もう20年か25年前のことだが、中学生の甥っ子が私自身には決して使わないのに友達同士で動作の否定の意思表示にごく自然に「行かねぇ」とか「見ねぇ」、「したくねぇ」と「ねぇ」で止める言い方をしていた。
いつ頃から言い出したか、あるいは流行り出しかは知らないが、今では小学校の低学年生までが使っている。私の中学生の頃、もう50年前にもなるが、否定の意思表示に「ねぇ」を使う生徒は不良か不良がかった生徒と相場が決まっていた。元々は堅気でない者(=ヤクザ者)の言葉であり、それを真似たチンピラ言葉だったからだ。
尤もヤクザといった堅気ではなくても、職人の中でも荒くれの部類に入る大人も使っていた。逆説すると、その言葉遣いから大体の素性が知れた。決してまともな子供、まともな大人が使う言葉ではなかった。
いわば「・・・・ねぇ」はその言葉を使うことによって自分がどのような素性の人間かを表現すると同時にそのような素性の人間が持っている力――正確に言うと暴力に頼った力を相手に示す言葉、威しを表現する言葉であった。
だが、今ではヤクザでもチンピラでもない荒くれた生活を送っているわけでもない当たり前の子供が使い、中には当たり前の大人さえも使っている。女子高生や女子中学生までが使う。幼稚園の子供まで使うのではないだろうか。
学校の成績でもスポーツでも特別に力を発揮しているといった話は聞いていないかったし、体力的にも痩せ型であったから、ごくありきたりの中学生といったところなのだろう。そのような中学生がかつてはまともではない素性の人間が使っていた言葉をごく自然に使っていた。
言葉は意思表示でもあり、欲求表現でもある。学校社会で学校社会が要求する力(テストの成績やスポーツの成績が決定づける才能)を持ち得ない目立たない存在をまともではない素性の人間が使っていた言葉を借りて、その種の人間が持っている力を自分も持っているかのように装わせて少しでも目立たせようとしていたとしたら、自分自身が学校社会では持ち得ない力への欲求(=力への憧れ)を言葉の表現で代償させていたということになるのだろう。
誰もが自分の住む社会で力を持ちたいと思う。力を発揮したいと欲求する。現在の情報社会ではそれぞれの社会で力を発揮する者がヒーロー、ヒロインとして持ち上げられ、持て囃される情報が飛び交い、そのことが逆に力を発揮できない者に力の発揮を強迫観念化することとなっていないだろうか。
ある一定の年齢に達すると、自身の無力を諦めて社会に妥協して生きるが、中学生や高校生、あるいは大学生等の若者のうち、これといって力を発揮できない者はそれぞれに将来を背負っているために情報が伝える力ある者と比較した自身の無力に焦りを覚え、本来的に課せられた力の発揮が不可能の代償に歪んだ力の発揮に走ったりする。
それが大麻を吸ったり、暴走族を演じたりの自己活躍となって現れているのではないだろうか。ヤクザとかチンピラ、あるいは荒くれた男たちといったまともではない素性の人間が使うものと相場が決まっていた言葉をその種の人間ではないのに使うことで力への欲求(=力への憧れ)を満足させる。それだけで終わっているとしたら、人畜無害と言ったところだろう。
だがである。日本の総理大臣が記者会見といった公の場で使っているとしたら、人畜無害で済ますことができるだろうか。単なる口癖――ざっくばらんな物言いと見られているようだが、一般の若者が使っているのと同じ効用を持たせた言葉遣いだとしたらどうだろうか。
どのように使っているか二、三例を挙げてみる。
先ず11月19日の全国知事会議で「医師には社会常識がかなり欠落している人が多い」と発言したことについてのぶら下がり記者会見での質問に次のように答えている。
「ああ、お医者さんになったオレの友達もいっぱいいるんだけれども、なんとなく、そう言った意味で、何となくちょっと、全然話とは、意見が、全然、普段からオレとは波長の合わねぇのが多いなと。友達が多いせいか、そう思っていまして。うちも医者、いっぱいいますから、そう思ってて。何て言っただって?ちょっと今覚えてねぇけど」(≪首相VS記者団≫「毎日jp」/08.11.19)
また同じぶら下がり記者会見で元厚生事務次官宅連続殺傷事件について問われて、
「この二つがいわゆる行政関係者を狙った、特定の役所のあれを狙ったというのがきちんと判明したという段階ではありませんから言いようがありませんけれども、もし二つの関係が明確になった段階においては、これは明らかにテロとみなして、これ断固たる処置を取る。当然のことだと思いますけれどねえ。ただ今の段階では単なる傷害か何とかってまだ決まってないんだろ?よく知らねえけど。だからその段階ではちょっとうかつなことは言えませんけど、これがテロだと、いわゆる二つの間に明らかに意図があったということがはっきりしたなら、断固たる処置を取るのは当然です」(同「毎日jp」記事)
