大阪府の橋下徹知事が11月2日に大阪市内で開催の職業系高校生の学習発表会「第18回全国産業教育フェア大阪大会」開会式での挨拶で、「僕らの世代は日の丸、君が代をまったく教えられていない」と自身が受けてきた教育を批判、生徒たちに「国旗、国歌を意識してほしい」と訴えたという(≪「国旗、国歌意識して」 橋下知事が高校生に呼びかけ) msn産経/2008.11.2 19:13 )。
同記事によると、国歌斉唱後の挨拶に立った橋下知事が開口一番、「高校生の諸君にメッセージを発したい」と(多分、例の勇ましく自信たっぷりな、どちらかと言うと甲高い断言口調で)切り出して記事にある言葉をそのままに伝えると次のようなメッセージを発した。
「僕らの世代は最悪の教育を受けてきた。何でも生徒の自由にした結果、生徒と教師が同じ目線で話すようになってきた。バカを言っちゃいけない」
「君たちが受けているのは社会とつながりのある教育」
「国歌斉唱時は(歌声が小さかったので)残念だった。社会を意識するためには国旗や国歌を意識しなければならない」
「いろいろな意見はあるが、それは大人になって議論すればいい」
そして報道陣の取材に対しては、
「(この問題は)教育委員会にきちんと議論してもらうべきだと思うが、今、国旗と国歌がある以上、きちんと(生徒には)認識してもらわないと。それは教育として本質的な部分だ」
同日付の「毎日jp」記事(≪橋下知事:「国旗・国歌を意識すべきだ」 高校生の大会で≫)が伝える橋下知事の言葉は、
「戦後教育の中でも最悪。国歌も歌わされたことがない」
「君らの世代の時に、社会の中でどんな役割を担うかを意識しなければ。社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」
「僕は39歳だが、受けてきた教育は何でもかんでも生徒の自由。日の丸・君が代もまったく教えられなかった。結果を出しても評価されず、差がつくこともだめ。そういう教育はおかしい」
報道陣に対しては、
「どういう国旗・国歌がいいかは彼らが大人になってから議論すればいい。国旗と国歌を認識するのは教育の本質的な部分」
両記事が書き上げている橋下知事の発言は微妙に異なる上に実際にどのようなつながりで最初から最後まで具体的にどう述べたかは不明で憶測するしかないが、憶測能力が弱いから、暗記教育で育った者として1+1=2式に両方の記事の発言をただ単に機械的に足してみた。
「戦後教育の中でも僕らの世代は最悪の教育を受けてきた。僕は39歳だが、受けてきた教育は何でもかんでも生徒の自由。日の丸・君が代もまったく教えられなかった。結果を出しても評価されず、差がつくこともだめ。何でも生徒の自由にした結果、生徒と教師が同じ目線で話すようになってきた。バカを言っちゃいけない。そういう教育はおかしい。君らの世代の時に、社会の中でどんな役割を担うかを意識しなけれならない。社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない。国旗と国歌がある以上、きちんと生徒には認識してもらわないといけない」――
「社会の中でどんな役割を担うかを意識」する人間が高校生・大学生ではなくとも、全日本人の中でどれ程いるのだろうか。そのように意識しつつ、日々の生活を送っている人間だどれ程いるというのだろうか。
将来像を夢として述べることはあっても、何を学びたいのか、どのような職業で身を立てたいのか前以て具体的に考える人間も少ないのではないのか。学校が教えることを機械的に学び受け止め、高校生はその成績に合う大学、大学生はその成績に合う企業を進路として選択していくといったところが実情となっているのではないだろうか。
自分自身が選択した職業に関わる役割と自身が置かれている生徒・学生・社会人・父親・母親といった社会的な身分に課せられた責任と義務を果たしさえすれば、それが結果的に社会へと跳ね返って社会的な役割の遂行へとつながっていく。最初から社会的な役割を意識して生活する人間など存在しないと思うのだが、どうなのだろうか。
人間は自らが所属する“国の姿”、“社会の姿”は考える(「意識する」)。否応もなしに考えさせられる(「意識」させられる)。自己の生存・利害に関係してくるからだが、だからと言って、「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」と言うことにはならないだろう。国旗・国家が自己の生存・利害に常時関係するわけではないからだ。
