Cogito

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思い出して

2007-02-12 10:09:27 | インポート

テレビで「熱海を救え」なんてオビが出ているのを見た。やはり熱海と言う文字が出ると気になる。そこでなにを言いたいのか、二人で見ていた。団塊の世代を狙っての誘致作戦だ。初の見学ツアーなるものを市が行って、14人の人が参加した。町を歩いて、見番で芸者衆の踊りを見せたり、となんか市の意識はぜんぜん遅れている。最終的に見せた造成地は市が行った多賀の山の上のほうの土地。参加者からアクセスを指摘されて、それを考慮に入れるべきでした、とはお粗末。アクセスは市が考えています、何年度までには・・ぐらい言えなきゃ~。ダメだなぁ。

こんなじゃ~、熱海は救えないよ。新市長が財政危機宣言をしたら、観光のイメージにマイナスだと言って、撤回させられた。実際に財政危機なのに。財政危機宣言を逆手にとって、市は財政危機ですが、おもてなしはそれ以上にもっと心でサービスいたします、とPRしてもよさそうなのに。市民の意識がかわらなきゃとても救えないよ。

「国際文化観光都市の~、しるしの梅の香りを胸に~」と歌っていたら、「そんな歌あるの」ときかれた。「中学校の校歌だよ。中学校はまだあるから、校歌は代わっていないだろうね」
「さぁ~」「平和な国を築かんために、自主の精神養い修め~」「いい内容だね」「佐々木信綱さんの作だもの。高校は多賀にいっちゃったから、きっと校歌は変わったろうね。高校のは草野心平さんの作だったんだ」

草野心平さんと言えば、お目にかかったことがある。もちろん詩の話を聞きに行ったのだが、なんと料理の話を伺ってきた。そのとき、「私の高校の校歌は先生の作でしたよ」と言うと、「あの頃は、食えなくてね。やたらと校歌を作ったから、一つも覚えていない」といわれて、がっくりしたことがある。

信綱さん宅は西山にあり、お届け物はすべて私が行っていた。行く度に本を下さり、「万葉集が、こんどは何語に翻訳されましたよ」とうれしそうに話してくれた。当時6ケ国語くらいだったろうか。先生たちは鹿鳴館に出入りしていた世代。とてもついていけなかった

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勉強嫌いなラッキー

2007-02-08 15:23:42 | 動物記

子ども達がラッキーを迎えに来て、教室に連れて行く。でもすぐ帰って来てしまう。動作がすばやいのだ。

昨日も女の子が迎えに来た。この子はラッキーの最初の里親である。そしてこの子のおばあちゃんが飼い主になる予定だった。だから一週間以上、この子の家で育てられていた。それを覚えているのか分からないが、その子にはおとなしくだかさって行く。「○ちゃんの匂いを覚えているみたいよ」というとうれしそうだ。和美さんによると、この子はネコが苦手だったが、ラッキーの面倒見たことで、すっかり好きになったという。ラッキーも役にたっている。

連れて行かれて間もなく、台所の椅子に黒いネコが寝そべっているのに気がついた。ジョイスかな、と思ったが、よく見るとラッキー。あらやだ、もう帰ってきちゃったんだ。ラッキーは勉強が嫌いなんだ。

リモージュというジョイスやマルメのママネコがいた。このネコは子ども達が好きで、教室に入り浸っていた。で、教室の主ということで、アルジーという別名が付いた。だから子ども達もリモージュを可愛がっていた。可愛がられるから、リモージュも居心地がよかったんだろう。

「リモージュは風邪気味なので今日はは欠席します」なんて欠席届けを出しても、いつの間にかリモージュが教室に来ている。「リモージュは勉強が好きなんだね」

ある朝、通り近くの人から「ネコが車にはねられた。お宅のではないか」と電話がかかった。急いで行ってみると、リモージュだった。もう死んでいたが、まだ温かかった。連れてきて、埋葬すると、6年生の男の子がやってきた。「リモージュ、はねられたって本当ですか?」と、涙をいっぱい浮かべていたが「うん、今埋めたところ」とうと、我慢しきれなくなって泣き出した。

この子は父子家庭だったが、その父親が死んでしまって、伯母さんの家に引き取られていた。そんなこともあって、さびしかったのだろう、リモージュをことのほか可愛がっていたのだ。
この子も、もう大学生だ。

