明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



当ブログの中で、ここだけの話のつもりで快楽のために制作していると、余計なことを言ってしまったが、食欲がある限り食べ続けるのと同様に、良いも悪いも芸術もアートも、言いたいことすらない。ただ欲動のまま作るだけである。 某禅師を仕上げを残し、次の禅師に取り掛かりたい。重文の木像より国宝の肖像画の方が実像に近いと判断した。立体化は今のところ見たことがないから、七百数十年で初めての試みかもしれない。というよりそのぐらい重要がない、とも言える訳だが、私の大好物であり、創作上必要な孤独感が充分味わえるだろう。私のいうこの場合の孤独感は、とても暖かい物に包まれるような幼い頃からお馴染みの物で、適切な表現が見つからない。人と違うことをしたいなどという単なるへそ曲がりのレベルとは少々違う。10年の間に2回にわたって三島が死んでいる所ばかり制作した『三島由紀夫へのオマージュ 男の死』をやり遂げた後は、余程の事をしないと満足感は得られない。 妙な夢を見た。すでに禅師の制作をしている。妙な気配を感じて振り返ると武装集団に銃口を向けられている「礼拝物不敬罪で処刑!」前日『亡国のイージス』を観た影響だろう。



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早々に完成したと思った某禅師の頭部、例によって一迷走を経てようやく着地点が見えて来た。対する元寇の兵をようやく着手と言いたいところだが、どこの誰ではないので、難しいことではない、一旦置いておいて、もう一人の禅師に取り掛かることにした。こちらも展示が可能か判らないが、〝人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている”養老孟司いうところの、この仕組みに私は支配されたまま死ぬことになりそうである。それがまた快楽に繋がっているという体質により、需要は考慮せず。 某禅師の重要文化財の彫像はあるが、つまり立体作品はすでに在る。しかし禅師の実像を伝えているのは本人が画讃を書き込んだ肖像画だと判断した。国宝であるその肖像画を元に立体化しようという訳である。それによりもたらされる快楽を思うと。『わかっちゃいるけどやめられない』真面目な植木等はスーダラ節を歌う前に父、浄土真宗の僧侶植木徹誠に相談した。「青島君(作詞青島幸雄)はエライ!」と言ったという。

 



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実写と区別がつかないAIによる画像が簡単に作れるようになり、今後世の中を席巻しそうだという。私からすると”まことを写す”という意味で命名された写真という恥ずかしい訳語がついに終焉を迎える、と大歓迎である。写真のデジタル化に期待したが、それほどでもなく。 まことなどとは一切関わるつもりはないので、その居心地の悪さは迷惑千万である。光画と付けてさえいてくれたら。 その挙げ句が700年前に日本に来た人を作って、陰影を与えず撮影し、本人が植えて、現在巨樹となった前に立たせようとしている。陰影を無くした時点でかなり溜飲は下がってはいたものの。〝写真”の終焉に生きている間に間に合いそうである。もっとも、私がこだわっているのは用語の話であって、学校の制服に文句を言ってる女学生みたいなものである。ツールとしての写真は今が最も好きだろう。 下で本番!とか聞こえるので窓を開けると大泉洋と吉田羊がすぐ真下でドラマの撮影をしていた。吉田羊は洗濯バサミで摘んだ、いやかつてのフランス女優のような鼻をしていた。古葉監督のようにそっと覗いていたが、誰かが上から観てるとでも言ったのだろう、吉田羊が見上げ目が合ってしまって窓を閉めた。



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図書館で、ここ数日書いていた禅師の肖像画の詳細な図版を見て、おそらく宗時代の中国で描かれたであろう肖像画の、驚くばかりの迫真性に、間違いなくこれが実像を伝えているという確信を得た。個性的なご面相で、根拠がなく描いた物には見えない。禅師が来日前の中国(宗)で描かせて持って来たという説は正しいのではないだろうか。これに比べると、CT画像で厚塗り補修の痕跡に、後紆余曲折が感じられ、様式化の匂いもする木像は、禅師の亡くなった前後の作と言われているようである。 写真作品としての背景は、禅師が七百年以上前に自ら植え、現在とてつもないことになっている巨樹を考えている。私が作るのはモチーフこそ古いが現代の作品である。私の手段が写真だ、というところも生かせるだろう。