勿論、国旗・国歌に対してそれぞれが考えを持つと言うことはあり得る。その考えは自身が考える国の姿、あるいは社会の姿との関連で異なってくるのは当然の趨勢だが、人間が生活していく上で常に社会を意識するわけではないと同様に、社会を意識したからといって、常に国旗や国歌を意識するわけではない。
当然、社会を意識した場合、国旗や国歌を意識しなければならないと言うことはない。それを我が橋下知事は「「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」などと言う。
どうも国歌斉唱後の挨拶だと言うから、その続きで思いつきで喋ったような印象を受ける。もし思いつきではなく、前以て用意したメッセージということなら、粗雑極まりないメッセージとなっている。
初めて愛国心への言及が盛り込まれ、賛否の議論を巻き起こした「改正教育基本法」の第二条「教育の目標」第5項が「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と規定しているように日本人が「愛国心」と言うとき、単純に愛する対象の最上位に国家を置く。他国の場合も、「他国を尊重し」と尊重の対象に「国家」を置いている。
日本の国家の場合は日本独自の歴史・伝統・文化を育んできた。そういった素晴らしい優れた歴史・伝統・文化を骨格とさせた国家を常に想定させている。
我が日本の偉大な政治家中山成彬が文部科学大臣時代に静岡市で05年11月開催の教育タウンミーテイングでもって「正しい歴史教育と国旗・国歌に敬意を表することが大事、(愛国心を)子供に植え付けるには、親が子供を大事にすること、子供たちが親に感謝する気持ちを持つことだ。ふるさとを愛し国を愛する心、日本を守っていかなければならないという意識が生まれるのではないか。(中国の)過激な愛国教育はいけない 」(≪中山文科相、愛国心教育の重要性を強調…日教組批判も≫(05年6月12日/YOMIURI ONLINE)と述べたことも愛国心の最上対象に「国」(=国家)を置いている。
このような考え方には国家がときには負の姿を取るという認識はない。戦前の日本のように国家の姿を間違えることがあるという客観的認識である。国家が自らの姿を間違えれば、歴史は負の姿を取り、文化も伝統も絶対的ではなくなる。
だが、日本の歴史・伝統・文化を言うとき、あるいは「愛国心」を言うとき、歴史も伝統も文化も、それらを内容とした国家の姿もときには負の姿を取るとは考えず、逆にすべてを全面肯定によって成り立たせている。
これは日本国家性善説とも言える主張と言える。日本民族優越意識が日本国家無誤謬説を生み出していることに添う主張であろう。愛国心に於ける国を愛する対象に国家を置いていること自体が既に日本国家性善説に立った考え方となっていることを示す。
国家が常に正しい姿を取ると看做して、愛国心の対象に国家を置き、国を愛しろと言う。それも多くは国家権力の立場にある者が国家権力の圏外にある者に向かって。
いわばお上が下々の者に向かって「お上を愛せよ」と言っている。それと同じであろう。「愛国心」を国民から国家に向けた行為と定めていることから生じている構図とも言える
上からの命令・指示によって、下から上に向けた方向性を持たせた従属によって成り立たせている日本の「愛国心」なのである。国家が常に性善の姿を取るものと規定して国家の側から国民に「国を愛せよ」と一方的に要求することほど危険なことはないだろう。「要求」が戦前のように「強制」の姿――国家への忠誠を取らない保証はない。
そして愛国心の表現行為の一つに国旗・国歌への敬意を置く。愛国心表明のバロメーターとしている。あるいはしようとしている。
日の丸・君が代(=国旗・国歌)への敬意を正当化しようとしている者はアメリカ人が国旗・国歌に対して如何に敬虔な態度で以って敬意を表するかを例に上げ、日本人はそういった姿勢が不足していると比較する。
偉大なる総理大臣だった安倍晋三も自著『美しい国へ』で国旗・国歌に関して次のように書いている。