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タンポポ

2007-02-07 10:52:58 | 日記・エッセイ・コラム

Tanpopo タンポポが咲いている。ロゼットいなった葉の間から黄色い花を咲かせている。入口の今クリの隙間に根を張ったタンポポ。虫ってしまおうかなと思ったが、健気に冬を耐えているようなので放っておいた。寒くなってロゼットになった。春はまだまだと思っていたら、日当たりの良い場所なので、この暖かさに花をつけてしまったらしい。草類はいいが、木は十分眠らないで春の準備をしてしまって大丈夫なのかな。

Ravenda ラベンダーがよく咲いている。マメザクラはもうおわりのようだ。

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ドライブ

2007-02-04 10:56:34 | 国内の旅

2月3日(土)

9時過ぎ、のそのそ起きだすと、pcの部屋は6℃。ひゃ~寒い。夕べは冷えたんだ、ジョロウグモは大丈夫だろうか。見回りに行く。触ってみると3匹とも足を動かす。むしろ昨日より元気に逃げる。無事だった。

「いい天気だから外出しない?ウチにばかりいて日に当たらないから風邪が治らないんだよ」とPapasan。「出かけてもいいよ、どこへ行くの?」「そうだね、初島でも行こうか」

外を見ると海の方はガスがかっている。裏は晴天。「箱根の方がいいかもよ。」とにかく、カメラバッグを肩にかけて出かけていく。吉浜は渋滞。やっぱり箱根だよ、と勝手知ったる横道を通って、奥湯河原からパークウェイを上る。光がまぶしいくらいだ。紫っぽい冬枯れの山の景色は好きなんだ。今日は富士山はきれいかも。

Mtfuji 富士山だ、宝永山あたりがもやっている。雪煙かな。真っ白な南アルプスもよく見える。ただし駿河湾の方はかすんでいて遠望がきかない。毎度のことながら湖畔を通って湖尻に。

「走ったことがない道を行こうよ。深良用水を長泉に下ってみようよ。たしか先生様が有料道路を100円払って突っ切ればいいって言ってたよ」てなことで、100円払ってスカイラインに入った。幹線に出たが、それらしき道は見えない。ボードには、すこし元箱根方面へ行くと裾野に下りる道がある。あれかも。そこで、そっちに向って走った。先生は横切るって言っていたけどなぁ。ともかく三国峠まで行ったが、下りる道はない。深良水門が湖尻なんだから、そんなに戻るはずがない。しかたがない、戻ろう。湖尻に下りるところに来ると、本線に並行するように細い道が下っているのに気がついた。これだよ。行ってみよう。

箱根峠から深良へ下る道は県道377号線。車どおりなんてないと思っていたら、上ってくる車に何台もあった。深良用水はどう流れているんだろう。途中に東電の発電所があるはずだがどこだろう。深良用水は江戸時代、水不足に苦しんでいた農民のために深良村の庄屋が幕府の許可をとって芦ノ湖の水を引いたのだった。箱根峠をトンネルでくりぬき、水を下に流したのだった。このおかげで、水利権が発生し、神奈川県は県内にある芦ノ湖の水を使うことが出来ない。いまだに芦ノ湖が増水したときだけ、水門を開けて早川に水を流す。先をみる政治家がいないと、子孫はこういう憂き目にあうことになる。これを題材にして「箱根風雲録」という映画が作られた。内容は少し脚色され感動的だったように思う。映画は見ている。

「註:箱根用水 はこねようすい 深良(ふから)用水ともいう。箱根の湖尻峠の下にトンネルを開削し、芦ノ湖の水を駿河国駿東郡にひき、深良村(静岡県裾野市)ほか29カ村の水田を灌漑(かんがい)した用水。当時は箱根掘貫(ほりぬき)とよばれた。水不足になやむ深良村名主の大庭源之丞(げんのじょう)が用水計画をたて、江戸町人の友野与右衛門ら3人の協力をえて、小田原藩と幕府に許可をもとめ、1666(寛文6)トンネルの開削工事を開始した。1350mにもなるトンネルは、幕府から6000両の借入金と小田原藩領の村々からの工事人足の提供で、70年にようやく完成した。用水の完成で約530haの畑地の水田化が可能となり、6000石余の生産高の増加が実現したという。17世紀後半の大規模新田開発の数少ない成功例といえる。