ペルーのリマで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議後の記者会見(11月22日)の模様を伝える≪【麻生首相同行記者懇詳報】(下)小沢氏「この人の話、アブねぇなぁ」≫「msn産経」記事(2008.11.22 09:32 )からも窺うことができる。
「中堅、若手から早く2次補正を出すべきという意見も出ているが」と言う質問に対して、
「いろんな意見が出るのが自民党だ。北海道新聞では、いろんな意見出すというのは良くないことなんかねぇ。いろんな意見が出たとたん、リーダーシップがないとか、全然意見が出ない方がよほど問題なんじゃないかねぇ、フフフ…。ぼくはいろんな意見が出されてそれで決めるのがいいと思っているんで、賛成もあれば反対もある。
例えば、知事会見とかで定額給付金に反対と言ったら、いかがなものかと。そしたら、賛成だという話があったり、知事会というのはまともなんじゃないの? ぼくにはそう見えるねぇ。
昔の知事会というのは、だーれも発言しないで、どなたかご意見ありませんか?と言うと、1人だけ手を挙げて、それが鈴木俊一(当時の東京都知事)で、総理大臣の所信表明みたいで、みんなごもっともというんで、ほかにご意見ありません、ハイ終わり、って。意見がないならこんなものやるのは意味がないんじゃねぇかってあおったら、出た出た。
40代の知事もいっぱい出たので、ご意見ありますか、っていったら、みんなハイ、ハイ、ハイって出まして。いろいろ意見出るのはいいことだと思うんだがねぇ」
さらに同じ記者会見で、「会期の話だが、この間、民主党の小沢一郎代表から会談の申し入れを受け・・・」と聞かれて。
「あのー、気をつけてね、ぼくの言葉にあやつける前に、自分でしゃべっていることをよーく選んでくださいね。討論、会談じゃないんだからね。申し入れされるんだったら、少なくとも(国会内の)常任委員長室で、ということにはなりませんよと」
「小沢さんは2次補正予算案について『職を賭して』とか『常識の範囲内で結論を出す』とかという話があるが、今ひとつ信用が・・・・」と聞かれると、
「ハハハ、辞めるって? 私のほかに(河村)官房長官、(細田)幹事長がいて、向こうは小沢さんのほかに、鳩山(由紀夫)さんと山岡(賢次)と奥村(展三)というのがいたねぇ。合計7人の前で言った。
やっぱり、この人の話、アブねぇなぁと思うんじゃない?みんな聞いていたんだから、へへへ。とたんにみんな、やっぱりあの人の話あまり信用できなくなっちゃったなと、へへへ」・・・・・・
「あやつける」という言葉は最新版は知らないが、『広辞苑』(第二版)にも『大辞林』(第一刷)にも載っていない。ヤクザやチンピラ、その他の堅気でない者が粋がって使う言葉で、堅気が使う言葉のように一般化していなかったからだろう。「ケチをつける」とか「因縁をつける」といった意味だが、「を」を省くことはあっても、一般的には「あやをつけやがって」とか、「あやをつける気か?」、「あやをつけるな」といったふうに怒りの表現であり、上の者が下の者に向けるか、敵対関係にある者に向けた威圧を持たせた言葉として使われた。
かつてはヤクザやチンピラ、その他のまともではない素性の人間が使っていた言葉を、最近でも一般の堅気の生活を送っている人間が頻繁には使うとは思えない言葉を記者会見という公の場で使う。例えそれがマンガの影響だとしても、マンガの中で使っている人間と本人とは種類が違うのだから、言葉も区別しなければならないのではないかと思うのだが、区別がつかない程、バカではあるまい。
果してざっくばらんで砕けた物言い、口癖で済ますことができるだろうか。その他にも太字で示した言葉共々、本来の立場で発揮できない力への欲求を言葉の表現で代償させているということなのだろうか。
≪民主が仕掛けた党首会談のワナ 政府与党は苦渋の決断「会期延長」≫msn産経/2008.11.18 00:53)によると、11月17日の小沢・麻生党首会談は民主党幹部の一人が「9割は小沢氏が話していた。首相は借りてきた猫だった」と証言している。
それが身贔屓ではないことを同記事が証明している。<会談が小沢氏のペースだったことは麻生首相本人も認めている。17日夜、自民党総務会メンバーとの懇親会で首相はこう語った。
「突然、(会談を)持ち込まれ困ったよ。相手の意図も分からず、話を聞き置いただけだ」>――
「話を聞き置いただけだ」と言うのは疑わしい。≪党首会談やりとり要旨≫47NEWS/2008/11/17 22:51【共同通信】)を見てみる。
<麻生太郎首相と民主党の小沢一郎代表との党首会談要旨は次の通り。
小沢氏 首相が代わったら衆院解散・総選挙で国民の意思を問うのが筋だ。総選挙をせず「景気対策が必要だ」と言って決めた2008年度第2次補正予算案なのだから、早急に国会提出し(会期を)延長してでもやるべきだ。「選挙よりも景気対策」というのは国民に対する公約だ。