<「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国歌
アメリカでスポーツイベントの開会のとき、かならず歌われるのが国歌である。プロバスケットリーグのNBAや野球のメジャーリーグの開幕戦など、人気イベントになると大物ミュージシャンが招かれ、それが朗々とうたわれる。>と――
いわば、そうなってはいない日本をおかしいと言っている。例え「『君が代』は世界でも珍しい非戦闘的な国歌」であっても、戦前そうであったように天皇の絶対性・優越性を謳い上げる国歌としての利用も可能であることにまで考えが向かないのは安倍晋三らしい短絡思考となっている。天皇の絶対性・優越性を謳い上げて日の丸・君が代に日本国家の優越性を担わせ、国民を侵略戦争に駆り立てる「戦闘性」を導き出す道具とした。「非戦闘的な国歌」に対する何という見事な逆説性であろうか。
いくら戦後日本人とアメリカ人の国旗・国歌に対する態度の違いを言い立て、後者を立派だと、あるいは国民のあるべき姿だと評価しようとも、日本人とアメリカ人では決定的に違う点がある。
既に多くの人間が指摘していることだろうが、日本人は一般的には集団主義・権威主義を行動様式としているが、アメリカ人は個人主義を一般的な行動様式としているという違いである。それを無視して単細胞にも「アメリカ人は日本人と違って国旗・国家に常に敬意を表している」という。
日本人が集団主義・権威主義を行動様式としているということは戦前程に強い強制力が働いていなくても、国家を最大・最上の集団であると同時に最大・最強の権威と規定していて、国民をそれに従う下の存在に置く上下の力が作用していることを意味する。
国家と国民をそういう上下関係に置いているからこそ、「愛国心」の対象を国家とし得るのである。国家権力の立場にある者が自らが所属する国家を愛せよと言えるのはそのためであろう。もし国家と国民が権威主義から離れて対等の関係にあるとするなら、国家権力の側から国家を愛せよなどとは言えなくなる。
それが言えるところに、あるいは言っているところに問題がある。
こういったことも考えずに、橋下府知事は「国旗、国歌を意識してほしい」と言う。
アメリカ人にとっての「愛国心」とはアメリカが持っている理想を重んじる気持なのだそうだ。米ハーバード大学教授の歴史学者アンドルー・ゴードンが過去の負の歴史の克服に関わる日米の姿を語る中でのことだが、そう言っているのだから間違いはないだろう(07年3月1日『朝日』朝刊。≪歴史と向き合う 過去を克服するために≫)。
参考のためにその箇所だけを引用。
「多くのアメリカ人は、愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持なのだという点でユニークだ、と言うでしょう。私も米国のどこが好きかといえば、この国にあるいくつかの理想ということになる。ただ、他の国にそういう形の愛国心はないかというと、つまり米国がそれほど特別なのかというと、必ずしもそうではありません。フランスには市民革命以来の理想があるし、英国についても同様なことが言えるでしょう。問題は、その国が掲げる理想と現実のギャップをどう埋めるのかということで、それが各国共通の課題になっているのです」――
「愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持」であって、単純に国、あるいは国家を対象とはしていない。
これは日本人のように国家を上に置いて国民がそれに従う権威主義からの国家対国民ではなく、アメリカ人の行動様式となっている個人の権威と自由に価値を置く個人主義が個人を相互に自律した存在となさしめていて、国家から独立した個人の存在性を高める目的からの「理想」を対象とすることとなっている「愛国心」ということではないだろうか。
但しアンドルー・ゴードン氏は記事の中でアメリカ人にも常に国家は正しいとする偏狭な国家絶対主義者が存在し、そのような国家を愛国心の対象としていることも指摘している。
安倍晋三も上記主張の後で、言ってみれば 「米国が持っている理想を重んじる」アメリカ人の姿勢に賛同する形で言及している。
「アメリカのような多民族国家においては、この国旗と国家は、たいへん大きな意味をもつ。星条旗と国歌は、自由と民主主義というアメリカの理念の下に集まった、多様な人々をたばねる象徴としての役割をはたすからである」――