 



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学ぶは真似るから来ている。昔から素直に受け入れられないで来た。日曜美術館で明兆の『蝦蟇鉄拐図』を取り上げていた。作業しながら聞いてただけだが、『寒山拾得図』で有名な中国の顔輝の影響、ということで、衣の表現に独自性が、と解説していたようだが、肝心で最も美味しい所は顔輝そのままで、衣ぐらいが独自でどうする?と思ってしまうのである。明兆自体は素晴らしい絵師だが、この点について狩野派の粉本主義ならずとも、日本の絵師の学びの伝統に度々ブログでも違和感を書いて来た。人間を描くなら、他人がイメージし、表現した物から学ぶのではなく、生の人間から直接学ぶべきだろう。独学自己流者の勘は、人形は人形から学ばず写真は写真から学ぶべきではないとも。私は基礎を学ぶ機会を逸したと思っていたが、算数なんてつまらない物が大人になって必要になる訳がない、と思ったのと同様、石膏デッサンもそう思っていたから、結果は変わらなかったのかもしれない。



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某禅師の肖像を作るならば、の続きである。重要文化財の木像だが、人の創作物である立体を参考に、立体を作る気にはなれない。それならば木像とは別人の趣きだが、肖像画を立体化する方がやり甲斐がある。しかも本人の賛が書かれているということは、ある意味では、本人のお墨付きと言えるのではないか? 調べると誰の作かは判っていないが、中国(宗)で描かれ、本人が来日時に持参した可能性があると言う。また、木像を文化庁が調査をした際の記録を見つけた。木像は厚塗りの補修がなされていたのを剥がし元の姿に戻したというが、補修前のCT画像を見ると、そのさらに下には受け口は同じだが、はるかにおちょぼ口で、さらに目が切長ではなく、より垂れ目である。また顎の先端の華奢な感じなど、全てが肖像画に近く、肖像画の方が本人に近い、と判断した。作るとしたら肖像画の立体化であろう。昨日重要文化財に異を唱える訳ではないが、と書いたが、良く見たら肖像画は国宝であった。



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先の予定を立てないのが、途中挫折を避ける最善の方法である。しかし『三寒山拾得関連の不足分を補いラインナップを強固にして行きたい。となると構想だけで終わった物など、行き当たりばったりから、全体のバランスを考えて制作する必要がある。あくまで予定ではあるけれど。 『寒山拾得』(山中における寒山拾得)『達磨大師座像』『朱鞘の大太刀を持てる一休宗純』『昇龍図』『羅漢図』『滝に打たれる不動明王』『某禅師と元寇』『某禅師』最後の禅師、某寺に重要文化財の木像が残されている。ところが同じ寺に肖像画も残されていて顔が別人くらい違う。立体はすでに在るし、人の立体作品を見ながら立体を作るのは嫌である。私ならあえて肖像画を立体化すべきではないか?それというのも肖像画には禅師本人の賛が書かれている。かなり個性的な顔だが、似ていなければ本人が賛を書くとは思えないのである。文化財に異を唱えるつもりはないが、こちらの方が実像を伝えている可能性があるのではないか?



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那須川天心ボクシングデビュー戰勝利。当然である。中学の頃だったか、ムエタイ時代、日本選手を膝蹴りで内蔵を破裂させ、ボクシング転向後、3戦目で世界チャンピオンになったセンサクを観ている。日本でガッツ石松をボディ一発で倒した晩、ソープを3軒ハシゴしたと聞いた。昔はモンスターは常に海外から襲来するものだったが、最近は何故か国産のモンスターが生まれている。ゴジラは放射能が原因だったが。 昨日は漬物を食べたいという母に胡瓜の糠漬けを食べさせた。母の好みに合わせ、まる二日漬けた。手軽なのでつい胡瓜にしてしまうが、胡瓜ばかりだと糠床に苦味が出る、と聞いている。昨日糠を足し、人参と牛蒡を漬け、早速夕飯で。ナスもやりたいが、色を良く出すことばかりが気になってしまう。糠漬けを食べていると間違いなく腹具合が良い。糠床は昔から人と同じ環境に置く物であり、真夏でも冷蔵庫には入れない。冷凍の生干しのイワシをいただいて以来、脂が乗っており、しょっちゅう食べているが、焼いた物を味噌汁に入れたら、煮干しどころではない美味しさで、朝晩食べ、明日の朝も食べることになるだろう。



