なん十年ぶりに熱海の同級生から電話をもらった。「熱海市報2020年10月号に熱海大火が特集されていて、あんたのお父さんのことが載っていて、懐かしくなって、電話をした」と言った。「うん、熱海の大火の時、親父さんは市長だったんだよ.市街の4分の1が燃える、ひどい大火だったね。よく覚えているよ」いろんな話をした。「そうだったね、3月が駅前の大火で、4月が熱海の大火。駅前は6年生、熱海の大火は中学1年生。でも、一緒に駅頭に立って募金活動したっけね。担任の岩本先生に相談したら、即座に賛成してくれ、募金箱を作って、熱海中学校有志と白い紙に墨筆で書いてくれたね。それをもって毎日、駅頭で募金呼びかけたっけ。通る人たち、みんな募金してくれたね」なんて思い出を話し合った。
駅前の大火ではクラスメイトのウ~ちゃんが焼き出された。火元に近かったので、着の身着のまま逃げて、おしゃれな彼女が、卒業式には普段着だった。然も下駄ばきだった。そこで友人とお小遣いを出し合って、ズックを買って持って行った。高いものは買えないからごくごく普通のズック靴。その時、お見舞いに来ていたお客さんが、革靴を買ってあげる。サイズは?と言っているのも聞いて、恥ずかしくなったのを覚えている。でも、大人になって、彼女が、「あの時和子とどんちゃんがズックを買ってきてくれた。あれが何よりもうれしかった」と言ってくれたので私たちもうれしかった。そのどんちゃんの家も10日後の熱海の大火で燃えてしまった。同級生たちが大勢被災したので、もうとてもお見舞いは持っていかれなかった。だから募金活動をしたのだ。募金は毎日仮設の市役所(テント張りだったような)に届けた。
市報を見ると駅前の仲見世火災は4月3日となっている。あれ、じゃ~、小学校の卒業式は4月だったんだろうか。卒業式は講堂で行われた。この時焼け出されたウ~ちゃんはもう故人。聞きたくてももう聞けない。卒業式の時、彼女は6年間皆勤で、表彰されたんだった。賞を受け取るために階段に上がる彼女の後姿、真っ赤なスウェーターに黒いスカート、をちゃんと覚えている。次の大火が13日、その間に中学校の入学式も終えてクラスも決まったいたんだ。
新制中学校は戦後の発足たから、まだ校舎が全部できていなかった。2,3年生が桃山の校舎で、1年生は小学校の一角を借りての仮校舎だった。もっとも私たち1年生にはその方が勝手知ったるで、楽だった。1年は8クラスあって、私は8組だった。
🔷熱海大火 1950年4月13日。
🔷熱海市報
https://www.city.atami.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/430/202010.pdf
アメリカ人が撮った、熱海の大火で燃え落ちる市役所のカラー写真持っているんだ。資料として、市に寄贈していこうかな。その前に探さなくっちゃならないけど。
アルバムに貼ってあるのだが、やはりアルバムをどこかに閉まってしまったらしく、簡単には出てこない。毎度のこと。ゆっくり探そう。貴重な写真だからね。
この大火が熱海の区画整理を押しすすめ、1車線の道路が歩道付きの2車線になった。
小学校の卒業式で市長賞をもらった友人に、たまたま彼女のアドレスだけノートにあった、電話してみた。それこそなん十年ぶりに。向こうもいきなりの電話にびっくりしていた。で、かくかくしかじか、小学校の卒業式はいつだったか聞いてみた。3月だったんじゃないの。じゃ~、あのウ~ちゃんの姿は、私の記憶違い?記憶がいろいろ錯綜する。卒業式は講堂だったでしょ、確か講堂は被災者にの貸し与えられたでしょ。うん、貸し与えられたことは覚えているけれど???
ズックや募金の話をすると、あんた行動的だったのね、と言われた。親の子だからね、と私もすまして答えた。でも・・・