議でないほど危険な状態で、設計上の問題は解決していなかった。

  「大事故が起きないうちに」と考えたのか富士のF1は2年間だけで鈴鹿に開催権を返上した。

  これらは単なる偶然とも取れるが、河野洋平の人間性を考えると、権力を振るって介入したのは確実に思える。

  新幹線を中国に売ったのは川崎重工の経営者の責任だと思って非難してきましたが、こんな裏があったとは、川重さんに は謝らないといけないかもしれません。
  F1が富士に移った時はトヨタの陰謀かと思ってましたが、これも河野だったとは、この男の悪事は際限がなさそうで す。
  
  この他にも罪状は沢山ありますが、その中でも大きいのは毒ガス弾の処理の問題でしょう。

  ウィキペディアより  河 野洋平

  政治姿勢

  遺棄化学兵器に関する取り決め[編集]

  外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」の発効に 伴い、同条約4条から要請される、中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国と取り決めを交わした。

  なお、同条約及び附属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設等すべての必要なものを遺棄した締約国 (つまり中国における旧日本軍の遺 棄化学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵器の廃棄を発効後10年間(2007年 まで)に終了することを求めてい る。

  ウィキペディアにはまだ幾つか書かれていましたが、呆れるばかりです。未だに、テレビでは好き放題の方言を続けてい るくせに絶対に国会や国民に説明し ようとはしないあの売国奴振りに、この男は、日本人だろうかと信じられないものがありましたが。どこの国の人間であれ、 悪魔に魂を売ったことだけは間違い ないようです。
  これじゃあ、どんなことがあっても、河野談話を取り消すことはないでしょう。少しでも、人間性が残っているかと淡い 望みも持っていましたが、どうやら、余りにも甘かったようです。

   
  河 野洋平のせいで共催になった2002日韓W杯(ワールドカップ)
「河野談話」で有名な元政治家の河野洋平さん。サッカーの2002年W杯が韓国との共催になるように最初に提案していた ようで…。当事の関係者の発言等をまとめました。 更新日: 2015年03月21日