指定校推薦で学内選考に通過した高3生の勉強態度が変わったという一昨日のブログ記事には、ツイッターやフェイスブックで多くの反応をいただきました。
その後、当学院に通う生徒たちに聞き込みをすると、一般入試で合格を目指している高3生の中でも、学校を欠席し、公共の自習室で勉強をするのが常態化しているとのことです。
「高校の授業を受けていても難関大学には合格できない」と生徒が考えるのは、生徒・親・学校の三者に問題があるように思います。
大学合格だけが目的なら、高校を辞めて高卒認定試験を受ければいいじゃないの?勉強以外の社会生活を通して過ごす3年間の意義に気付けていない生徒の責任。
欠席を容認してしまっている親の責任。
生徒を惹きつけて止まない授業を行うカリスマ性を持った教師がいない学校の責任。
偉そうに言っている私も、高3の時は他教科の内職をしたり、先生が板書している間に授業を抜け出し、同窓会館の裏でカップラーメンを食べて、再び授業に戻ったりしたこともあります。そんな態度だったから浪人し、予備校に通うようになりました。
そして、代ゼミで英語長文読解を担当してくれた宮尾慈良先生の最初の授業を受けた時、「高校では英語長文のこんな読み方、教えてくれなかったな。さすが、代ゼミの有名講師は違うぜ」と思いました。しかし、自分が英語を教える立場になり、様々な生徒と触れ合う中で、次のように考えるようになりました。
実は、高校の先生も予備校講師も、知識・技量的には大した違いはありません。では、何が違うのか?それは、予備校では、授業を受ける生徒の「心の準備」ができているのです。
浪人生は後がありません。高い授業料も払っています。だから、必死で講師の言うことを聞き、全てを受け入れようと、心の扉が開いているのです。しかし、高校生はまだ大学受験を経験していません。別に学校の授業を聞かなくても、我流で何とかなると思い、先生が予備校講師と同じように的を射た素晴らしい授業をしても、スッと心に届かないのです。
その心の準備をさせるのが「カリスマ性」と呼ばれるものなんでしょう。昼食後の最初の授業は、誰もが眠たくなるでしょう。その時間に、つまらない現代文の授業があったら、ほぼみな居眠りでしょう。でも、その教室に林修先生が来て、授業をしたら・・・。寝る人なんて皆無だと思いますよ。
今、高校時代に戻って、当時受けていた先生の授業を受けてみたいです。間違いなく、当時とは違った新しい発見があり、多くの学びがあると断言できます。なぜなら、今の私は心の準備ができているからです。
1991年 代々木ゼミナール冬期直前講習会 田村秀行先生「早大現代文」を受講する私(右:政治経済学部合格)と高校時代からの友人M君(左:法学部合格)