アメリカ人は星条旗と国歌に「自由と民主主義というアメリカの理念の下に集まった、多様な人々をたばねる象徴」としての価値を与えている。そこに意味を置いた国旗・国歌となっている。
ということは、アメリカ人が星条旗という国旗、そして国歌に対するとき、彼らにとっては星条旗や国歌が象徴している「自由と民主主義というアメリカの理念」を確認する行為としていることを示す。
「理念の確認」はその理念を尊重し、重視していなければ不可能であろう。日本の愛国心が国家を対象としているのとは違って、アンドルー・ゴードン氏が「愛国心とは米国が持っている理想を重んじる気持なのだ」と指摘しているように「米国が持っている理想」を愛国心の対象としている、日本と米国の「国」対「理想」の構図に相互に連動する、国家を確認する日本の国旗・国歌行為に対するアメリカの理念を確認する国旗・国歌行為ということではないのか。
それとも日本の国旗・国歌(=日の丸・君が代)は国家以外に何らかの理念・理想を体現させていると言うのだろうか。体現させている理念・理想の確認行為が国旗・国歌行為だと言うのだろうか。
安倍晋三は同じ『美しい国へ』で<2004年のアテネオリンピックで、水泳の800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は、笑顔で表彰台に上ったのに、降りるときには大粒の涙を落としていた。
「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうだめでした」
日本人として健闘をたたえられたことが素直にうれしかったのだ。2005年モントリオールで行われた世界水泳選手権では、同じ種目で残念ながら3位に終わってしまったが、「日の丸を一番高いところに揚げて『君が代』を歌いたかった」と悔しがっていた。>と書き記しているように、国旗・国歌(日の丸・君が代)を日本という国家の象徴と規定し、その象徴によって自身を日本人だと再確認する記号としているというだけの話であって、その役目以外に如何なる理念・理想も象徴させてはいない。
安倍晋三はこのことに気づきもしないでアメリカ人と日本人の国旗・国歌に対する姿勢の表面的な違いだけを扱っている。
ただでさえ日本人は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性を行動様式としている。 現在のところは国家を愛する対象とした「愛国心」の上から下への義務付け、あるいは国家を象徴させているだけの国旗・国歌(「君が代」の場合、天皇の日本)への敬意の上から下への義務付けは無条件な国家性善を認知させる役目しかなく、それが例え強制に姿を変えなくても、上からの指示に下が無条件に従うこの場合の構図は国家の姿に対する合理的な客観的認識能力を奪う機能を持ち続けることに変わりはない。
日本の侵略を否定し、戦前の日本は総体的にはアジアに対して善なる姿を取ったとする田母神前航空幕僚長のように国の姿を過つこともない、当然負の歴史を刻むことのなかった日本を見続ける客観的な認識能力の欠けた日本人を増やすことになるだろう。
日本人がただでさえ考える力(=客観的認識能力)に欠けていると言われている状況にありながら、橋下府知事は国旗・国歌を認識させることでそのような日本人を増殖させようとしている。それを在るべき日本の教育だと主張している。
もし考える力(=客観的認識能力)を育みたいとするなら、愛国心のみならず、国旗・国歌からそこに埋め込んである無条件に性善だと規定している「国家」を外し、日本人のみならず、人類が共有できる何らかの理念・理想をそこに埋め込んでからにすべきだろう。
愛国心を言うとき、あるいは国旗・国歌に対するとき、米ハーバード大学教授の歴史学者アンドルー・ゴードンが言っているように「その国が掲げる(理念・)理想と現実のギャップをどう埋めるのか」の認識作業が必要となり、その作業を担う誰もが否応もなしに国家に対する客観的認識能力を高めざるを得なくなるに違いない。
権威主義国日本の場合、単純に日の丸に敬意を表せよ、君が代を声高らかに歌えと言われて、ハイそうですかと答えれば済むという単純な問題ではない。