友野らは用水管理の元締めとなり、投下資金の回収に成功しているが、その後、撤退。のち、用水の成功で長泉町の芦ノ湖神社にまつられることになる。明治期以降も、芦ノ湖の水利権をめぐって駿東郡側と箱根側の村の間で紛争がおきるなど、周辺住民の生活をささえる重要な用水である。」(エンカルタ百科辞典より)

深良村は裾野市になっている。はじめての道なので、野次馬はきょろきょろあたりを眺めている。長泉町を通った。長泉町は合併していないようだ。がんばれ。美術館があるはずだけど、どこかな。何度も行ったことはあるけど、道が違うとわからない。三島に入った。佐野美術館は何をやっているかな、などいいながら前に来ると、すごい人出。みると源氏物語絵巻が展示されているようだ。またにしようと、通り過ぎた。136号線の入り口は混んでいる。1号線を箱根に向うが、私は熱函道路で野菜を買うんだといったので、横道に入る。「どこへ行くの」「道があるから」禅問答みたいなことを言っている。「この道はどこへ行く道?あれ、この道、来たことあるよ。ほら、玉沢の名刹だよ。この前来たとき、あの健康センターとかでお茶を飲んだよ」

Tamasawa このお寺は玉沢妙法華寺、日蓮上人の高弟日昭上人によって鎌倉に開山され、江戸時代に熱心な信者であった徳川家康の側室お万の方によってこの地に移され、七堂伽藍が完成した。当時の敷地面積は5万坪あったという。説明はPapasan。山門につながる百間堀の塀も新しくなったように思える。

Umemi 境内は日差しが明るく、たくさん植えられている梅の古木。紅梅は咲き誇っていたが白梅はまだ蕾がふくらんでいる程度だった。シジュウカラやヤマガラが木の間を飛んでいる。

Hyakkennhei 百間掘

Koubai_2 紅梅は満開    

                           

この道がどこに行くか行ってみよう、と山道を上っていくと、なんと国道一号に出た振り出しに戻ってパークウェイを下って帰ってきた。

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マンガ喫茶

2007-02-01 23:22:43 | 日記・エッセイ・コラム

マンガ喫茶のリポートを見た。NHKだから、どんなリポートになるか、期待もせずに単にマンガ喫茶がどんなものか、そこに関心を持ってみていた。上野近辺の人気のあるマンガ喫茶だそうだ。マンガ喫茶なるものに行ったことはない。マンガ喫茶とはネットカフェのことだと思っていた。外国ではネットカフェは何回も利用している。1時間いくらで料金を払っている。

マンガ喫茶は行ったことがないから仕組みはよく分からない。
リポートだと、細い通路を隔てて狭い個室が並んでいる。個室にはパソコンの置いてある机と椅子、1畳くらいあるのだろうか。本棚にはぎっしりとマンガが並んでいる。そこからマンガと持って個室で読むみたいだ。どうもカラオケみたいに部屋代と食料費が料金になるみたいだ。

深夜近くなると個室はいっぱいになる。若い人が多い。ネットを使いに来る人、マンガを読みに来る人、しかしほとんどの人ががここで夜をすごすようだ。ここで仮眠して始発を待つ人、ちょっとしたホテル代わりみたいだ。

ちょうど前日ドキュメントで、このマンガ喫茶で過ごしている若者たちの現状を取り上げていた。遊びですごすのではない、ここが家代わりなのだ。定職を持たない低所得者ゆえに、アパートを追い出され、生活の場がない、いわゆる若いホームレスだ。衣類はロッカーに預け、日雇いをしているが、日雇賃金も搾取され、手の入るわずかな金でその日その日を暮らしている。

たぶん就職したくとも定住の場がなければ就職は出来ないだろう。その日暮らしでは国民年金も国民保健も払えない。国民年金を払わない人たちが増えていると国は強制に踏み切ろうとしているが、払えない実態をなんとかしないと解決しないだろう。まだ若いから体がもつのだろうが、病気になったらどうするのだろう。

大阪のホームレスの支援団体に少しばかりだがカンパしているので、働きたくても働けない事情はよく分かっている。大阪のホームレスのほとんどが高齢者だ。せめて温かな布団の上で寝かせてあげたいと思っているのだが、この若年のホームレスの現実を目の当たりにされ、愕然とした。

働いていても正規ではなく、パートやフリーター扱いで、低所得に甘んじている人たちが大勢いる。次の世代が安心して暮らせないような社会を作っている政治、先進国ぶっているけど、若者と年寄りをスポイルして、実態は日本は恥ずかしい国だよ。

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