トリノオリンピックが近づいてきた。当然のように8年前の長野オリンピックを思いだす。地元長野の開催だからというわけではなく、私の人生のターニングポイントになったイベントだったからだ。
大学を卒業し地元の銀行に就職して2年目の冬、「メディア村」の中に出店した両替業務用の臨時店舗での勤務を命じられたのだ。
就職後も英語の勉強を続け、人事部が行うTOEICのIPテストも積極的に受験していたため、声をかけてもらったのだと思う。「英語を使って仕事ができる」という喜びで、二つ返事でその出向を引き受けた。
世界中が注目するオリンピックの雰囲気の中で、またその情報発信の中心であるメディア村での勤務は夢の中にいるようであった。TOEICや英検合格のための勉強が中心であったにも拘らず、いざ外人を前にしても自然と英語が口をついてでてくるのに感動を覚え、その時から自分の中に「英語に関わる仕事をしたい」という気持ちが芽生え始めたのだ。
その後は、それまで以上に英語の勉強に力が入り、退職し、留学のため渡米。4年後のソルトレークシティオリンピックの開会式は、シアトルのホームステイ先でホストマザーのJudyと見ていたのです。
人生を変えてくれた長野オリンピックと、チャンスを与えてくれた人事部には、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。
大学を卒業し地元の銀行に就職して2年目の冬、「メディア村」の中に出店した両替業務用の臨時店舗での勤務を命じられたのだ。
就職後も英語の勉強を続け、人事部が行うTOEICのIPテストも積極的に受験していたため、声をかけてもらったのだと思う。「英語を使って仕事ができる」という喜びで、二つ返事でその出向を引き受けた。
世界中が注目するオリンピックの雰囲気の中で、またその情報発信の中心であるメディア村での勤務は夢の中にいるようであった。TOEICや英検合格のための勉強が中心であったにも拘らず、いざ外人を前にしても自然と英語が口をついてでてくるのに感動を覚え、その時から自分の中に「英語に関わる仕事をしたい」という気持ちが芽生え始めたのだ。
その後は、それまで以上に英語の勉強に力が入り、退職し、留学のため渡米。4年後のソルトレークシティオリンピックの開会式は、シアトルのホームステイ先でホストマザーのJudyと見ていたのです。
人生を変えてくれた長野オリンピックと、チャンスを与えてくれた人事部には、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。