「国のために」の国の姿を問わない安倍晋三・中川昭一・稲田朋美たちの愛国心

2008-04-06 06:05:12 | Weblog

 安倍晋三は自らが法案を上程・成立させた「改正教育基本法」(平成18年12月22日公布・施行)で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と、「愛国心教育」を規定した。
 先月28日(3月)に文科相が告示し、平成24年4月1日から施行する小中学校改訂学習指導要領でも「改正教育基本法」の「愛国心教育」の企みを道徳教育の名を借りて反映すべく、「第1章 総則」で同じ要求を行っている。

 <道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 道徳教育を進めるに当たっては,教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに,生徒が道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚を深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,職場体験活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に生徒が自他の生命を尊重し,規律ある生活ができ,自分の将来を考え,法やきまりの意義の理解を深め,主体的に社会の形成に参画し,国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けるようにすることなどに配慮しなければならない。>・・・・・

 「道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚」の要求は学校の生徒以上に日本のすべての政治家・官僚・公務員に求めなければならない規範のはずだが、学校の生徒のみに求めることによって大人たちは自分たちを「道徳的価値」を備えた人間と装うことができ、頭から信じてそれらしい人間として振舞っている。

 大人本人は気づいていなくても、無意識が内心に抱えたその矛盾に気づかされているから、勢い要求が余程の人間でもなければなかなかに実現できない過大な内容となる。伝統と文化の尊重、愛国心の育成と郷土愛、個性豊かな文化の創造、公共の精神の育成、民主的な社会及び国家の発展への寄与、他国の尊重,国際社会の平和と発展及び環境保全に向けた貢献、そのためには道徳心を養ってそれを未来を拓く主体性の原動力としろ。

 そして一方でテストの成績を上げろと尻を叩く。結局実利(=テストの成績)が優って、道徳的価値の育みは掛け声倒れとなる。

 勿論このことばかりが道徳だ、愛国心だと言わなければならない理由ではない。大体が「国際社会に生きる日本人としての自覚」を持った大人がどれ程いると言うのだろうか。私利私益・私腹肥やしの日本の大人たちばかりではないか。つまるところ、何から何までの過大な要求は大人たちが欠如させている精神性を身代わりに埋め合わせるための代償的欲求となっている。

 子供たちの各種精神性の欠如は大人の欠如を正直に受け継いだ存在性でありながら、自らの欠如を放置したまま、子供たちにのみ道徳的価値に基づいた生き方を求める。結果として子供たちが道徳的価値を学ぶ教師とはなり得ない大人たちから学ぶという滑稽で倒錯した教育が行われることとなって、無意味を成果とすることになる。

 無意味な成果であることは大人たちの劣等な道徳性が証明している。その永遠の循環となっているからこそ、いつまでもバカの一つ覚えのように道徳だ、愛国心だと囀ることになる。

 大人たちが持っていない精神性を子供たちに求める白々しい矛盾・食い違いは「愛国心」教育そのものについても言える。道徳性を欠いた人間が標榜する愛国心が果たして真正な愛国心足り得るのかを問題とせずに子供たちに愛国心を求めているからである。

 道徳性を欠いた大人たちが子供に道徳性を求めることによって自分たち大人が道徳性を備えた人間だと自他に思わせることができる無意識の心理的詐術を愛国心を求める行為でも行っている疑いが生じる。

 道徳性を欠いた愛国心の標榜だからこそ、「国家愛」のモデルを必要とし、そのモデルへの押し付けとなるのではないか。安倍晋三や中川昭一、あるいは稲田朋美といった一部突出した政治家たちの「国家愛」のモデルは断るまでもなく戦前の日本である。民主主義と自由・平等を基盤とした理想の国家像を創造し得る程の優れた道徳性を備えていないから、過去に国家のモデルを求める。

 戦前日本を「国家愛」のモデルとしているからこそ、戦前日本のどのような否定も許すことができない。戦前の従軍慰安婦制度を旧日本軍の強制的関与による犯罪だと断罪する<「女性国際戦犯法廷」のNHKテレビ放送に安倍晋三や中川昭一が反対する立場から介入し、中国人監督の映画「靖国 YASUKUNI」が「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージ」を発しているからと映画の思想そのものを否定する立場から稲田朋美が文化庁の助成金を受けて制作されたのはふさわしくないという口実は設けて言論の自由の制限に当たる介入を行う。

 すべてが戦前日本の否定に対する否定の構図を取っている。

 彼らが思い描く理想の日本とは天皇を戴いて明治維新を実現した日本であり、日清・日露戦争に勝利した日本であり、「八紘一宇」を「肇国の大精神」(=建国の理念)としていた時代の日本であり、日本のアジア支配を目的とした「大東亜共栄」の大構想を掲げていた大日本であり、天皇が統帥権を持ち、「国のために命をなげうってでも守ろうとした特攻隊員」(安倍晋三)が存在した日本であり、「国体の本義」に美しく描かれている完璧な日本である。

 だから、軍強制による従軍慰安婦も認めることができなかったし、中国人強制労働も南京虐殺も軍強制の沖縄集団自決も認めることができなかった。日本が起こした戦争を侵略戦争であったことも認めることができなかった。勿論、東京裁判も勝者による裁判で認めてはいない。そして現在、認めざるを得ない場合は部分的に認めているが、決して心の底からの許容とはなっていない。

 戦前の大日本帝国に偉大さを見ているのである。偉大さの人間的象徴が軍服を着て白馬に跨った昭和天皇である。

 言って見れば、安倍や中川、稲田が言う「愛国心」とは持つべき国家観を限りなく戦前の日本の国家観に近づけ、その精神性を担わせることを意味している。過去の日本への限りない親和性は国際性を犠牲として獲得可能とする。にも関わらず学習指導要領で小中学生に「国際社会に生きる日本人としての自覚」を求める矛盾を犯して平然としていられる。

 安倍「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)

 それにしても「命をなげうってでも」どころか、正反対に自分の健康を優先させる命欲しさから、あまりにもあっさりと総理大臣職を投げ捨てたものである。
 安倍や中川、稲田の単細胞なところは自分たちが理想の対象としている「国家」の姿を問う合理性を欠いていることである。欠いているからこそ、単純に戦前日本を肯定でき、否定する動きに単純に反発する。

 金正日を狂信的に妄信している北朝鮮人が将軍様のため、首領様のためにといくら「命を投げうって」も構わないが、民主主義を信奉する国の人間は金正日の独裁体制、その国の姿を考えた場合、その「命の投げうち」を肯定できるだろうか。

 問題は「国の姿」である。靖国神社にしても「国のために命を捧げた戦死者の御霊を追悼する場所」と国家的な価値づけを行っているが、命を捧げる対象とした「国の姿」を問わない追悼であり、そのことに何ら疑問を感じなかったなら、再び「国の姿」を問わない愚かしい「命の投げうち」を再現することになるだろう。

 自民党と公明党が支配する現在の「国の姿」を考えた場合、今の日本という国には心の底から命を投げうつ気にはならないことだけは確かである。安倍や中川らを喜ばせるだけだからだ。
 
 「国の姿」を問わすに戦前日本を理想の国家像とする過去へ傾倒する精神性は言ってみれば大日本帝国陸軍が主力銃としていた三八式歩兵銃の前近代性に相応する精神性と言わざるを得ない。

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