ここんところネットで本を買うことが多い。以前は本屋で本を棚から取り出して、中身を見てから、おもしろそうなのを選んで買っていたので、ネットで中身を見ずに買うのは抵抗があったのだが、いつしかにネットで買うことが多くなった。そう、宣伝につられて。さすがプロの仕事、お勧めがうまいんだよ。だから読んでみて、こんな本買うんじゃなかったと思うものも多くなった。
コミックはたいていは小田原の豆屋で買う。豆屋のオバサンの商品知識と管理に敬服しているからである。連載ものなら、「何々出た?」と聞くだけでたちどころに在りかを教えてくれる。次はいつごろ出るとか、時には奥さんは何巻まで買ってあるはず、なんてすごい答えも返ってくる。古い本でも、その本はいつまであったが、もうないとも教えてくれる。
コミック以外はamazonに注文することが多い。というのは読書傾向が管理されていて、お勧めが来るからだ。思想チェックされているみたいでいやだなぁ、と言いながらも、結構お勧めには引っかかって買ってしまうのだ。今回も、先日アフリカ史を買ったので、その関連のお勧めに「最底辺の10億人」とうのがあり、そのうたい文句に引っかかった。
「柔軟性を欠く先進国、貪るだけの石油・建設企業、善意のみのNGO、だれも地獄の縁に生きるアフリカの人々を本気で救おうとはしていない。」「サハラ以南のアフリカの惨状、最貧の国々を捕らえ続ける四つの罠。1・紛争の罠。2・天然資源の罠。3・内陸国であることの罠。4・劣悪なガバナンス(統治)の罠」アフリカの状況は少なからず分かっているけど、この著者は救う手立てをどう考えているのか、と興味をそそられたのである。
読みかけの本はいっぱいある。机の上は読みかけの本がうずたかしと積んである。新しものがりやではないのだが、新しいものから開いてしまう。読みやすい。う~ん、この手の本は図書館で借りた方がいいのだが。
子どものころは、戦後のことでもあり、市の図書館は御用邸の後を利用した小さなもので、それでも熱海に住んでいた作家たちの寄贈で彼らの全集が揃っていた。市の図書館で借りて読んだ本は「新平家物語」「富士に立つ影」「大菩薩峠」ぐらいだろうか。高校の図書室には女学校時代の戦前戦中の愛国主義的な本が隠すように後に並んでいた。それらを引っ張り出しては借りて読んでいた。高校生だからかなりものは分かるようになっていたし、戦後の民主主義の洗礼を受けて育っているから、批判精神もあるし、そういう本は却っておもしろかった。高校の図書室にはお世話になったな。そんなに蔵書は多い方ではなかったが、棚の図書は片っ端から借りて読んだ。「化学史」上下なんて私一人しか借りていなかった。
とはいえ、高校の図書は学校に行っているから身近にあったからで、わざわざ図書館まで出かけて行って借りるのは面倒だった。で、だんだん自分で買うようになった。幸いにも本を買える家庭であった。我が家には本がたくさんあったし、両親はそれぞれに絶えず本を買っていたし、本を買うことは普通のことであった。だから、それが身についてしまったのだろう。
真鶴の図書館で本を借りたのは3回しかない。1冊は題名は忘れたけど、スタインベックが犬を連れてUSAを車で移動する、ちょっと文明批評的な話、この翻訳本はもう絶版で買えなかったから探してもらったのだった。翻訳本はなかったが、原書はあったので、丸善で買ってきたがこれは読んでいない。で、題名も忘れてしまった。チャーリーって言うのが犬の名前だったような??
二冊目はタゴールの「チャンパの花」の詩を探してもらった。子どものころ教科書に載っていたこの詩の訳がほしかったのだ。しかし残念ながら私が覚えている訳ではなかった。訳が違うと詩の世界がまったく違ってしまう。
三冊目は「オシアン」、これは絶版、で、探してもらった。紙が赤茶けた、しかも字の小さな岩波文庫が届いた。これを読むのは大変苦労だった。内容はとてもよかったけど。すぐ目が疲れる、しかも期日の制限がある。絶版本はいたし方がないとしても、やはり買えるものは自分で買って読もう、あっち読みこっち読みでもいいから、ということになってしまった。
ほんとは内心、もう出来るだけ本を増やさないようにしようと思っているのが。本をゴミにするのもかわいそうだからね。読み終わったら片っ端から図書館に寄贈したいけど、私の読む本は内容は多岐だけど、偏っているから、みんなに読んでもらえそうもない。