佐佐木信綱さんが出てきたから徳富蘇峰さんを思い出しておこう。徳富蘇峰なんて言っても知らないだろうな、徳富蘆花の兄さんである。蘆花でも通じないかも。
佐々木と変換してしまうが、信綱さんは佐佐木を佐々木とかかれることを嫌っていた。
さて、小学校6年生のことだ。社会科で文化勲章のことを習った。「熱海には文化勲章受章者が何人もいます。どんな方々がいるか調べてきなさい」と先生。こんなことは簡単、父に聞けば教えてもらえる。その通り簡単に教えてもらえた。
翌日、社会科のとき、それを発表すると、さらに「その方々がどんな仕事をしたのか、調べてきなさい」父に聞くのもいいけれど、「実際に本人にあってきいてみようよ。私、家、知ってるから」てなことで、まず、徳富蘇峰さんのところへいくことにした。学校から一番近かったからである。
女のクラスメイト3人で、徳富蘇峰さんの玄関に立った。出てきた女性の方に「先生にお目にかかりたい」というと、「しばらくお待ちください」と言って女性は引っ込んだ。徳富蘇峰さんがどういう方かなんて知らない。それからかなりの時間が経った。先ほどの女性に抱えられるようにして、和服姿の徳富蘇峰さんは現れた。大きな方に見えた。
「先生は病気なので、君たちとお話できないけど」と言って、私達一人一人に大きな柿を持たせ、「一生懸命勉強するんだよ」と言って大きな手で頭をなでた。大きな手はとても温かかった。そしてまた、その女性に付き添われて奥に戻っていった。「ありがとうございました」話を聞くという目的は達せられなかったけど、大きな柿をもらって、喜んで帰った。「明日は佐佐木信綱さんとこに行こう」
家に帰って、母に徳富蘇峰宅に伺ったこと、柿をもらったこと、そして明日は佐佐木信綱さんのところに行くんだと報告した。驚いたのは3人の子どもたちの親たちだった。どう話し合ったかは知らないが、文化勲章受章者宅めぐりはそこで止められてしまった。でも、いま思えば、徳富蘇峰さんは具合が悪かったのに、「病気だから」と断れば断れたものを、わざわざ起きて、着物を着替えて、子ども達の前に出てきてくださったのだった。もしこれが順序を違えて、谷崎潤一郎だったどうだろう。会ってくれただろうか。
この一件以来、ウチの親は私を佐佐木信綱さんや横山大観さん宅に連れて行ってくれた。そして信綱さんへのお届け物は私の役になったのであった。信綱さんの葬式に焼香、いや榊をあげに行った。
徳富蘇峰記念館は、二宮町にある。庭園の臥竜梅の梅林は見事である。今頃はきれいに咲いているだろう。今年は早いからもう盛りは過ぎたかも。この記念館は蘇峰さんの秘書をしていた方が建てたものだ。資料もあるが、蘇峰さん宛ての手紙類がたくさん所蔵されている。その手紙類は生前、蘇峰さんが貴重な資料になるから保存しておきなさいと言って、秘書にくれたものだそうだ。何回か見に行ったとき、父の名前を見つけた。秘書の娘さんが後を継いで館長をしているので、子どものころの柿のエピソードを話した。頭をなでられたのは、父以外では、蘇峰さん、ネール首相の記憶がある。
家には蘇峰さんの書があった。熱海っ子は見栄っ張りだから、その書で風呂敷をつくった。だれがつくったか知らないが、ナス紺のちりめん地に額に抜いた白地に書が染められていた。風呂敷でもよかったんだけど、きれいな紺だったので、2枚の風呂敷で、ツケ帯を作ってもらった。あれ、どこへやったかな。
蘇峰さんの亡くなったのは妹の誕生日の前だったか、当日だったか、とにかく11月だったとは覚えている。