首相 今(編成作業を)やっている真っ最中だから明快に答えることはできない。出せるように努力している最中だ。
小沢氏 これまで協力してきたが、(新テロ対策特別措置法改正案の採決は)考えざるを得ない。
首相 2次補正予算案と給油法案とは全然関係ない。参院で決められた話を、党首が一方的に破棄するのは理解しかねる。2次補正予算案を提出すると、来年1月まで審議引き延ばしをするのではないか。
小沢氏 賛成はたぶんできないが、常識的な審議時間で、国会として結論を得る。代表として私の責任で約束する。審議をいたずらに引き延ばすことはしない。提出時期は、できるだけ早く結論を出してほしい。>――
決して「話を聞き置いただけだ」には見えない。それを「話を聞き置いただけだ」としなければならないのは、お互いの言い合い・主張のぶっつけ合いで総理大臣として、あるいは自民党代表として対等以上の力を発揮しななければならない立場にありながら、対等以下の力しか発揮できなかった、受身の姿勢を取らされたから、「話を聞き置いただけだ」と誤魔化さなければならなかったと言うことであり、その勢いの差が「9割は小沢氏が話していた。首相は借りてきた猫だった」といった比喩となって表れたのではないだろうか。
このことは「政局よりも経済」と言いつつ解散を避けてきながら、2次補正予算案を出せないでいることからも理解可能な、余儀なくされている受身の姿勢といったところなのだろう。
ヤクザとかチンピラといったまともではない素性の人間が堅気の人間に使う場合はその素性を知らしめるサインであると同時に威圧を持たせていた言葉を素人が使うのはその種の人間が持つ力への欲求(=力への憧れ)からではないかとする私自身の判断に従うとするなら、麻生首相が使うのはまともではない素性の人間が持つ力ではなくても、現在発揮できていない力の代わりとなる力への欲求(=力への憧れ)がやはりあるからではないだろうか。
麻生首相は10月発売の月刊誌「文芸春秋」に『強い日本を!私の国家再建計画』と勇ましく題した論文を書いているということだが、2008年10月9「asahi.com」記事≪冒頭解散考えてた 月刊誌に首相寄稿、情勢変わり修正≫がその内容の一部を伝えている。
「国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢(民主党)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う」
「私は決断した。・・・本来なら内政外交の諸課題にある程度目鼻を付け、政党間協議の努力も尽くした上で国民の信を問うべきかもしれない」
「私と小沢氏のどちらがそれに足る国のトップリーダーなのかを国民に審判していただく戦い。・・・・堂々の戦いをしようではないか」
結びは、「私は逃げない。勝負を途中で諦(あきら)めない。強く明るい日本を作るために」・・・・・
題名も勇ましければ、中身も勇ましい言葉で“宣戦布告”している。勇ましい言葉通りにどちらが政権につこうが、早い時期に決着をつけて民意を背景に「強く明るい日本を作るために」、経済政策に専念させるべきだった。
『強い日本を!私の国家再建計画』に散りばめた言葉のすべては首相就任後の支持率頼りの強がりでしかなかった。今以て支持率低下という民意に右往左往している。
強がりとは真の強さを持たない者がさもあるように装う見せ掛けの強さに過ぎない。麻生首相の「決まってないんだろ?よく知らねえけど」とか、意味がないんじゃねぇかって」、「あやつける」 、「アブねぇなぁ」といった、かつてはまともな素性ではない人間が専門としていた言葉を使うのは、最近の子供たちが自分が持たない力への欲求から日常的に使っているように、現在は首相の立場としての力を発揮し得ていない不足を補う力への欲求(=力への憧れ)が言わせている言葉の数々ということではないだろうか。
だからと言ってこの種の言葉を使うのは幼稚さと幼稚さゆえの強がりを示しているに過ぎない。
首相になる前から口癖にしていたと言うことなら、どのような立場でも真の力を発揮していたわけではなく、口先だけの強がりでその時々の立場を維持してきただけと言うことなのだろう。だから、余分なことまでペラペラと喋る、口の軽い首相だと批判される。
「日本は侵略国家ではなかった」とする趣旨の論文を投稿して10月31日(08年)に更迭された前空幕長田母神俊雄が今年の4月に航空自衛隊のイラクでの輸送活動を違憲とする名古屋高裁判決が出た際、政府が判決を無視する姿勢を示したことに同調したのだろう、但し記者会見で「そんなの関係ねえ」という言葉で無視したが、否定語に「・・ねぇ」を使っている。
政府が無視する以上、控訴して最高裁で争う機会はなく、自分の力では高裁の判決をひっくり返すことが不可能な上、立場上論理的反論の機会も奪われていて、その無力を誤魔化すためにまともな素性ではない人間が専門に使っていた言葉で強がって見せたのではないだろうか。内心に威圧を隠して。