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ホームにいる母が食が細くなり寝てることが多くなったと聞いた。老衰だろうと。前回建物のガラス越しで携帯で話した時は話し方がイヤにボンヤリして、ボケが始まったと思った。遮る物なく面と向かってみると顔色はよい。ただ私の高校時代に亡くなった祖母の死を覚えておらず首を傾げる、戒名代をまけさせ、死装束の草鞋の結び方を周囲にレクチャーして死んだ。坊さんが挨拶で肝心してたじゃないか?と言ったが覚えていない。 母はボケたふりして「どちら様ですか?」というギャグはホームでは誰でも一度はやられている、ギャグでなくなる日も来るだろう。しかしここ数年のことはよく覚えていて、同居していた頃の私の飲み仲間はみんな覚えていた。70過ぎて酔っ払って昨年も肋骨を折ったKさんに「まだそんなバカなことしてんの?」祖母の死を忘れてKさんが記憶にあると思うと複雑である。 しかし寒山拾得を手掛けて以来、子供時代の記憶が蘇り、母がいなければ寒山拾得には至ってはいなかったろう。感謝を伝えることができた。母が薄ぼんやりしてるから、どさくさに紛れてではあったけれど。感謝してるんだ、と笑った。私手製のきゅうりの糠漬けを美味しそうに食べた。



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一日  


元寇に関する新たな資料を入手。引っ越しの際、大量の本を処分して来たので、後の人生、制作に関する資料だけで良いと考えている。なので書店、古書店巡りも一切せず、もっぱらネットで探している。書店を出る時、予定外の本を抱えている、ということは避けられる。今は何かを取り入れるより、自分の中の物を出来るだけ吐き出すことに専念すべきだろう。結局、幼い頃に思った、頭に浮かんだイメージはどこへ行ってしまうのだろう?それを確かめるのが私の制作である、結局それに始まり、それに終わることになりそうである。禅的モチーフを手掛けることになったのも、決して偶然ではないと今は確信している。 明日は老衰のためか、すっかり元気のないホームの母のところへ行くので、報告して来よう。あれだけ口うるさかった母も、思ったほどには妙な道に走らず、と思ったか、ある時以降ずっと応援してくれた。昔父が入院を前に、今まで好きなことをやって来たんだから、と仕事を手伝うよう、コソコソ言っているのを聞きつけ、台所から飛び出して来て、何を今更!と大変な剣幕だったのは忘れられない。



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ムツゴロウ氏が亡くなった。特に興味がある人物ではなかったが、以前番組中、ライオンと戯れているように見える場面を観たが、その時指を一本食いちぎられていたと知ってビックリした。  私がずっと恐れていたのは死の床で、あれを作りたかった、これを作るべきだった、と身を捩り苦しむに決まっている、という事であったが、それを回避するには、先の予定を立てないことだ、と昨年対処法が浮かんだのだから、龍を作ることなど考えず、目の前のことだけを考える事にした。 本日作り始めたのは元寇、つまりかつてのモンゴル兵である。架空の東洋人であるから難しくはないが、表情をどうするか、禅師に剣を向けたところか、禅師の言葉に打たれた瞬間か。表情がそれによるだろう。現場は宗の時代の中国の寺だが、陰影の無い手法によれば、背景は全くの無地でも構わない。背景などただの状況説明の道具に過ぎずないから要らない。なんていえてしまうのが石塚式ピクトリアリズムの良いところである。



