10月27日の「毎日jp」が橋下大阪府知事の体罰を容認するかのような発言をしたと次のように伝えていた。
≪橋下知事:「手が出ても仕方がない」体罰容認?発言≫
<大阪府の橋下徹知事は26日、堺市内での府民討論会「大阪の教育を考える」で、「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と述べ、学校での体罰を認めるような発言をした。
約700人が参加し、綛山(かせやま)哲男・府教育長が教育政策案を紹介。ある府民から「学力向上に取り組むのはいいが、成果主義が過ぎると障害児の排除につながらないか」と意見があり、知事は「そんなことにはしない」と答えた。また知事は学校と地域の連携について「子どもを育てる責任は第一に家庭、第二に地域にある」とし、「子どもが走り回って授業にならないのに、注意すれば保護者が怒鳴り込み、頭を小突くと体罰だと騒ぐ。こんなことでは先生が教育をできない」と主張した。
全国学力テストの結果開示を巡っては、知事が「先生の9割は開示に賛成だが、ふたをしてしまおうという先生もいる」と話すと、会場から「ウソをつくな!」などのヤジが飛んだ。
終了後、知事は報道陣に「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と語った。一方、出席した府教育委員は「手を出すことは教育者にとって敗北を意味する」と食い違いを見せた。【平川哲也】>・・・・・・
マスコミは橋本知事の発言を報じたものの、深くは追及せず、その発言が尾を引くことはなかった。言っていることの正当性、あるいは有効性の議論は展開されなかったようだ。
また、「成果主義が過ぎると障害児の排除につながらないか」との疑義に知事は「そんなことにはしない」と答えたものの、「そうはならない」順を追った具体的な理由を述べてはいない。
「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と釘を刺したのは体罰ではなく、教育上の配慮だとしたかったからだろうが、相手の身体に与える罰則であることに変りはない。言葉のみの注意ではその行動を律するに力を持たせることができない無力を補う身体的な力の行使――体罰を指しているはずである。
橋本知事は際限もなく体罰を許すのではなく、「どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と一応は線引きしている。
だが、相手に怪我を与える体罰はいくら教師のすることであっても傷害罪に相当することになるし、怪我を与えずとも一定以上の恐怖与える体罰にしても精神の自由に対する束縛もしくは侵害となって「コンセンサス(合意)」不可能だろうから、怪我をさせない、恐怖を与えない範囲内の体罰を合意事項とせざるを得ない。
となると、橋本知事も言っているように軽く「頭を小突く」とか、あるいはかつて行われていたように少々痛みを感じても皮膚が赤くなる程度で済む突き出させた尻をズボン、あるいはスカートの上から物指しの類で叩くとかの体罰に限定されることになる。
その程度の体罰ならいいだろうと「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を得たとしよう。
だが、体罰を受けるのは生徒自身であって、「地域」の人間でもなければ「家庭」の人間でもない。生徒の承認も必要な「コンセンサス(合意)」だろうから、生徒との間でも「コンセンサス(合意)」を得た体罰ともなる。
合意し、内容が分かっている体罰が果たして有効だろうか。体罰を受ける生徒も、体罰を目にすることになる周囲の生徒たちも分かっている怪我を与えることもない恐怖を与えることもない予定調和内の体罰がどれ程の威力を持つと言うのだろうか。
生徒の中には自分の勲章とするためにわざと教室の秩序を乱して、どの程度か分かっている体罰を受けて得意がる者も出てくる可能性も生じる。
体罰を有効とするには本人にとって不名誉となる、あるいは恥となる身体的苦痛や恐怖を与えてその行動を体罰を与える側の制約下に置き、全面的に支配することが必要となるばかりではく、同時にその体罰が周囲の人間の見せしめとなって、彼らの行動をも律することが条件となる。身体的な力の行使による教室秩序の確立である。
いわば、「子どもが走り回って授業にならない」等の教室の無秩序を改善して秩序を回復する方策として体罰を利用することを前提とするなら、苦痛、あるいは恐怖を以ってして、生徒の行動を支配下に置き、律することが絶対必要条件となる。
但しそういった過度の体罰は例え教師が正しくて生徒が悪くても、相手の反撥を誘い、恨みを買うばかりで、教育的な効果という点では見るべきものは期待できないに違いない。
このような教師対生徒の関係は国家権力が国民の行動を恐怖政治で言いなりに律する関係に相応する。国家権力を批判する国民を令状もなしに政治犯として捕らえ、裁判もなしに収容所にぶち込み拷問を加える、それがいつ誰が対象となるか分からないその恐怖で以て国民を律し、支配する関係である。
かつて世に馳せた「プロ教師」なる人物・河上亮一は自身の著作の『学校崩壊』の中で「怖い教師が必要だ」と“恐怖”を授業秩序維持の力とすることの必要性を説いたが、プロ教師と自称するだけのことはあって「恐怖」こそが生徒の行動を律する最善の方法だと知っていた。もし河上亮一が中学校教師ではなく、国家権力の中枢を占めていたなら、何ら支障のない国家権力の遂行を目指す最善の方法を国民を恐怖で律する恐怖政治に置いたに違いない。「怖い指導者が必要だ」と。
だが、生徒に予測させない過度の体罰が「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を得ることができるかどうかというと、最初に述べたように傷害罪や脅迫罪と紙一重の体罰行為となりかねない危険性を抱えているゆえに、常識的には得ることは不可能であろう。
橋本知事は矛盾したことを言ったに過ぎない。そこまで考える力がないか、教育について何も知らずに言っているに過ぎないか、どちらかだろう。
ただ言えることは、小学校入学当初から教師の制止を聞かずに「子どもが走り回って授業にならない」無秩序を演じるわけではないということである。それが徐々に制止を聞かなくなり、最後には制止は単なる教師の形式的な義務と化す。あるいは制止もしなくなる。
今月11月の4日に川崎市川崎区の市立川中島中学校で校舎4階の教室から1年の男子生徒(12)が転落、死亡した事故にしても同じ構図の無秩序から生じ、たまたま最悪のケースに至った例であろう。
転落死亡した男子生徒は国語担当で担任の女性教諭がプリント配布中に他の生徒数人と遊んでいて、窓際の机の上に乗った際にバランスを崩し、開いていた窓から約12メートル下の校舎南側のコンクリート製通路に落下した(「日刊スポーツ」記事から)ということだが、プリント配布中ということは既に授業に入っていた時間帯である。にも関わらず、席に坐らずに他の生徒共に遊んでいた。窓際の机の上に乗るといったことさえしていた。教師の制止がもはや無効となっていて、制止があるなしに関係なしに動き回っていた様子が窺える。
権威主義の力が強く働いていて子供にとってまだ大人が怖い存在であった間は授業が面白くなくてもただじっと我慢して席に坐っていた。しかし大人が怖い存在ではなくなった現在、授業が面白くなければ、生徒は好き勝手な行動を取る。
教室の秩序を乱す好き勝手な問題行動は授業の面白さのなさの表現行為でもあろう。おとなしく坐っているかいないかの違いがあるだけで、授業に身が入っていない状況に変わりはない。
問題は体罰によって生徒の態度を律するのではなく、生徒たちの知識欲を満たす面白い授業で惹きつけることではないだろうか。
勿論のこと能力差や可能性の違いが存在する以上、すべての生徒の知識欲を満たす授業など不可能であろう。だが、体罰の方向に進むのではなく、例え困難なことではあっても、より多くの生徒の知識欲を満たす方向に進むべく努力すべきなのは確かなことだと言えるのではないだろうか。