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小四で読んだ『一休禅師』を手掛けたが、ウルトラマンが始まったのが、やはりその頃だったろう、学芸会用に作演出で八岐大蛇を首一本だけだが作ったのもその頃で『龍虎図』や『昇龍図』を作るのはあまりに子供じみるようで抵抗があり、ついでに私に対する当時の母の苦労まで思い出す始末であった。しかし今はラインナップをより強固にしたい訳で、龍を作る事になる気がしている。何も参考にせずに作れるし。 三島由紀夫のオマージュを制作していて、それは三島の作品や、言及した死に方で三島に死んでもらった訳で、特に『仮面の告白』はモチーフの宝庫である。幼い三島は、王子がドラゴンに噛み砕かれ死ぬ絵本が好きだった。気に食わないのはその度王子が生き返るところで、そこは手で隠して読んだ。すでに後の運命を示唆した私が作らなければならないシーンである。ドラゴンを左手にカメラを右手で屋上で空を背景にのけぞるようにして撮った。マンションの住人には見られてはならない状態だったが〝だって三島がそう書いているんだから”と、こんな作品を作らせてくれる三島には感謝しっぱなしであった。王子の格好は三島の供述通りなのはいうまでもない。



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横顔の画像を得て、禅師の後頭部を修正。作品化しようと考えているのは、禅師の坐禅中の出来事である。完成させる前に、脇役の頭部を作りたい。何処の誰というわけではないので好きに作れる。 人間も草木同様、自然物だから肝心な物はあらかじめ備わっている。とずっと考えて来た。なので外の自然を眺めなくとも、目を瞑っていても同じことであろう。〝考えるな感じろ”はブルース・リーに教わるまでもなく経験上知っていた。感じないで考えた結果、ロクなことにならなかったからで、早々に気付いたのは幸いであった。〝外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想”というのも数十年前から言っていた。寒山拾得を手掛けるようになってから、資料の中で〝禅は仏を外に求めず、自らのなかにあると信じた”というような事を良く目にする。



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昨日の続き。ある禅宗の肖像に対し立派な表情などというが、悟りの表情とは対極にある、不安な表情ではないか?それはまさにモデルの人物が言わんとしたことで、その表情をあえて描かせることにより後世に〝賭けた”のではないか。この解釈に大変感銘を受けた。そう思えば乱世に生きた一休が、弟子である曾我蛇足に何故あの表情を描かせたかが理解出来る気がした。奇矯な振る舞いや言動など、あらゆる手段を持って伝えようとした一休の〝賭け”がそこにはあるのかもしれない。 小学4年の時に親にねだって買ってもらった大人向け『一休禅師』。確かに初めて聞く〝めでたくもありめでたくもなし”という言葉が印象的だったが、そこに蛇足の描いた肖像画が載っていなければ、56年後に、その顔の一休にシャレコウベを掲げさせ2メートルに拡大させることはなかった。作品はつい作家の物と思いがちだが。河合寛次郎の“鳥が選んだ枝  枝が待っていた鳥”を思い出す。被写体制作と撮影の二刀流としては思うところ大であった。



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頭部が出たら完成したも同然、後は時間の問題である。ところが午前中、図録が届いた。制作中の禅師の木像の横顔が載っていた。特に変わっている訳では無いが、知らなければこんな形にはしないだろう。 この禅師、二つの特徴がある。笑っている訳ではないが広角が上がっている、首が前に傾き気味である。優しく慈しみの気持ちが強い禅師で、人にも優しく対したらしい。まさに目の前の人に語りかけそうな首の角度と表情である。禅宗には師が弟子に肖像画を、卒業証のように与える習慣があり、おかげでこの人物はこういう人物であった、と伝わる訳である。 ある人が、ある肖像画について、堂々として、という意見に対し驚いた。という。どこが堂々なのだ、眉を顰めて不安気でさえある。悟りの表情とは対極にある。それはまさに人物が言わんとしたことで、その表情を描かせることにより〝賭けた”のではないか?という。すぐに無精髭を生やし、横目でこちらを観ている曾我蕭蛇足描く一休宗純の肖像を思い出した。小学四年の私にさえ何か伝わったあの顔、あの表情である。

 



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